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2015年月4月19日
目指すべきは信頼
(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:1〜11)
■ 信仰による生き方を目指す

『私達の救い主なる神と私達の望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私達の主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:1〜2)

   神は私達に永遠のいのちを与え、問題を解決し、望みを与えてくださるお方です。神は人間をそれぞれ目的を持って造られました。しかし、その目的に従うかどうかは一人一人の選択に任されています。人は、神の御心を知りそれを選択して生きる生き方と、自分のやりたいことを優先する生き方のどちらかを選ぶことができます。パウロは神の御心に従う生き方を選択したということです。自分が造られた目的を知り、それを選択して生きる時、私達の人生のエンジンは点火され、心が燃える体験をすることができます。全ての人がその選択ができれば幸いです。
   また、パウロはテモテを「信仰の子」と呼びました。聖書は私達に信仰によって生きることを教えています。信仰とはイエス・キリストを信じ信頼することです。人間は常に何かを信頼して生きています。しかし、この世の見えるものではなく神を信頼して生きることが大切なのです。人は行いによって救われるのではなく、信仰を通して救われます。神と人との関係は、永遠のいのちという恵み、罪の赦しというあわれみ、神を信頼する平安による関係です。パウロは、この手紙の冒頭で神との関係が凝縮して述べ、福音の根幹を要約しているのです。

『私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしていたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:3〜4)

   パウロはテモテに、人々が間違った教えや空想話や系図に心を奪われないように指導しなさいと命じました。間違った教えとは聖書にない教えのことで、人が生み出した教えです。人は、今日の運勢とかラッキーなんとかとかお守りなどに、つい心を躍らせたり信じたりしてしまいますが、これらは何の根拠もない空想話です。また、救いは信仰によるものであり血筋によるものでもありません。そのような人を惑わす話はやめ、信仰による神の救いの計画をしっかり語るように教えています。
   神の救いの計画とは、イエス・キリストを信じるだけで救われて天国に行けるという計画です。人は不安を解消するために、いろいろな教えにしがみつくものです。一度しがみつくと、たとえそれが根拠のない空想話であってもなかなか手放せません。その不安の究極の源は、死にたくないという恐れです。そんな私達にイエス様は、救いに必要なものはお金や立派な行いではなく、ただ私を信じるだけで良いのだというメッセージを届けてくださったのです。
   ノアの洪水のことを考えてみましょう。神様は大洪水に備えてノアに箱舟を作らせましたが、この舟に乗った人間はノアの家族8人だけです。その他の人々は、前もって警告されていたにも関わらず、降り始めた雨がそれほど危険なものだと思わないで、自分はそんなものに乗らなくても助かると漠然と思っていたのではないでしょうか。
   ノアの箱舟は、イエス・キリストの救いの象徴です。神は「あなたを救うために用意されたイエスという船に乗りなさい。」と語っておられます。それは特別なことではなく、ただ救いの船に乗れば救われるということなのです。神は人間を造られた時に、それぞれに人格をお与えになりましたから、人の意思を無視して強制的に船に乗せることはなさいません。人格を否定し、意思を無視することは、その人自身を滅ぼすことと同じです。ですから、人が自分の意志で船に乗ることができるように、神は語り続けておられるのです。これが信仰によって救われるという神の計画です。

■ 信仰の目標は愛

『この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:5)

   神が私達に信仰を教えるねらいは、信仰から愛が生まれるからです。神を信頼すればするほど心に平安が訪れ、人に親切になります。心が満たされてなければ、愛を実行することはできません。人から良く思われて安心することで、心の中にある不安を消そうという願いが根底にあるため、愛のある行いをした時に相手から評価されないと、怒ったり落ち込んだりしてしまいます。聖書では、これを愛とは呼びません。聖書が教える愛とは見返りを求めないものです。しかし、心が満たされていなければ、どうしても人から良く思われることで満たそうとして、見返りを欲します。神を信頼することで心は平安で満たされますから、そこから真の愛が生まれることを目標にしなさいと、神は教えているのです。

■ 私達を苦しめているのは律法である

『ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:6〜7)

