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2015年月4月12日
礼拝メッセージより
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 2:13〜)
イエス・キリストの栄光

『しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 2:13〜17)

   私達が神に感謝するのは、神に愛されているからです。神は愛する私達を救ってくださいます。救いとは、この地上で神と共に生き、死を迎えた後は、魂がよみがえって朽ちない体に変えられ、天国で神と共に永遠に生きることができる恵みのことです。
   多くの人は、天国に行くには、良い行いを頑張れば神が認めてくれるだろうと考えるものです。しかし、イエス・キリストは、行いによって認められるのではなく、あなたを救ってくださる神を信じれば良いのだと言われました。行いや経歴に関係なく、神に助けを求めるならば神は助けてくださるというイエス・キリストの教えは、神の恵みを受けるには立派なことをしなければならないと考えていた当時のユダヤ人達にとって、とても受け入れがたいものでした。しかし、これが神の愛なのです。人間の努力によってではなく、神を信じるならば救われること、これがキリスト教の救いの基本です。
   イエス・キリストの栄光を得るとは、この救いをいただくことです。人は終わりの日によみがえり、永遠のいのちを得ます。よみがえりと言われる時は二回あり、一度目は、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちをいただいた時です。聖書が教える死とは、神とのつながりがないことですから、私達の魂は皆、生まれながらに死んだ状態でした。死んでいた私達が、イエス様の言葉を聞いて信じ、永遠のいのちを得ることが一度目のよみがえりです。イエス様を信じたことで死んでいた魂がよみがえり、すべてが新しくなったのです。二度目は、私達が朽ちない体に変えられる日のことです。地上で死を迎え、肉体が滅びる時、イエス・キリストを信じる者の魂はよみがえり、朽ちない体に変えられます。これが、第二のよみがえりです。聖書で終わりの日と呼ばれているのは、このよみがえりの日のことです。
   そして、主イエスの栄光とは、死んでいた私達が神とつながって永遠のいのちを頂いたことを指しています。この永遠のいのちは、万一私達の行いが悪くても、取り消されることがありません。こうして、私達の心から恐れが取り除かれ、キリスト教は全世界に広がりました。あなたがたはこの救いを受けたのだから、これまで教えられてきたことをしっかり守りなさいとパウロは語っています。パウロはこれまで一貫して、苦難の中でも動揺しない信仰を育て、神を信頼するように語り続けてきました。「永遠の慰めと素晴らしい望み」とは、永遠のいのちと朽ちない体を指します。あなたは神によって救われたのだから、御言葉に従った生き方をし、イエス・キリストの言葉を信頼して歩むようにという言葉でこの章は締めくくられます。

神との信頼関係を築く

『終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 3:1)

   パウロはよく「私のために祈ってください」とか「互いに祈り合いなさい」と教えています。祈りとは神とのコミュニケーションです。パウロのこの言葉には、私達が神とコミュニケーションを育て、親しい関係を築くようにという目的があるのです。
   神が人に望んでおられる関係は、主人と奴隷の関係ではなく、友という関係です。人間は他の動物とは異なり、神に似せて造られ、神のいのち(霊)を分け与えられて体と霊(魂)からなる存在として造られました。神の霊を受けた人間には、自分で考えて自分で選択するという意志が与えられています。神は一人一人の意志を尊重し、それを無視して勝手にコントロールするようなことはなさいません。なぜなら、意志を無視することは魂(霊)を壊すことと同じであり、死を意味するからです。ですから、神は私達を導くために、私達の心に働きかけます。私達に情報を与え、私達が自らそれを選択できるように導かれるのです。神は私達にコミュニケーションを求め働きかけておられますから、祈ることでコミュニケーションが成立します。これが神と人との関わり方です。私達が神からの働きかけに応答しなければ、神が答えることは何もありません。
   イエス・キリストは、『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』(新約聖書 マタイの福音書 7:7)と語りました。神は求める者に答えてくださいますが、求めない者に無理やり答えを教えるようなことはなさいません。そうすることは、友ではないからです。神が人を造った目的は、友という関係を築くためです。そういうわけでパウロは、私達が神とコミュニケーションを持つことができるように、「祈ってください」と促しているのです。神はすでに私達に語りかけておられますから、私達が答えなければその関係は発展しません。神の働きかけに対して応答し、どんなことでも神に求めて祈るというコミュニケーションによって、関係を築くことができるのです。神は私達の働きかけに対して必ず答えてくださいます。こうして、神への信頼が増し加わります。しかし、神は上から宝物を投げるように願いの答えを与えるわけではありません。

『また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 3:2〜5)

