ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2015年月4月26日
テモテへの手紙第一
(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:12〜)
神はどのように私を強めるか

『私は、私を強くしてくださる私達の主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:12)

   神が私達を強めてくださる方法は二つあります。それは、一つ目が私達をしばっている恐れを取り除くことで、二つ目は希望を与えてくださるということです。私達は希望がなければ何をすることもできません。
   恐れを取り除き、希望を与える……これが、神様が私達を強める方法です。しかし、私達が何もしなくても、これらを受け取ることができるわけではありません。
   パウロは、神に任命された仕事を忠実に行っていることが認められ、神が私を強めてくださった、と言っています。つまり、私達が神の言葉に従って忠実に生きる姿勢があって初めて、神は私達を強くしてくださるのです。神の言葉に従わず自分の思いに生き、肉の思いを達成しようとする者を励ましても意味がありません。神が私達を強める目的は、神の御心を知り神の方向に生きてほしいからです。ですから私達が逆の方向に向かっているときは、そのままにしておかれるのです。
   聖書は、『小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実である』(新約聖書 ルカの福音書 16:10)と教えます。救われた者がなすべきこととして、神に祈り、聖書を読み、献金をささげるという基本的な務めを忠実に行う時、私達がますます神の方向に向かって生きていくことができるように、神は後ろから風を送ってくださり、励まし強めてくださるのです。

神の赦しが生み出すもの

『私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:13)

    パウロはかつて、キリストを迫害し、クリスチャンに暴力をふるっていました。そのような時、神のふしぎな方法でイエス・キリストと出会い、罪を赦していただいたのです。罪を赦してくださる方がある、この恵みにパウロは感動しました。誰でも罪を犯すと良心がとがめます。そんな時、神に悔い改めて「赦して下さい」と告白するならば、神はどのような罪も赦して下さいます。なんとすばらしい恵みでしょうか。この「神に赦される」という喜びが人を変えます。赦されることで、もう一度生き直すことができるのです。なんと幸いなことでしょうか。心の中にとがめや不安がある時、神に赦してくださいと祈るならば、必ず平安が訪れます。人に赦しを求めることも大切ですが、それよりもまず神に赦しを求めることが大切です。

『私達の主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:14)

   神を信頼することが信仰であり、神を愛するとは神を信頼することです。神を愛し信頼する信仰は日々成長するものですが、神に赦された恵みも同じように成長します。
   「神を愛し信頼せよ」が、神の第一の戒めです。人は、多くの罪が赦されるほど、多く神を愛するようになります。神に赦された経験を積めば積むほど、神への信頼が増し加わっていくのです。私達はみな罪人ですが、神に罪を赦していただくことを通して、本来自分は良きものとして造られたことに気づくのです。罪とは、私達についた泥のようなものです。罪を赦していただき、泥が落とされると、神によって造られ神に愛されている本来の良い自分の姿が見えてきます。こうして私達は神を愛するようになっていくのです。
   神に罪を赦していただく体験をするには、まず自分の罪に気づく必要があります。そのために聖書があります。聖書の御言葉に真面目に従おうとすれば、到底できない自分に気づき、自分の罪深さに気づくことができます。これらに気づいて、罪を赦していただく体験ができれば幸いです。

『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:15)