   神は私達に、神を信頼して生きることを望んでおられます。しかし残念なことに、多くの人が誤った道を進み、神を信頼する生き方ではなく、良い行いをする生き方を目指しています。
   良い行いを目指すのは良いことではないのか?という疑問を抱く方もいるでしょう。確かに良いことを行うのは悪いことではありません。しかし、そこに大きな罠があるのです。
   人が目指す良い行いとは、人に良く思われ感謝されることです。悪く思われ迷惑がられることをしても意味がありません。そこで、人に良く思われるためには、人から評価され感謝される立派な人間を目指すことになります。聖書はこのような生き方を目指すことを、律法に生きると言っています。律法とは、「〜ねばならない」という行いの規定のことです。良い行いを目指すとは、律法を実行し、立派な人間であると評価され、人から良く思われることを目指すということです。
   なぜ聖書は、律法に生きる生き方は誤りで、信仰を育て神を愛する生き方を目指せと教えるのでしょうか。それは、「〜ねばならない」という律法の規定こそが、私達を苦しめている悪だからです。「悪」と言えば多くの人が、盗みや殺人、人を騙すこと、いじめ、嘘をつくこと等を想像するでしょう。しかし、そのような悪い行いが生まれるには共通の理由があります。それは怒りです。怒りが人の行動を変えてしまうのです。人を殺したいと思うのも、騙すのも、自分さえ良ければと意地悪するのも、怒りあるいは敵意という感情がその根底にあります。そして、その敵意を生じさせている原因は、「〜ねばならない」という律法なのです。
   たとえば、毎日多くの生徒が遅刻することに腹を立てている先生がいたとしましょう。なぜ腹を立てるのか、それは遅刻をしてはいけないという規則があるからです。ところがある日、校長先生が「毎日毎日私が入学させた生徒達が遅刻して申し訳ない。この責任は私にある。担任の先生には、遅刻の生徒一人につき1日1万円のボーナスを支給することにする。」と申し出ました。すると先生は、今度は遅刻者がいると嬉しくなるようになりました。
   いかがでしょうか。私達は出来事に対して腹を立てていると思っているのですが、実は律法によって腹を立てていたのです。何かに腹を立てる時、私達は必ず「○○は〜であるべき」というものさしで見ています。このものさしが律法であり、物事を見るときのメガネのようなものです。メガネを変えれば怒りは消えます。規則を変えれば敵意が消えるのです。つまり、怒りを引き起こして私達を苦しめる本当の敵は、相手の行いではなく、律法というメガネなのです。
   世間には「クリスチャンは戒律が厳しいから大変だ」と言う方がいるようですが、それは正しい教えではありません。神が私達に与えたいものは平安で、律法や戒律を守ることで平安を得ることはできません。そんなことをしたら、ますますイライラして怒るようになってしまいます。神はクリスチャンに対して、ますます神を愛し信頼するようにとしか教えていません。ですから、「〜ねばならない」という律法とは、逆に戦わなければならないのです。神を愛するとは、良い行いを目指すことではありません。そうではなく、神を信頼し愛するようになると、平安を得られるようになり、自然と良い行いはついてくると聖書は語っているのです。ところが、神への信頼を抜きにして良い行いを目指すと、律法に生きるようになります。ですから、神を信頼することが大切なのです。
   人が律法に生きるようになった理由は、人から良く思われ愛されることで、自分の心の不安を消すためです。律法に生きる人は、律法に違反する者に腹を立ててさばき、律法を守る者を認めほめます。人はほめられる言葉が欲しくて、一生懸命律法に従って生きようとします。これが私達を苦しめる敵の正体です。

■ あなたは愛されている

『キリストこそ私達の平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:14〜16)

