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2015年月5月3日
「根本治療」
(新約聖書 テモテへの手紙第一 2章)
すべての人が救われて真理を知るために

『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 2:1〜4)

   聖書は、威厳を持って平和で静かな一生を送るために、すべての人と高い地位にある人のために祈り、とりなし、感謝の心を持つように教えます。
   その理由の第一は、神がすべての人が救われることを望んでおられるからです。そのためには、一人一人が神の救いを受け取らなければなりません。ノアの時代、箱舟に乗った人は助かり、乗らない人は助かりませんでした。この箱舟に乗るか乗らないかを判断するのは、自分自身です。神の恵みは、太陽の光が降り注ぐように、すべての人に注がれています。しかし、その人が恵みを受け取ろうとしなければ受け取ることができません。すべての人が神の恵みを受け取ることができるように、祈り、とりなし、福音を伝えることを主は願っておられるのです。
   第二に、私達は、自分がうまくいかなくなると、社長のせいだとか、先生のせいだとか、政治のやり方がまずいせいだとか、高い地位にある人や世の中に対して怒りを持ちやすいからです。このような時、その相手の人々のために祈るということは、自分の中にある怒りと戦うことになります。「すべての人のために祈る」とは、自分が嫌いな人のためにも祈るということです。そうすることによって自然と怒りは収まり、一生平安な暮らしができるのです。
   このように、すべての人のために祈ることは、相手の救いのためばかりではなく、自分自身の怒りを収めることにつながります。権威に腹を立てるのは人の常ですが、その人々のために祈ることによって、私達一人一人が平和な暮らしに導かれます。この手紙は、人々のために祈ることを教えながら、自分自身に対しては、は怒りとの戦いというテーマがその根底にあるのです。

『神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ―私は真実を言っており、うそは言いません―信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 2:5〜7)

   イエス・キリストこそが、神と私達の間を取り持つ仲介者であり、私達を弁護してくれる方です。神ご自身であるキリストが、人となってこの地上に来られ、私達と同じように体を持ち、罪を背負ってこの地上で生きられたのは、ただ私達を救いに導くためです。キリストは、人の目線で人の苦しみを理解し、どうすれば人々を神のもとに連れ戻すことができるのか、その目的の実現のために十字架にかかられました。それは十字架にかかるほどにあなたを愛していると示すためです。
   パウロはその福音を伝える働きをするために神に選ばれました。パウロはこの働きを「宣伝者」と表現しています。

『ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 2:8〜11)

「男は怒ったり争ったりせず、女はつつましい身なりをするように」とは、これまで述べられてきたことと一見関連がないように思われますが、そうではありません。私達を苦しめている怒りといかに戦い、平安を得るかという、この手紙のテーマに対して、具体的に怒りと戦う方法が述べられているのです。

『私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 2:12〜15)

   これらの教えは、パウロが自分自身の考えを述べたものです。パウロの基準は、どうしたら人々が福音を聞いてくれるか、どうしたら救われるかという点にありました。つまり、これらが語られている意図は、『すべての人が救われて真理を知るようになる』(新約聖書 テモテへの手紙第一 2:4)ために、人々がつまずくようなことはしないようにということです。この時代は女性が教えることはなかったため、相手に神のメッセージを聞いてもらいたいという願いから、当時の慣習にならい、相手をつまずかせる行動は避けるようにと教えているのです。ここで注意しなければならないことは、聖書を解釈するときには、その意図や意味を理解して適用しなければ、間違った聖書理解に陥ってしまうということです。ここは、具体的に福音を伝えていくための考えが述べられている箇所であり、それをただ字義通りに受け取って現代もこのような指導をしてしまうと、それは単なる律法主義でしかありません。


怒りとの戦いとは何か

   さて、パウロは、男性に対して「怒るな。争うな。」と命じ、女性に対して「服装に気をつけるように。」と教えています。実はこれらは同じ根から出ている問題です。なぜなら、怒りも、うわべを美しく着飾ることも、神が見えない恐れが原因で生まれているからです。神との関わりを持たず神が見えない状態が、聖書が教える「死」です。この死の恐怖から逃れようとして、私達は的外れな行為をし、結局自分自身を苦しめてしまっています。聖書は、私達をつらさや苦しみから救い出すために、根本原因である「死の恐怖」という問題を解決しようと教えているのです。
   体の具合が悪くなった時、病気の治療には対症療法と原因療法の二通りがあります。熱が出たら熱を下げ、咳が出たら咳を止めるという、表に出てくるつらさを解決するのが対症療法であり、熱や咳の原因を探って根本原因を治療するのが原因療法です。聖書は、私達を苦しみから解放するために具体的な行いを命じている対症療法的な表現もあり、同時に、病気の根本をピンポイントで直すことによってもとの健康な状態に戻すよう、根本的な原因をも示してもいます。
   「怒り」は、表に現れて私達を苦しめる具体的な症状です。怒りや敵意を感じる時、人はつらさを感じており、それが人に当たったり、悪い行いをすることにつながって、ますますつらさを生み出します。この怒りが生まれる根本原因は律法であると、聖書は、はっきりと教えています。
『律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:15)

