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2015年月5月10日
「監督を目指そう」
(新約聖書 テモテへの手紙第一 3:1〜)
つらさをどのように解決するか

『「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。 ―自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう― また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 3:1〜7)

   これらの教えは、教会の中で監督の職につく者に対して語られていますが、すべてのクリスチャンが目指す方向を示しています。ですから、自分は監督や執事を目指しているわけでないから関係ないと思ったり、監督の職にある人の行いを判断するために御言葉を利用するのではなく、自分の目指す道として受け止めましょう。
   クリスチャンが第一に気をつけるべき点は、教会や家庭の中で非難されるような生活をしないことです。家庭は教会の最小単位です。家庭の中で、夫として妻として親として子としての役割があり、教会の中で教会員としての役割があります。互いに負担を負い、きちんと役割を担って非難される生活をしないようにしましょう。
   また、一人の夫に対して妻が一人なのは、現代の先進国では当然のことと受け止められていますが、これは聖書の教えによるものです。今の私達に当てはめるならば、浮気をしてはいけないという教えです。それは様々な問題を生み出し、家庭を崩壊させます。浮気をせず、自分を律し、つつしみ深くし、教える者となれるように目指しましょう。
   リーダーは自分の家庭をよく治める人でなければならないとは、社会でもよく引用される教えです。人を治めるには最小単位である家庭を治めることが重要です。家庭をないがしろにして働き、いい仕事をしているように見えても、実はできていないものです。
   次に飲酒の問題です。クリスチャンは、聖書の教えによって、お酒を飲まないことが伝統になっています。これは律法ではありませんが、聖書はお酒を飲むことの問題点を教えているのです。なぜなら、人がお酒を飲む理由の多くは、うっぷんを晴らすためです。言葉を換えれば、つらさをお酒に逃げるわけです。実は、多くの妻をめとるのも、暴力を振るうのも、金銭への執着も、つらさのはけ口を見えるものに求めるという共通の動機があるのです。
   このことがわかると、聖書が教えていることは単に行動を規定するためのものではなく、つらさをどのように解決するのかという点が問題にされていることがわかります。私達のつらさを解決できるのは、見えるものではありません。お酒でつらさを解決することはできないことは、酒飲みが一番よく知っています。つらさを解決できないから何度も酒に逃げ、ごまかして生きるしかないのです。聖書は私達に、このような生き方をやめ、心を神に向け、つらさの根本原因に対して本当の解決を求めるように教えています。


悪魔のわなとは

   救われたばかりの人をリーダーにしないのは、高慢になる危険からその人を守るためです。同様に、教会外でも評判の良い人を選ぶのは、その人が悪魔のわなに陥らないためです。

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10〜11)

   サタンの策略と悪魔のわなとは同じことを意味します。つまり、悪魔のわなとは、人を赦さない、赦せないという怒りのことです。教会外での評判が悪いと、批判を受けたり、悪口を言われたりすることもあるでしょう。そんなことがあると、私達はつい腹を立て、言い返したりしてしまうものです。こうして、相手をさばき、赦せない、いつか見返してやる、仕返ししてやる、と心の中に怒りが生まれます。これが悪魔のわななのです。
   心の中に生じた敵意は、争いや様々な悪い行いを誘発します。人は、一度誰かを憎み始めるとなかなかそこから抜け出すことができません。聖書が、何を言われても「さばいてはいけない」「赦しなさい」と教え、見返りを求めずに人と接しなさいと教えるのは、あなた自身が悪魔のわなに陥らないためです。そのために、敵を愛し、赦すことが教えられているのです。人には悪口を言われると腹を立てる弱さがあります。人をさばき怒るという罪から守られるため、評判の良い人でいなさいと聖書は教えているのです。教会では一生懸命頑張るが、教会外ではなまけたり、いい加減にする等、教会と教会外での態度に二面性があってはなりません。


つらさの根本原因を解決する

『執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 3:8〜13)

