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2015年月5月24日
続けよう
(新約聖書 テモテへの手紙第一 4:7〜8)
すべてに有益なこと

『俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今の命と未来の命が約束されている敬虔は、すべてに有益です。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 4:7〜8)

   今も昔も天変地異などが起こると、何の根拠もない空想話がまことしやかに流れるものです。どんな時も、聖書の教えとは関係のない、偽りの教えに惑わされないようにしましょう。そのためには、敬虔な信仰を持つことが有益です。敬虔のために自分を鍛錬するとは、神を畏れ敬う信仰を育てることです。それは、神の永遠のいのちを持っていることを心から信じることです。「今の命と未来の命」とは永遠のいのちのことです。
   イエス・キリストは、キリストを信じる者はすでに永遠のいのちを持っているのだと繰り返し語っておられます。永遠のいのちとは、御霊の体のことです。イエス様は、永遠のいのちである御霊の体を受け取ることを、「神の国の到来」とか「キリストと共に生きている」と言われました。御霊の体は、将来天国で受け取るのものではなく、すでに私達の内側に存在しており、今は肉の体に隠れて見ることができませんが、私達の内側で成長し続けています。私達は、肉体の死を迎える時に、脱皮のように肉の体を脱ぎ捨て、御霊の体だけの姿になって天に帰ることになります。
   イエス様は、「私を信じるならば死んでも生きる。」あるいは、「私を信じる者は死ぬことがない。」と言われました。それは、私達が肉体の死を通過する時も永遠のいのちを受けた魂は死ぬことがなく、そのまま天に帰るということです。つまり、イエス・キリストを信じる者にとって、死はすでに滅ぼされており、意味のないものです。このことを知るならば、どんな患難も、死の恐怖も、私達を失望させることはできません。私達の魂は神によって捉えられ、誰も神と引き離すことができないのですから、何も心配する必要はありません。これをはっきりと信じることが、人生のすべてに有益なのです。
   私達が、神の国に入ってキリストと共に生きているというこの恵みを受けることができたのは、イエス・キリストがご自身のいのちを捧げてくださったことによるものです。神は私達にすべての物を与えてくださったので、もうこれ以上私達に与える物は残っていません。それなのに、私達はなかなかこの恵みの素晴らしさに気づきません。放蕩息子のたとえに登場する兄は、放蕩の限りを尽くして帰ってきた弟が大宴会を開いて迎え入れられたこと対して、つぶやき、文句を言いました。兄は、これまで父なる神と常に共におり、神と共に暮らすという素晴らしい恵みの中で生きていたのですが、その恵みに気づかず、弟に与えられた物を見て見えるものに目が奪われ、自分と比較し、自分は弟ほど愛されていないと思ってしまったのです。
   私達は、神の永遠のいのちを与えられ、いつも神と共にいることができ、神のものをすべて与えられるという恵みを受けています。ところが、多くの人がそれに気づかず、見えるものに一喜一憂してつぶやいてしまうという問題を抱えています。永遠のいのちの素晴らしさを知り、それがすでに与えられているという事実にちゃんと気づきさえすれば、すべての問題は解決するのです。
   イエス・キリストは、ラザロという男性が死んだとき、その姉妹マルタに「ラザロはよみがえる。」と言われました。この時マルタは、伝統的解釈によって「終わりの日に彼がよみがえることを信じています。」と答えたのですが、イエス様はそうではなく、「私を信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない。このことを信じますか。」と言われました。つまり、イエス様は、はっきりと「彼は死んでいない。」と言われたのですが、誰もそのことを信じませんでした。このことに対して「イエスは涙を流された。」と記されています。そしてイエス様はラザロをよみがえらせ、ラザロは死んだのではなく神の国で生きていたことを見せてくださったのです。(新約聖書 ヨハネの福音書 11章)
   私達は、イエス様を信じた時点で永遠のいのちをいただいたので、死ぬことがありません。私達にとって死は無用のものであり、死を心配する必要はなくなりました。これが、「今の命と未来の命」が約束されているということです。このことを正しく知ることが、人生のすべてに有益なことです。神は私達に、死に対して間違った感情を持たないように教えておられます。

『このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに価することばです。私達はそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 4:9〜10)

   永遠のいのちを持っているという信仰こそ、すべてに対して有益です。ですから、この真実を人々が受け入れるためにパウロは苦心して働いているのです。イエス・キリストは、「私がこの地上に来たのは、羊がいのちを得、それを豊かにするためだ」と言われ、私達が永遠のいのちを手にし、そのいのちが自分の中で成長を始めていると気づくことを、願っておられます。これを妨げているものが罪です。イエス・キリストは、罪とは世の心遣いと富の惑わしだと教え、これが心に覆いをかけているために、永遠のいのちを持っていることの素晴らしい恵みがわからないのだと言われました。
   私達が永遠のいのちを持っているなら、誰も神の愛から私達を引き離すことはできないとパウロは教えています。また、イエス・キリストご自身が、永遠のいのちを持っている者は二度と滅ぼされることはなく、決して死ぬことはないと繰り返し語っておられます。ラザロが復活したのは、私達は肉体が終わる時に死ぬのではなく、生きたまま天国に上っているということを教えるためです。
   キリストを信じるなら死とは無縁になったのだという事実こそ、素晴らしい希望であり、すべての土台、すべてのことにとって非常に有益な真実です。

賜物を生かす

『これらのことを命じ、また教えなさい。年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 4:11〜13)

   この世では、年長者を敬うものですが、神の国では人間の上下関係という概念はありません。神の国で大切なことは、神を信じる信仰です。大人だからといって立派なわけではなく、多くの大人は、子どもの時のほうが素直に神を信じていたと反省する面があるものです。イエス様は、幼子のように素直に神を信じなければ、神の国に入れないと言われました。永遠のいのちを持って生きていることを素直に信じなければ、いつまでたってもつぶやき続ける人生から解放されません。若い人は、素直な信仰を活かして信者の模範となることができます。若いからといって軽んじられることのないように、模範となることを目指しましょう。

『長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 4:14〜15)

   「按手」とは手を置いて祈ることで、「預言」とは、未来を予言することではなく、聖書の言葉の意味が自分の魂に届くことです。つまり、ここで教えられていることは、長老たちに手を置いて祈ってもらった時に、聖書の言葉によって示された自分の賜物を軽んじてはいけないということです。
   私達の心がしっかりと神に向くなら、自分の賜物が見つかります。聖霊が与えてくださる賜物とは、キリストの体なる教会の働きに役立つものです。私達はキリストの体として集められているので、キリストの体を建て上げるために、全員に何らかの賜物が与えられています。神様は、すべての人が体にとって必要な器官としての役割を担って欲しいと思っていらっしゃいます。キリストの体を建て上げる働きというと、目に見える働きや奉仕を想像しがちですが、教会は様々な働きを必要としています。教え、とりなし、捧げる、いやし、祈り等、様々な賜物があり、そこに地位や優劣はありません。賜物は、努力して手に入れるものではなく、神様から一方的に与えられるものです。キリストの体には自分がなすべき役割があって、神が自分を呼んでくださったのだと理解できれば幸いです。自分は何ができるかに気づいて、神様が与えてくださった賜物を見つけ、その賜物を生かして用いましょう。自分の賜物がわからない、何をしたらいいのかわからないという人は、人々のために祈ることから始めましょう。教会の働きの第一は宣教です。家族や友達の救いのために祈るということは、教会に働きに参加しているということであり、教会で賜物を生かすことのベースになります。

やり続けよう

『自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 4:16)

   賜物を発見したら、実行し続けましょう。続ける事によって、多くの実を結び、あなたの周りで救われる人が起きます。継続は力です。クリスチャンとして続けるべき基本を確認しましょう。

