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2015年月3月15日
全てのことを感謝しよう
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 5:12〜28)
権威

『兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 5:12〜13)

   教会の中で人々を指導し訓戒している人々とは、現代で言うと、牧師、伝道師、長老等のスタッフということになります。なぜ、それらの人々に対して権威を認め、愛をもって深い尊敬を払わなければいけないのでしょうか。それは、人間は過ちを犯すものだからです。自分が誤った方向に進んでいる時、相手に敬意を払っていなければ、指摘を受けても耳を傾けることはないでしょう。もし子どもが親の権威を認めなければ、いくら親が注意しても間違った方向に進むのを止めることはできません。ですから、神様が教職者の権威を認めよと教えているのは、あなた自身を守るためのものなのです。もし自分が間違いを犯しても、権威を認めていれば、素直に指導を聞いて軌道修正することができます。聖書は、訓戒を受けたら従いなさいと教えています。指導を受けた時には、その理由がよくわからないこともあるものですが、後から振り返って考えてみると、従ったことによって守られたと気づくことが多々あります。もし、私達が権威を認めなければ、過ちから抜け出せなくなってしまうでしょう。
   私達が陥りやすい過ちの中で、最も自分を苦しめるものは憎しみです。聖書は、「裁いてはいけない」「赦しなさい」とくり返し教えていますが、それは、怒りや嫉妬や憎しみが成長すると、自分ではどうすることもできなくなってしまうものだからです。しかし、自分の上に権威を持ち、従うことで、その火を消すことが可能になります。そうすることで、私達はお互いに平和を保つことができるのです。

『兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 5:14)

   気ままとは、規律に従わないこと、権威を無視することです。小心とは、勇気がなく臆病なことです。弱い者とは、あなたが自分自身よりも弱いと思う相手のことです。寛容とは、失敗をとがめず、相手の良い面を引き出してあげることです。
   権威を無視する生き方は、結局その人自身を滅ぼしてしまいますから戒めるべきです。また、励ます・助けるとは、物理的に援助すること以上に、信仰を育ててあげることが大切です。人間にとって最も助けとなり、励ましとなるのは、神を信頼する心です。ですから、その人の信仰が育つように励まし助けることを神は教えています。信仰を育てるものは御言葉です。神を信頼することができるように、聖書の言葉で励まし助けましょう。
   私達が永遠に積み上げることができる富は、神を信頼する心しかありません。私達を本当の意味で平安に導いてくれるのは、お金でも肩書きでもなく信仰です。信仰は、私達が子どもに残すことのできる最も偉大な遺産でもあります。神を信頼することが聖書の教える慰めであり励ましです。互いに信仰を励ましていく関係を築くことができれば幸いです。


感謝する人になりなさい

『だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 5:15〜18)

   神が私たちに望んでいるのは、感謝する人になることです。なぜ神はすべてのことを感謝するように望んでおられるのでしょうか。それには次のような理由があります。


1.神を信じる者にいのちを与え、死から救い出したから

   私達人間は皆、生まれながらに死んだ状態です。人は、アダムとエバ以来、罪によって死が入り込み、肉体は生きていても、魂は生まれながらに神との関係が絶たれた死の状態にあります。ですから人間は、生まれると同時に死へのカウントダウンが始まっているのです。このような有限の世界で生きているために、神がまったく見えなくなっていた私達が、イエス・キリストを信じることで神を信じることができるようになり、神の愛が見えるようになりました。これが、死から贖い出され、永遠のいのちを持つということです。
   私達の魂は、神と出会い、救われ、死んでいたものが生きるようになりました。あなたのいのちはイエス様のいのちと共に生きるようになり、御霊があなたの中に住まわれました。神の国は、すでに私達の内側にあります。救われた者は、肉体が滅ぶと同時に、朽ちない御霊の体に変えられ、一瞬のうちに神の国に引き上げられます。神が感謝しなさいと命じておられるのは、第一にこのことがあるからです。私達は今、永遠のいのちをいただき、自分の中に神のいのちが宿り、神が住まわれて、自分の中に神の国があるということが見えていませんが、肉体のいのちが終わり朽ちない体に変えられた時、このことがはっきりと見えるようになります。
   永遠のいのちは、イエス・キリストを信じさえすれば、誰でも受け取ることができます。しかし、イエス・キリストを拒み信じなかった者の魂は滅び、永遠の死が確定します。私達は、このまま死の恐怖を受け入れるのか、イエス・キリストを信じてよみがえり天国に行くのか、どちらかを受け入れなければなりません。神は、全世界を手に入れてもいのちを失ったら何になるのかと語り、すべての人が永遠のいのちを受け取ることを願い、感謝する人生を手に入れて欲しいと願っておられます。