   「謹厳」とは、真面目で軽はずみではないということです。二枚舌は人に良く思われたいと願いから生まれ、不正を働くのは富を手に入れたいと願うからです。そして、酒を飲むのは、前述の通り、つらさと向き合わずに逃げようとする行為です。また、婦人執事についての教えで「威厳がある」とは立派そうに振舞うことではなく、悪口を言わないことです。昔から女性は井戸端会議が好きなものですが、その内容にはよくよく注意しなければなりません。さらに、すべてにおいて忠実なことが求められます。具体的には家庭の中での役割を果たし、子どもと家庭を良く治める人であるということです。
   男性には、二枚舌を使わず、不正を行わず、大酒を飲まないようにということが注意され、女性には悪口を言わないことが注意されているのはどうしてなのでしょうか。それは、これらの行為が、すべてつらさのはけ口であり、問題の根本原因から目を背けることになるからです。
   人がつらいと感じるのは、自分には価値がないと思った時です。そこで、人から良く思われることや富を手にすることで自分の価値を見出そうとしたり、酒を飲んでつらさと向き合うことを避けようとしたり、悪口を言うことで相手の価値を下げて自分が優位にあることを無意識に示そうとしたりしているわけです。そして、つらさから逃れようとして、心地よさや楽しみを求めて生きるのですが、こうした行為はつらさを根本的に解決することができませんから、つらさから完全に逃れることはできず、またつらくなり、つらさを別の行為に転嫁することを繰り返します。
   この生活から脱出するには、根本原因を見出して、見えるものでつらさを解決しようとする生き方をやめなければなりません。聖書は、そのために、私達がつらさとどのように向き合えば良いか、クリスチャンが目指すべき生き方を教えています。
   私達のつらさの根本原因は、自分の価値が見えないところにあります。それは、神との関係か断ち切られ、神に愛されている自分が見えなくなったことが原因です。人は生まれながらに自分が何者なのかわからないという不安を抱え、常に自分の価値を求めて生きています。この恐れや不安を、聖書は死の恐怖と呼んでいます。死とは神との関係が断ち切られた状態のことです。
   本来、神は、愛するため、良きものとして、人を造りました。人間は皆、神によって素晴らしいいのちを与えられた愛される存在です。ところが人は、神との関係を失った結果、自分が何者なのわからなくなり、自分の価値が見えなくなって不安で仕方ないので、見えるものにしがみついています。この現状を打破する第一段階は、私達が神を信じて神との関係を回復することです。そして、第二段階として、自分が神にどれだけ愛されているのか、自分がどれほど素晴らしい価値のある存在なのかに気づく必要があります。
   聖書は、このことに気づく手段として、自分の罪を言い表すように教えています。どんなに告白しにくい罪であっても、神はあなたの罪を無条件で赦すと言っておられます。そのことを真に知るならば、自分がどれだけ愛されているかに気づき、つらさの根本原因はそこで解決されます。聖書は、「まったき愛が恐れを締め出す」と教えます。神のまったき愛だけが私達を恐れから解放し、つらさから解放してくれるのです。
   そのために具体的に行うことは、神に助けを求めて祈ることです。お酒や人からの評判や金銭などの見えるものでごまかしそうになった時には、「神様助けてください」と本気で祈れば、必ず解決します。神の前に出て祈ることをしないで、見えるものに手を出してしまうから、何度も同じことを繰り返してしまうのです。そうすると、少しも問題は解決しません。
   あなたがつらいのは、周りの人や環境のせいではありません。あなたの問題は人には解決できないということに、あなたが気づいていないことが問題なのです。私達は神のいのちを持っており、ひとりひとり霊を持っている存在ですから、このつらさは人には解決することはできず、ただ神との関わりの中でしか解決できないのです。
   そのことに気づき、神との関わりを求めて問題を解決しようとする生き方こそ、クリスチャンが目指すべき生き方です。ですからイエス・キリストは、「あなたの重荷を私のところに持ってきなさい。私が下ろしてあげよう。」と言われたのです。
   つらくなったら、どんなことでも神様に祈りましょう。その時、あなたは神様から一切責められることなく、愛されていることを感じるでしょう。そして神様が自分を愛していると感じれば感じるほど、私達の中からつらさは消えて行き、人に対して優しくなり、親切にできるようになります。


人を愛する生き方

   このように聖書を読んでいくと、クリスチャンが目指す方向とは、人に対してどのように関わるかという方向に向かっていることに気づきます。神に対する信仰は、人との関わり方抜きに語ることはできないのです。
   私達はこの世界に生きている以上、この世界の人々との関わりを通して、神を知り、神との関わり方を学び、神の愛を持つようになるのです。人との関わりを無視して神だけ愛するということはできません。聖書が「目に見える兄弟を愛せないものは、目に見えない神を愛せない」と教える通りです。長い時間祈っても、熱心に賛美しても、目に見える兄弟を愛せなければ、神を愛することはできません。私達は、人との関わりを通して初めて正しい信仰を持つことができるようになります。

『私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:18)

   信仰とは、神を信頼し愛することであり、良心とは人に親切にし優しくすることです。信仰は良心と共に成長します。つまり、真に神を愛し、神に従おうと思うなら、目に見える兄弟を愛し、親切にしなければなりません。そして、同時に、なすべきことをしっかりと行わなければなりません。婦人執事がすべてにおいて忠実であることを求められている通り(Tテモテ3:11)、小事に忠実でなければならないのです。

『小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』(新約聖書 ルカの福音書 16:10)

   自分が神のために何ができるか、何をすべきかを考えるならば、与えられている仕事をきちんと行うことです。それが小事に忠実であるということであり、神を愛して信頼することなのです。学生ならば学生としてなすべきことをきちんと行い、子どもならば部屋の片付けやお手伝いなど家で与えられている役割をきちんと果たすことが、神を信頼して愛することにつながります。小さなことに対して忠実に生きることが、神に対して取るべき態度であり、この世に対して取るべき態度です。小さなことを忠実に行うことで信仰も成長し、大きなことにも忠実になれます。私達はいきなり成長するわけではありません。それぞれの成長の過程で役割がありますから、ぜひそれを見つけて実行しましょう。