   聖書は、律法が怒りを生み出し、悪い行いを生み出すと教えています。律法とは、自分の心の中にある「〇〇ねばならない」という心を拘束する規定です。例えば、「夜は静かにしなければならない」という規定を心に持っていた場合、夜間に騒音を立てて走り回る暴走族に対して怒りを感じます。ところが、この心の規定を取り払ってしまうと、同じ出来事に対して怒りを感じなくなります。もし、暴走族の音が聞こえた人には1万円が支払われるという条例が出来たら、暴走族の音に腹を立てる人は激減することでしょう。このように、怒りとは律法が生み出すものなので、自分の中の律法を変えることによって、怒りを消し去ることができるのです。
   では、なぜ人は律法を持つのでしょうか。それは、罪の力によります。罪の力とは、神ではなく見えるものに心を向けて安心を得ようとする力のことです。聖書が教える罪とは神に心を向けないことであり、そのために神からの平安が得られず不安な心を見えるもので安心させようとすることが罪の力です。この力が律法を作ります。
   人からの安心を得るためには、人から愛され、人からよく思われる必要があります。そのために、「○○すればよく思われる」「○○すれば悪く思われる」という様々な基準が生まれ、その基準で人や自分をさばき、人の価値を判断するようになりました。
   ここで注意すべき点は、人が集まって生活するには、ルールが必要ですから、ルールそのものが悪いわけではないということです。しかし、そのルールで人の価値を判断することが問題なのです。私達は、ルールを守らない人に対して、守るように指摘するだけに留まらず、悪い奴だと腹を立てたり、どうしようもない人だとさげすんだりして、すぐにその人の価値に結びつけようとするものです。これが私達の中にある罪の力です。
   私達の問題は、すべての価値を見えるものに見出して安心しようとするところにあります。その価値を判断する基準が律法です。ところが、いくら見えるものにしがみついて律法で価値を得て安心したとしても、それは一時的なものであり、むしろ怒りを生み出して私達を苦しめています。罪の力とはこういうものです。
   では、罪の力はどこから生じているのでしょうか。なぜ人間は見えるものにしがみついて生きるのでしょうか。それは死のとげによると聖書は教えています。
   死とは神との関係がなく神が見えない状態のことです。生まれながらに死んでいる私達は、自分が何者かわかりません。自分を愛してくれている神がわからないために、自分が愛されていることがわかりません。この不安や恐怖が「死のとげ」であり、これが私達の中で罪となり、罪の力が私達を見えるものにしがみつかせ、ねばならないという律法になって、怒りや違反を引き起こしているのです。


つらさを根本的に治療する

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   これが、聖書を読み解く鍵となる御言葉です。私達を苦しめているのは怒りです。怒りは律法によって生まれ、律法は罪の力によって生まれ、罪の力は死のとげによって生まれました。つまり、「神と関わりがない」という「死」の状態が、「不安や恐怖」という「死のとげ」を生み出し、神を知らないために神に心を向けることができないことから、この「不安や恐怖」を紛らわすために、「神ではなく見えるものに目を向けて安心を得よう」という力が生まれます。この「罪の力」が、「〇〇ねばならない」という「律法」を生み出し、「律法」が「怒り」を生み出して、私達を苦しめているのです。
   死に対する恐怖は、潜在意識の中に存在するため、私達はこの存在を認識できません。病に例えるなら、怒りという痛みがあることはわかっても、その根本原因は自分では認識できないということです。イエス・キリストがこの地上に来られたのは、私達が怒ったり腹を立てたりする根本原因である死の恐怖を取り除き、根本的にこの痛みを消し去り、癒すためです。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14,15)

   イエス・キリストは、死の恐怖の奴隷となった私達を解放するために十字架にかかってくださいました。表面的な対症療法を繰り返しても、死という問題を解決しない限り、何も解決しないのです。私達の傷ついた心を根本的に癒すには、死の恐怖を取り除くイエス・キリストの十字架しかありません。死の正体は、神の愛が見えないことです。神の愛が見えないために私達は、自分が愛されていることも、どれだけ素晴らしく価値があるかも、まったく見えていないのです。だから、死の恐怖と戦うために、見えるものにしがみつき、律法にしがみつき、愛してくれと叫び続けているのです。それが、男性は怒りを表して自分は立派で強い人間だということを証明しようという行いになり、女性は自分を美しく飾ることで愛される価値ある存在だという主張になるのです。
   その根本治療が、Tテモテ2章の冒頭にある、すべての人のために祈り、とりなし、感謝をささげることなのです。私達の本当の問題は、神の愛が見えないことです。人を憎んでいたのは自分の心の中にある律法のせいであり、本当の敵は、自分が憎む相手でも家族でもなく、神の愛が見えないという死の恐怖が原因だったのです。
   私達は、神がどれだけ自分を愛しているかが見えるようになると、心の傷は癒され、愛せるようになります。この神の愛が見えるようになるためには、自分の罪を言い表してみるように聖書は教えます。どのような罪を告白しても、神はあなたを愛し、あなたを赦すと言っておられます。この愛を体験することによって、私達は律法から解放され、怒りから解放されて、真の平安を得ることができるのです。神はあなたに対して、「私にとってあなたは高価で尊い」と言っておられます。罪を告白して神の愛を体験しましょう。
   人から良く思われるというわずかな愛で心を満たしても、それは対症療法であり、心はいつまでも病んだままです。イエス・キリストは、私達の苦しみの原因がどこにあるのか、一番良く知っておられます。イエス・キリストの福音は、私達の心をいやす根本治療です。