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2015年月3月29日
新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 2:1〜
   私達が聖書を学ぶ一番の目的は、自分の殻を破るためです。なぜなら、私達を苦しめている一番の原因は、自分が積み上げてきた経験という物差しで自分をはかることだからです。聖書は、そんな私達に、新しい自分を見つけ出させてくれるのです。。
   私達はこれまで、自分は何者でどんな価値があるのか、人や物との関わりの中で知ろうとして生きてきました。しかし、ここから価値を得ようとする限り、自分はダメだ、価値がない、愛されない、何をやってもうまくいかないという失望感が生まれるものです。けれど、私達の本来の姿は、神によって造られた普遍的な価値を持つ素晴らしい存在です。変わっていく歴史の価値観の中で自分を見つめる限り、自分の本当の価値は見えませんが、永遠に変わらない神の言葉の中に自分自身の姿を見つけ、それを信仰でとらえることができる時、私達は本当の自分に気づき、自由になれます。聖書を通して自分自身を発見しましょう。

・神の国の到来について。

『さて兄弟たちよ。私達の主イエス・キリストが再び来られることと、私達が主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私達から出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 2:1〜3)

   テサロニケ人への手紙T・Uのテーマは、主の日と言われる終わりの時に、神が私達に何をなさろうとしているかということです。主の日には裁きが行われ、その時が来るまでには様々な患難があると記されています。これをどうとらえるのかを終末論と言い、様々な解釈がありますが、それは、人は時間の流れの中で生きており、神の言葉を時間の流れと自分との関わりの中でとらえようとするために矛盾が生じ、その矛盾の解釈が異なるためです。
   終末に関する預言は、創世記の時代から様々あり、すべて象徴的な言葉で表現されているために、いかようにも解釈できる部分はあるのですが、基本的な内容は極めてシンプルで、悪が支配する世界が終わり、神が支配する世界に移されるということです。これを神の国の到来あるいは神の国の実現などと言います。終末論とは、この神の国がいつどのような形で実現するのかという論理です。
   ダニエル書は、神の国は人の子が雲に乗ってきて実現すると預言し、イエス・キリストはご自身を「人の子」と呼び、宣教開始の際に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。つまり、イエス様はご自分を指して神の国が来たと言われたのです。さらに、悪霊を追い出した時も「私が悪霊を追い出すのを見たなら神の国は来ている」と言われました。神の国とは、悪が滅ぼされて神が支配する世界です。悪を象徴する悪霊を追い出し、神の国が来たことを信じなさいと言われたのでしょう。また、パリサイ人たちがイエス様に「神の国はいつどのような形で来るのか」と質問した時には、「神の国は、そこにあるとかあそこにあるとか見える形で来るものではなく、あなたの内側にある」と言われました。
   つまり、神を信じたらその人の中に神の国が来るのです。神からいただいた永遠のいのちこそ悪が滅ぼされて神の国が到来したことの象徴です。イエス様はからし種のたとえの中で、神を信じる者の中に植えられた神の国はやがて大きく成長し、鳥が住むほどになると言っておられます。すなわち神の国とは、地上では私達の内側に存在して多くの実をならし、やがて大きく成長して自分自身が神の国の中にいることに気づくようになるものだということです。
   今私達は内側にある神の国を見ることができませんが、やがてそれを見ることができるようになります。それは私達が死を迎えて肉体が滅び、朽ちない体に変えられた時です。これが主の日です。イエス・キリストを信じない者にとって、死は永遠の滅びですが、イエスを信じる者にとっての終わりの日とは、朽ちない体に変えられて天国に戻る日を意味します。自らの死を迎える日が、主の日であり、終わりの日であり、最後の審判の時です。
   こうした一連の流れを理解して聖書を読むと、ここでパウロが言わんとしている意味がよくわかります。つまり、歴史上に見えるものとして主の日が来たという人たちがいるならば、それに騙されてはいけないと教えているのです。

・主の日までの患難とは

   主の日が来るまでに、様々な患難や迫害があることを聖書は語っています。事実、この聖書が書かれた当時はネロ皇帝がキリスト教を激しく迫害していました。ただし、患難についての御言葉は、すべて象徴的な言葉が使われているために、いつの時代にも当てはまる内容になっています。すべてのクリスチャンは、地上で患難や迫害を通して揺るぎない信仰を訓練され、死という終わりの時を迎えて朽ちない体に変えられ、天国で実際に顔と顔を合わせて主とお会いすることになります。イエス・キリストも、神の国は到来したと語ると同時に、実際に神の国が到来するまでには様々な苦難があり、神の国を目の当たりにできるのは終わりの日だと語っています。