   パウロという人物は、頭脳明晰で行いも素晴らしく、多くの人から尊敬を集めていました。しかし、パウロは自分自身のことを「罪人のかしら」と呼んでいます。それは、本当の罪は行いではなくもっと本質的なものだということにパウロが気づいたからです。そして彼は神のあわれみの深さに気づき、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは本当だ」という確信に至り、伝道者となるわけです。
   聖書が教える「罪人を救う」という言葉には、二つの意味があります。一つは、神との関係の回復です。聖書では、神との関係がないことを罪といいます。私達は生まれながらに神を知りません。そこで神様は、その罪を取り除いて神との関係を回復して下さいます。このことを信じることを、救われると言います。そして、一度救われたら神との関係が壊れることはなく、罪は永遠に赦され、二度と罪に定められることはありません。
   二つ目の意味は、悪い行いを赦してくださるということです。人間は神との関係が壊れたために、心の中に恐れを持っています。神が見えないために自分が愛されていることがわからず、自分が何者なのかわからない不安の中で生きるようになりました。この不安を取り除くために、人は必死になって人からの愛を受けようとします。私達の中には、人からよく思われたいために、嘘をついたり、嫉妬したり、人と比べて人や自分を裁いたりしてきた「肉の行い」という罪が存在します。これらは、神との関係がないために生じた罪ですが、神はこのような罪も取り除いてくださいます。神の前に罪を言いあらわせば、赦してくださるのです。
   聖書は、『今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはない。』(新約聖書 ローマ人への手紙第一 8:1)と語り、いっぽうでは、『もし、自分に罪はないと言うなら、あなたは自分を欺いており、神を偽り者とする』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:8,9)と言って「罪を認めて悔い改めるように」とも教えています。それは、これまで述べてきたように罪には二つの意味があるからです。神との関係がないという罪は、関係を回復することで完全にいやされます。
   しかし、神との関係がなかったことで生じた悪い行いという罪は、神の前にその罪を言い表すことによって赦しを受けることができるのです。神は、魂が救われればそれでよしとするのではなく、私達は魂が救われてもまだ体が悪いことをするので、そちらも軌道修正してくださるのです。

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1)

『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスにある神の愛から私達を引き離すことはできません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:38,39)

   どんなものも神の愛から私達を引き離せないとは、二度と神との関係は壊されないということです。しかし、魂が救われても、体が肉に生きている限り悪いことをしてしまいます。そのために、もう一つ神が用意した恵みがあります。それが、罪を言い表せば赦されるという恵みです。

『もし、罪はないと言うなら、私達は自分を欺いており、真理は私達のうちにありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:8)

『もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

『もし、罪を犯していないと言うなら、私達は神を偽り者とするのです。神のみことばは私達のうちにありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:10)

『私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:13)

   ここで言っている罪とは、神との関係がなくなることではなく、私達の肉の行いの罪のことです。ヨハネの手紙第Tは、あなたには罪があるから悔い改めなさいと教える理由は、あなたが永遠のいのちを持っていることをわからせるためだと語っています。つまり、私達の魂はすでに救われ永遠のいのちを持っているのだから、神は私達が肉においても良い行いを目指して平安を得てほしいと願っておられるのです。

信仰と正しい良心を保つ

『しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:16)

『 どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:17)

『私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:18)

   「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜く」とは、どういうことでしょうか。
   信仰とは、神を信頼し愛することです。また、良心とは、一言で言うと人を愛することです。人に対して悪いことをすると良心が痛みます。聖書が、神を愛する信仰と人を愛する良心を保って戦うようにと教えているのは、神への信仰と人々への愛は、コインの裏表のように一体であり、信仰だけ成長するということはありえないことを表しています。神を愛する人は、必ず人を愛する思いも一緒に成長するのです。
   そのために神は、教会をキリストの体と呼んで尊び、クリスチャンはこの地上で教会に属するように教えておられます。
   私達はイエス・キリストを信じた時に救われました。聖書は救われた人は洗礼を受けるように教えていますが、その目的は、信仰告白をし、洗礼を受けることで、見える教会に属するということです。洗礼によって教会のメンバーとなり、キリストの体に組み込まれるのです。ここには霊的な深い意味があります。
   終わりの時、神は私達を悪い行いから救い出し、神の国に連れて行ってくださると約束しておられます。人間は魂と体を持っており、救いとは、この魂と体それぞれが神の国に入ることを意味します。イエス・キリストを信じて救われた時、私達の魂は神の国に入れられ、私達は永遠のいのちを持つようになりました。そして、体はキリストの体なる教会に属するようになります。
   聖書が「キリストの体」という時、そこには二つの意味があります。それは見えないキリストの体と見えるキリストの体です。見えないキリストの体とは私達の魂が神の国に入ることによって永遠のいのちを持つことであり、見えるキリストの体とは教会です。救いによって魂は永遠のいのちを持ち、洗礼によって体は教会に組み込まれるのです。
   私達は、神に救われ見えないキリストの体に属しているから安心だというわけではなく、本当にそこに属したら、あなたの体は教会に属するようになると聖書は教えています。教会のかしらはキリストであり、キリストの体は教会です。
   クリスチャンは、見えないキリストの体と見えるキリストの体の両方に属しています。つまり、見えない神の国と見える神の国があり、キリストを信じ、見えない神の国に属する者が属す見える神の国が教会だということです。


『ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:19)

『その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:20)

   残念ながら、せっかくイエス・キリストを信じても、キリストの体であり見える神の国である教会に属することをやめてしまう人がいます。しかし、それでも多くの場合、「教会は離れても神のことは愛している」と言いますが、それはありえません。聖書はそのような人々を信仰から迷い出た人々だと言っています。本当に神を愛するのであれば、見える兄弟を愛するものになります。それは、教会にきちんと属して、教会の中で結び合わされるものなのです。
   ところで、「サタンに引き渡す」という言葉はパウロ独特の表現で、除名処分を表します。除名処分とは決して罰ではありません。それは、神を汚してはならないことを彼らに学ばせるための機会であり、彼らをキリストの体に戻すために軌道修正する最終手段です。「神をけがす」とは、目に見える兄弟を愛せないことは人への愛にとどまらず、神を愛せないことだということです。ですから、魂が救われ神の国に属したら、あなたの体はキリストの体なる教会に属し、教会に根ざして信仰を維持し、成長させるように聖書は教えているのです。
   神を信じて生きるとは、教会に根ざして生きることと同義語です。体が魂と一体で引き離せないように、魂が救われてキリストに属したら、体は教会に属して、魂と体はキリストの体となって成長するのです。

   最後に、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜いた人物を紹介しましょう。
   アメリカで最も尊敬される人物であるアブラハム・リンカーンは、家庭が貧しかったため、ほとんど学校に行くことができませんでした。彼は10才の時、愛する母を失いましたが、彼の母親は亡くなる際、「私は100エーカーの土地をお前に遺すよりも、1冊の聖書を遺せることを誇りに思います。神を愛し、人を愛する人になりなさい。」と言って、リンカーンに聖書を渡しました。こうして、母から譲り受けた信仰と良心がリンカーンという人物を作り上げたのです。
   彼は聖書から、御言葉を愛し、神を信頼し、神に励まされて生きることを学びます。しかし、彼の人生は苦難続きで、大人になり、町に出て事業を起こしますが失敗し、政治の世界を志しても落選続きの上、愛する人を失い、精神病を患い、わが子を失うという苦難に出会います。しかし、彼は希望を失わず、あきらめませんでした。そしてついに、第16代アメリカ大統領に選ばれたのです。
   リンカーンは、大統領になっても毎日祈りと御言葉によって1日を始める生活は変わりませんでした。奴隷解放という大きな業績を残しましたが、南北戦争を指揮する際にも、敵味方の区別なく、わが国民として人々を愛し、祈りを呼びかけています。戦局がこれ以上ないほど悪化していた1863年4月30日、リンカーンはこの日を断食祈祷の日とし、互いに敵ではなく友となり、神を信頼して祈ることを全国民に呼びかけています。そして、この日から状況は好転し、奴隷解放は成し遂げられ、戦争は終わり、アメリカはひとつとなりました。
   彼はどんな時にも神を信頼し、御言葉を自分の支えとしていました。彼は友人に対して、このような手紙を送っています。「最近僕は、聖書を読むのに没頭して、たくさんの素晴らしいものを得ている。君も聖書を理解するために理性で努力するだけでなく、信仰と調和させてみたらどうかな。そうするともっとすばらしい人生が送れると思う。僕が望んでいるのは、君が僕のように聖書を愛する人になることなんだ。」これはまさに神が私達に望んでおられることです。神の言葉を愛することが私達の人生を変えます。これこそが人類が神からいただいた最高の宝です。これをしっかり握って生きるなら、私達は神を愛し人を愛し、この世界で光となって生きることが出来るのです。これが聖書が教えている言葉です。
   リンカーンは、神を愛し、御言葉を愛し、罪の赦しを説き、そして人々を愛する祈りの大統領でした。
   彼の偉大な業績に目を留める時、彼が母から受け継いだ信仰と正しい良心に生きたことを心に覚えましょう。