    信仰には、神が与える信仰と人が独自に持っている信仰の二種類があります。人が独自に持つ信仰とは、見える出来事しか信じられず、しかも信じるには担保となるものが必要です。しかし、神が与える信仰とは、見えない世界を見えるようにしてくれるメガネのようなものです。神が与える信仰をもらうとイエス・キリストを信じることができるようになります。これは、私達が持っている人間の信仰ではできないことです。つまり、もしあなたがイエス様を信じたいと思うなら、すでに神から信仰は与えられており、あなたは救われて永遠のいのちを持っているのです。その信仰が育つことでやがて、クリスチャンになろう、洗礼を受けようという意志に達します。
   パウロは、神から与えられた信仰によって、自分が祈っていることは必ずそうなると確信しています。信仰とは、現実にはまだ起こっていない出来事であっても、神が祈りに答えてくれることが見えるようになり、確信できるようになるものです。このように神を信頼する心が神への愛であり、忍耐を生み出す源です。すべての源は神を信頼することに尽きます。神に祈るというコミュニケーションを増すことによって、神への信頼を増し加えましょう。

締まりのない生き方をしない

『兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 3:6〜12)

   「締まりのない生き方をしない」とはどういうことでしょうか。それは、神を信頼するならば、一人一人なすべきことを行う生き方になるということです。神に心が向いていない人は、見えるものを頼って自分を満たそうとするので、困難な出来事にぶつかると、誰が助けてくれるか、何が助けになるかと、すぐに目に見える人や物に頼ろうとします。しかし、神を信頼する人は困難にぶつかったらまず神に祈ります。すると、神は一人一人にどうすれば良いかを教えてくださいます。

   神を信頼するとは、祈れば、何でも神がやってくれると期待することではないのです。そうではなく、自分がなすべきこと・できることを、神から教えていただけるということです。
   神を信頼する生き方のステップを具体的に確認しましょう。

1.祈りから始まる

   神を信頼するとは、祈りから始まります。ですから、祈らずにはいられない問題にぶつかる時こそ、神を信頼するチャンスです。聖書が、患難にぶつかったら喜べと教えているのは、神を信頼することを実際に学ぶチャンスとなるからです。あなたは困難にぶつかった時、誰が助けになるか、何を対策すれば良いかと思いめぐらしてはいないでしょうか。私達はつい見えるものに頼ろうとして、人に相談したり、対策を準備しようとしたりしてしまいがちですが、それをしてはいけません。困難な出来事にぶつかったら、まず祈ることから始めましょう。神を信頼するとは、まず祈ることです。
   この時、もし家族にクリスチャンがいれば、家族と心を合わせて祈りましょう。イエス様は、『ふたりでも三人でも 、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 18:20)と言われました。なぜ共に祈ることが重要か、それは、心を開く訓練になるからです。人を裁いたり、喧嘩したりしている時に、一緒に祈ることはできません。私達は腹を立てている時、人と一緒に祈ろうとせず、一人で祈ろうとするものです。一緒に祈るためには、悔い改め、心を開かなければなりません。問題を一人で抱え込むのではなく、共有して祈りましょう。

2.脱出の道を探す

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:13)

   神がしてくださることは、脱出の道を用意して下さることであり、あなたを手とり足とり脱出させて下さるわけではありません。あなたにはあなたのなすべきことがあり、それを神が代わりにしてくださるわけではないのです。あなたは自分でそれを探し出さなければなりません。それは、神と私達はお互いに意志を持つ友の関係にあるからです。友はコミュニケーションによって信頼関係を築くものです。私達が御言葉を信じ、祈り、脱出の道を探すことが、神を信じるということです。神は必ず脱出の道を用意していてくださいます。祈ってさえいれば神がすべてやってくれるかのように勘違いして、自分では何もしないのは信仰ではありません。脱出の道を探すのは私達です。

3.自分に出来る事を始める

   問題の解決に向かって自分に何ができるかを探し見つけ出すことが、この社会において出来ることを行うことにつながります。祈ってさえいれば何もしないということはありえません。つまり、しまりのない生き方とは、祈るばかりで何もしない生き方のことです。あなたが神を信頼するなら、自分に出来ることを探していきましょう。今のあなたの選択が、あなたの将来を決めるのです。神があなたの将来を決めてそこに連れて行くわけではありません。神が導いておられる道へあなたが行くようにしなければならないのです。

   どんな問題もまず祈り、神が脱出の道を用意しておられることを信じて探し求め、自分に出来ることを行うこと、これが神への信頼です。そうすることによって、神が用意した脱出の道を見つけ、自分で歩くことができ、問題の答えを見出すことができるのです。こうしてパウロが一貫して語り続けてきた、神への信頼が増し加わっていきます。祈っていれば神がなんでも教えてくれて助けてくれるから、自分では何もしなくてもいいのだという考えは、信仰ではありません。
   困難にぶつかったら、まず祈ることを始めましょう。脱出の道を信じて探し、出来ることから始めましょう。それがあなたの未来を創ります。誰かが未来を与えてくれるわけではありません。あなたが選択しなければならないのです。これが、神が与えてくださった意志を尊重する生き方であり、神とのコミュニケーションによって生きる生き方です。神は必ず答え、助けてくださいますから、あきらめないで祈り、脱出の道を探して出来ることを積み上げていきましょう。