『私達の兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私達はこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私達は苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。そういうわけで、私も、あれ以上はがまんできず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私達の労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。ところが、今テモテがあなたがたのところから私達のもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私達のことを親切に考えていて、私達があなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私達に会いたがっていることを、知らせてくれました。このようなわけで、兄弟たち。私達はあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私達は今、生きがいがあります。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 3:2〜8)

   私達の中に神の国が到来してから天国に行くまでに通る苦難について、イエス様は灯りを使ってたとえを話されました。イエス様を信じると私達の中に光がともされ、今まで見えなかった罪が見えるようになります。クリスチャンになる前は別に悪いものだと思わなかったこの世の心遣いや富の惑わしや悪い行いが、御言葉を塞いで神に心を向ける邪魔をしている罪であることに気づくと、私達の中に葛藤の苦しみが始まります。イエス様は、灯りは隠すものではなく照らすためのものだと教え、信仰の光で罪を照らして戦い、神への信仰を育てることが大切だと教え、私達が終わりの日に朽ちない体に変えられて天国に戻る時までに、神への信頼を育てるように願っておられます。

・あなたの中で成長する神の国。

   自分の中に神の国が存在していても、それをきちんと認識していなければ、その恵みはわかりません。言葉があっても意味を理解できなければ、それは存在しないのと同じです。また、サルに車を与えても、サルはそこに車というモノがあることはわかりますが車を使うことはできせん。同様に、自分の中に神の国が存在していても、それを認識できなければ、何の力も得られません。神様は、私達が自分の中に神の国が存在していることを認識できるように、信仰を与えて下さっています。多くの人は自分の感覚で神を認識しようとするのですが、信仰を通してでなければ神の国を認識することはできません。
   目から入る情報は常に変化します。しかし信仰で見るなら、常に変わらない真実が見えます。この世界にはあなたを愛する人もいればあなたにつまずく人もいます。目の前の人の反応で自分の価値を判断するならばあなたの価値は常に変動し、それに一喜一憂していては、喜びの中で生きることはできません。見えるものに依存し、見える情報を信じた結果、私達は苦しんでいるのです。。
   私達は見える世界に生きてはいますが、見える世界とは別に、永遠に変わることのない神の国という世界があります。神を信じた私達は神の国に生きており、ここに自分の本当の姿があります。この普遍的な自分の価値に気づくことができれば、心は平安を取り戻すことができるのです。
   つまり、過去・現在・未来という時の流れの中で神の恵みを理解しようとすると、過去を見て悔やんだり、現在の人との関わりの中で本当に自分は愛されているのかと不安になり、まったく恵みが見えなくなってしまいます。しかし信仰で神の言葉を認識できるようになり、自分の中に神の国があると理解できるようになると、私達は自分の普遍の価値に気づくようになるのです。。
   何によって自分を知り、何によって神の恵みを知ろうとするのか、それぞれの終末論はここに違いがあります。イエス様は、信仰で神の国を受け取るように語っておられます。確かに今見える形では、神の国は何も見えません。しかし、信仰によって見るならば、それはもうあなたの中に存在しており、あなたはそれを見ることができるのです。
   生命の誕生を例に考えてみましょう。最初に誕生する受精卵はたった一つの小さな細胞であり、まだ人間の姿すらしていません。では、この命は人間なのか人間ではないのかと言えば、紛れもなく人間です。私達には見えないだけで、この小さな受精卵にアダムとエバに至るまでのすべての遺伝子情報があり、将来の大人の姿が入っていて、すべての過去と未来を持っているのです。しかし、私達は今しか見えません。今私達が生きているこの世界は、ちょうどお腹の赤ちゃんのように閉ざされた世界であり、死の世界だと聖書は言います。しかし、神を信じて新しい命を頂き、この命は大きく成長し、やがて神の国に生まれます。この命の中にすでに成長したあなたの姿が入っているのだから、その命を見なさいと聖書は教えているのです。

『私達はみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:18)

   赤ちゃんは成長するために何の努力もしていません。ただ、神が成長するように造られたのです。私達も同じです。神の命をいただいたら、神と同じ姿にどんどん変えられているのですが、今の自分を見て、自分はなんと足りない人間なのだろうか、ダメな人間なのだろうかと勝手に落ち込んだり、裁いたりしているのです。しかし、私達が覆いを取り除け、信仰で見るなら、私達の見えない内側の命は成長しています。そして、やがてさなぎが美しい蝶になるように、朽ちない体に変えられて神の国に戻り、神と実際に顔を合わせるようになるのです。その命は神の命によって造られた素晴らしいものであり、永遠に変わらない価値があります。今私達にはその価値が見えないために、見えるものに期待しようとしてしまいますが、そこに平安はありません。聖書は、神の国に生きる神の子である自分の姿を信仰で見て、それにふさわしい生き方をするように教えています。実際にその姿を見るのは、主の日と呼ばれる終わりの時で、そこに至るまでには様々な患難がありますが、神様は私達の死後必ず迎えに来て、朽ちない体にしてくださいます。これが主の再臨であり、主によって私達が引き上げられる時という意味です。大切なことは信仰で私達がそれを理解して受け止めることです。