   私達は、様々な戒めから成り立っている律法から生まれた敵意によって苦しんでいると聖書は語ります。イエス・キリストがこの世に来られたのは、人間同士の敵意を廃棄して人が一つになるためであり、そのことを通して人と神が一つになるためです。キリストはどのようにして敵意を廃棄したのでしょうか。
   律法が生まれた原因は死の恐怖によるものです。死とは神との関係を失うことです。多くの人は死というと肉体の死を想像しますが、人間は体の他に魂を持っており、肉体の死の恐怖よりも、神との関係を失った魂が抱く恐れや不安の方をはるかに恐れています。神との関係を失っている私達は、私達を愛している神の愛がわからず、常に不安を抱えています。この不安が死の恐怖です。人間は潜在的にこの恐怖にいつも怯え、愛されたいと求めています。しかし神が見えませんからその愛を人に求め、自分はダメなものではないと確認するための律法を生み出しました。これらは私達の潜在意識の中で行われていることです。
   子どもにとっては親の言葉が律法となり、無意識に親からほめられ認められようとする生き方をします。それはやがて、先生から認められよう、友達から認められよう、上司から認められようという生き方に変化します。潜在意識の中の死の恐怖(神に愛されていないという不安)を、人から認められることで排除しようとしているからです。パウロは神によってこのからくりに気づき、イエス・キリストは十字架で律法を廃棄し悪を滅ぼしたのだということを突き止めました。つまり、私達が律法にしばられるようになった原因は神に愛されていないという不安にあるのですから、律法を廃棄するには、私達が神に愛されていることを示せばいいわけです。それが十字架なのです。十字架によって私達の不安をすべて取り除く完全な愛が示されたということなのです。
   イエス・キリストは、十字架にかかって私はあなたを愛しているというメッセージを示されました。あなたのために流した血潮は、あなたを愛している証です。十字架こそ、神が私達を愛している証なのです。十字架の愛を知る時、私達は恐れから解放され、律法による生き方から自由になることができます。これが聖書の教えている福音です。私達を苦しめているものは律法であり、そこから自由になるためには愛されていることに気づかなければなりません。イエス様は、それを示すために十字架にかかってくださったのです。
   イエス様はこの十字架の愛を理解させるために、あなたが犯した罪を言い表してごらんなさいと言われました。あなたがどんな罪人であっても、神はあなたを責めず、すべて無条件で赦すから、罪を告白してごらんないさいと教えます。そうすれば、神に愛されていることがわかり、心に平安が訪れて、人から良く思われようとする必要がなくなり、「〜ねばならない」という生き方をやめることができます。これが、聖書が教える自由ということの意味です。
   十字架の愛が見えるようになることを目指すことが信仰を目指すことなのですが、人はついここに目が行かないで律法という文字に目が行き、「〜ねばならない」に目が行ってしまうものです。そのために互いにさばき合うようになっています。そのために聖書は、「さばき合うのはやめなさい。」と教えています。
   私達が自分を苦しめている「〜ねばならない」という律法にしがみつくのは、自分が愛されていることを知らないからです。自分が愛されていることを知るために罪を言い表してごらんなさいと聖書は教えます。神は必ずあなたを赦してくださいます。それが神の福音です。

■ つらさを振り払う

『しかし私達は知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 1:8〜11)

   律法を目指すのは間違った生き方ですが、用い方によっては、律法は役に立つものです。それは、罪を犯す人にとってです。しかし、目指すべき本当の道は律法ではなく、信仰による愛であることを忘れてはなりません。
   神を信頼し愛する信仰を目指すために一番良いことはつらさに出会うことです。つらい時、人を頼るのではなく、「神様助けてください」と祈ることによって、神を信頼し愛する心が育ちます。私達は必ず苦難に出会います。苦難の時こそ、人は自分の姿を知り、神なしでは生きられない自分の弱さに気づくことができるのです。ですから、聖書は苦難を喜べと教えています。しかし、苦難に出会った時にそのまま放っておくと、つぶされてしまいますから、苦難と戦わなくてはいけません。
   昔、枯れ井戸に落ちたラバが、自分を埋葬しようと上から降りかかってくる土を振り払って踏み固めているうちに、地面が上がって井戸から脱出できたという話がありますが、苦難と戦うとは、神を見上げてつらさを振り払い、信仰で踏み固め、神様に助けを求めて祈ることです。祈ることによって、どんどんつらさは踏み固められ、やがて出口が見えてきます。これが聖書の教える希望です。患難が忍耐を生み出し、それが希望につながる生き方こそ、私達が目指すべき生き方です。良いことをして人から褒められることを求める律法に生きる生き方をやめましょう。
   苦難に出会った時、神を呼び求め、つらさを振り払うことによって、希望の光を見出すことができます。こうして私達に平安が訪れるようになり、私達の行いは自然と良くなっていくのです。律法でしばられる生き方ではなく、神を見上げ、神を信頼し、愛し合う生き方を目指しましょう。