1祈り
   困ったときだけではなく、毎日祈りましょう。クリスチャンは、食前の祈り、朝の祈り、寝る前の祈りなどを捧げる習慣がありますが、祈りとは、ただ形式的に手を合わせることではありません。その本質は神への応答です。神は常に私達に対して呼びかけておられます。その呼びかけや恵みに答えることが祈りの本質です。ですから、賛美すること、聖書を読むことなど、何らかの形で神に応答することはすべて祈りと言えます。
   神様は常に私達と一緒に生活してくださっています。顔を合わせている相手を無視するようなことをしてはいけません。無視とは反応を示さないこと、無関心のことで、愛の反対です。神を愛するとは、神に心を向けて、神に応答することです。愛とは関わりを持つことで、心理学の上では、ポジティブな関わりもネガティブな関わりも愛と定義されます。
   神からの呼びかけに応答するという関わりの中で、最も素晴らしい応答は感謝です。何があっても「主よ、感謝します。」という応答を日々の生活の中で習慣づけましょう。最初はつぶやいたりすることもあると思いますが、日々「感謝します」という告白をあきらめずに続けていくならば、感謝が習慣となっていきます。
   親子の関わりにおいても、子どもの時は親に何かしてもらうことしか考えないものですが、成長して親の苦労が分かるようになると、親に感謝するようになります。神様と関わりも同じで、成長すると神様への感謝があふれるようになります。私達はやがて成長しますから、今から成長を先取りして、神様に感謝を口ずさみましょう。
   また、祈る時には、自分のことよりも先に他の人のことを優先して祈ることを心がけましょう。こうして、祈りが聞かれることを体験し、神との関わりを保ち続けましょう。

2.聖書を読む
   一日一回は聖書を開きましょう。たとえ聖書を開かなくても、御言葉を暗記して思い起こし、神の言葉をしっかり食べましょう。
   私達の中には助け主なる聖霊様がいて、御言葉を食べさせてくれますから、聖書を読み続けていくなら、霊的な意味を悟ることができるようになります。そうして、まことのいのちの宝を手にすることができ、神の言葉で助けられ、支えられ、神の言葉がどれほど素晴らしいかに気づくことができます。そのために必要なことは、日々の生活の中で聖書を開くことです。
   アメリカの大統領だったリンカーンは、奴隷制度を撤廃し、自由と平等の基礎を作り、世界に民主主義を広めるという大事業を成し遂げました。その背景にあったのは、毎日の祈りと御言葉です。彼は毎日聖書を読み、祈り、友人にも熱心にそのことを勧めています。奴隷解放を目指した南北戦争が劣勢だったとき、彼は御言葉によって励まされ、全国民に対して共に祈るように呼びかけて、祈りの日を設定しました。その後、戦況は好転し、奴隷解放に至りました。
   御言葉というものは、頭で理解しようとしなくても、読み続ければ御霊が分かるようにしてくださいます。リンカーンは『この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。』(旧約聖書 詩篇 34:6)という御言葉が自分を支え続けたと証ししています。もし、リンカーンが聖書を読まなければ、この御言葉に出会うことはありませんでした。神に導かれて生きた信仰の先輩たちは、必ず自分の心を支えた御言葉を持っています。聖書には魂を慰め励ます御言葉が山のようにあります。聖霊によって御言葉を食べることができれば、大きな力となります。

3.伝道
   神が教会を作った目的は宣教のためです。教会の使命は、一人でも多くの人が救われるために、福音を語り、伝道することです。教会とはキリストを信じる人々の集まりのことです。救われ、福音を語るために、私達は神様に集められているのです。
   家族や友達に福音を語り続けても、なかなか実がならないと伝道が無駄に思える時もあるかもしれません。しかし、あきらめずにやり続ければ、必ず救われる時がやってきます。イエス・キリストは、不正な裁判官に向かって裁判を訴え続けたやもめのたとえ話を通して、あきらめないことの大切さを教えています。(新約聖書 ルカの福音書 18章)
   神があきらめずに語り続けるように教えているのは、私達の忍耐を養いたいからです。あきらめずに祈り、語り続ける事によって、神を信頼する信仰が育ち、真の希望を手に入れることができます。私達が約束のものを手に入れるのに必要なものは忍耐だと聖書は教えます。祈り、聖書を読み、福音を語る、この三つをあきらめずに続けましょう。