『神は、私達を暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私達は、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:13〜14)

   暗闇の圧政から救い出されて癒されるとは、悪が滅ぼされて神の命の世界に移されることです。神の国は実現し、永遠の命を持つ人間は、何も心配しなくても、最終的に蝶になるのですから、それにふさわしい生き方をするように言われます。終わりの日が来るまでいろんな苦難があっても心配はいりません。罪が赦されるとは、神の国があなたの中に到来し、神の命の中に移されたということです。

・罪と死

   神を知らない人間は死を恐れ、死んでも魂は不滅だと考えることで希望を持とうとしました。ここから死後他の生物に生まれ変わって生きると考える輪廻転生や、死んでもその人の魂は生き続けて私達を見守っていると考える先祖崇拝などの思想が生まれました。このような霊魂不滅説はギリシャ哲学にも入り込み、多くの分野で浸透するようになりました。
   しかし、聖書には魂は永遠という教えはありません。魂は体と一緒に造られ、体がなければ生きられないものです。だからこそ、永遠に生きるためには朽ちない体が必要なのであり、キリストを信じなければ永遠に生きることはできないのです。
   ところが、世の中が霊魂不滅説に傾き始めると、キリスト教の中でも死に対する考え方が変化し始めました。霊魂不滅の立場に立って黙示録を字義通りに解釈し、矛盾する点は象徴的な表現だとして、解釈に一定のものさしを失ってしまったのです。
   こうして終末論が聖書から迷い出ると、福音も迷い出てしまいました。過去・現在・未来という歴史の流れの中で神の国をとらえるようになり、終わりの日に悪が滅ぼされると、見える世界に神の国は実現するという考えが生まれました。さらに、信じれば罪が赦されて救われるという福音の中心さえゆらぎ、信じて罪が赦されるのはバプテスマまでのことであり、救われた後は神の言葉に従わなければ天国に入れない、罪を赦して欲しければ懺悔が必要だという、行いによって神の国に入れるという理解になりました。この理解に意義を唱え、「信じれば罪が赦され救われる」という福音の原点に立ち返ろうとしたのが、ルターやカルバンらが起こした宗教改革です。
   「罪が赦される」とは、何を意味しているでしょうか。聖書が教えている罪とは死です。そして、死とは神との関係を失っていることです。悪い行いをしてしまうのも、死を背負っている恐怖によって、見えるものにしがみつくところに原因があります。ですから、罪の赦しとは、神との関係を回復することです。神を信じ、私達は神の国に移されて、永遠の命を持ち、目には見えないけれど神と対話することができます。神が与えてくださった信仰のおかげで、イエス・キリストの言葉が今私達に語られている言葉として認識できるのです。罪が赦されるとは、イエスの十字架は私のためと認識することができ、神の国が私達の中に実存するようになったということです。
   私達は通常悪い行いのことを罪と呼ぶため、混乱しやすいのですが、罪という言葉は、神との関係を失った死の状態を指す言葉でもあるということをしっかり理解する必要があります。時間の流れの中で神の国をとらえようとすると、神の国とは将来実現するものになってしまいますが、そうではなく、すでに実現してあなたの中にあり、あなたはその恵みをすでに受けているのです。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)

   私達は、信仰によってイエスの十字架は私のためであり、私はキリストと共に十字架につけられて死んだという事実を確認しました。確かに今肉眼でそれを見ることはできませんが、主の日には見ることができます。私達は見える世界に生きているので、どうしても見えるもので自分を確認し、見えるものが自分の姿だと思っています。しかしそうではなく、自分がキリストと共に生きていることを信仰で認識しているかどうかが大切なのです。聖書はあなたが信じた通りになると教えます。自分はダメだと思ってダメな人生を描くなら、その通りになります。しかし、信仰で見るなら、未来もキリストの中にあります。神の国はあなたの中にあるのです。

『パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:22〜23)

   神との関係を回復した私達は、キリストと一体であり、キリストの一部です。何者も神の愛から私達を引き離すことはできません。永遠に変わらない自分の価値を信仰で認め、どんどん変えられている自分の姿を見て喜んで感謝しましょう。自分の未来、将来は素晴らしいと信じて、変えられた自分を信じて生きていきましょう。