2.自分を苦しめてきたものに勝利する武器を与えたから

   私達を苦しめ悩ませる根本原因は死です。神との関係が絶たれるという死の恐怖によって人間の心の中には、少しでも長生きしたい、価値を見出したい、安心したいという願いが生まれ、お金や肩書きや人から良く思われるなどの見えるものにしがみつかずにはいられなくなりました。その結果、健康が損なわれるとか、人から良く思ってもらえないとか、お金が手に入らないなどで、日々悩み苦しんでいます。経済、健康、人間関係のトラブル…すべて原因をたどっていくと、死の恐怖にたどり着きます。イエス様が十字架にかかられたのは、この死の恐怖の奴隷から私達を解放するためです。死の恐怖のスタートは神との関係が絶たれたことにありますから、この問題の解決は神に愛されていると知ることです。イエス・キリストが十字架でいのちを捧げるという行動は、あなたをこれほどまでに愛していると、教えるためのものなのです。この十字架をいただくとは、私達を苦しめてきた死の恐怖を取り除いて勝利する武器を与えられたということです。たとえ人が愛してくれなくても神は私を愛しておられる。人がなんと言おうと私は素晴らしいものだとイエス様自らが証明してくださった。この事実を持っていることを感謝しなさいと教えられているのです。
   あなたの心の問題を解決するのは、お金でも、人からの評価でも、肩書きでもありません。これを解決できるのは、あなたが愛されているという事実を知ることしかないのです。あなたを造った神様から、これほどあなたは愛されているという事実です。イエス・キリストを信じることで十字架の贖いを手にし、あなたはこれを自分のものにしました。これが感謝の二番目の理由です。


3.すべてを働かせて益とするから

   人間は過ちや失敗を犯すものですが、神はそのすべてを益としてくださいます。私達が受ける苦しみやつらさの原因はすべて人間の過失か自然災害であり、それは過ちに対する神の罰などではありません。神は罰を与える方ではなく、苦しみから救い出す方です。イエス・キリストがこの世に来られたのは、裁くためではなく救うためであるとはっきり語られています。神は人に苦しみを与えたりなさらず、むしろ人が過ちによって陥っているつらさから助け出したいと願って、苦しみをすべて益に変えてくださいます。これが神の福音であり、三番目の感謝する理由です。人は苦しみを味わい、それらを主がすべて益に変えてくださる体験をすることによって、神を信頼する心が生まれ、平安を手にすることができます。これが神の計画です。「すべてを益とする」とは、どんな患難に出会っても希望を見いだせるようになるということです。

『このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 3:3)

   これは、神が苦難を与えるという意味ではなく、出会った苦難は神によって益とされるので、苦難を通して希望を見いだせるように定められているということです。

『ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:1〜5)

   イエス・キリストを信じるということは、神との関係が回復し、神との平和つまり永遠のいのちを持っているということです。これが、信じたら救われるということです。神の栄光とは、朽ちない体に変えられて神の国が見えるようになることであり、こうして私達は、神と顔と顔を合わせてお会いする時が来るのです。けれど、そこに至るまでに私達は人生の様々な問題にぶつかり苦難に出会うのですが、これらの苦難は希望になるということが神の福音です。自らが犯した過ちによる苦難であったとしても、神が必ずそれを希望に変えてくださるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

   こうして神は私達の信仰を育て、神への信頼を増し加えようとなさいます。なぜなら、私達が天国に持っていけるものはそれしかないからです。
   パウロは、Tコリント13章の中で、今私達は自分の内側にある神の国がまったく見えない状態であり、お互いをぼんやりとしか見ることができないが、朽ちない体に変えられた時には神と顔と顔を合わせてはっきりと見ることができるようになると教えています。その時、私達の手元に残っているものが、いつまでも残るものである信仰と希望と愛です。私たちがこの地上で信仰を育て、苦難の中で希望を見出し、見返りを求めない愛が育つことが、神との交わりの土台となります。信仰が育つと希望が持てるようになり、恐れが締め出されて平安になるので、人との関わりで見返りを求める必要がなくなります。相手の態度や返答に不満を抱いたり悲しんだりするのは、これだけやったのだから感謝されるべきだ、愛されるべきだ、ほめられるべきだという期待にかなう態度ではなかったということであり、この期待が見返りを求める心ということです。見返りを求めるのは、私達が神との関わりを失って死の恐怖という恐れ・不安に支配されているためです。しかし、私達の心が神への愛で希望に満たされたら、見返りを求める必要がなくなります。これが、聖書が教える愛です。神を信頼することで愛が私たちの中に育ち、見返りを求めず、相手をありのままで受け入れることができるようになるのです。この愛こそ、天国に行ったときに神との交わりで使う土台です。イエス様が、終わりの日に行いに応じて報いを受けると言っているのは、このように各々が手にした信仰がそのまま神との交わりに使われるということです。
   いずれにしても、苦難の中で私達は希望を見出し、人を愛する心を持つことができるようになります。それは、見返りを求めない関係を築くことです。それがいつまでも残る宝であり、天に宝を蓄えるという御言葉の本質的な意味です。苦難にあったら、神がすべてを益としてくださることを忘れず、すべてのことについて感謝しましょう。あなたが失望する理由は何もありません。


御霊と御言葉によって善悪を見分けて悪を避けよ

   御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

『兄弟たち。私たちのためにも祈ってください。すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。この手紙がすべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 5:19〜28)

   聖書の中に、灯りを寝台の下に隠す人はいないと書いてあります。私達の中に住まわれている神様は、私達が良いものと悪いものを見分けることができるための光です。また、預言とは旧約聖書のことです。光である神を無視してはいけないし、神の言葉をないがしろにしてはいけないということです。神の御霊の光は御言葉を通して輝くものだから、それによって良いものと悪いものを見極め、悪いものに従わないように気をつけなさいと教えられているのです。聖なるものとは、神を信頼するものという意味です。神を信頼することが聖さであり、その結果行いも変わってくるようになります。主の来臨の時とは、私達が朽ちない体に変えられる時のことですから、それは一人一人が肉体の死を迎えた時ということになります。私達は死んだら、私達の中におられた神と実際にお会いすることができます。これが主の来臨です。こうして私達は天に上げられていきます。これが人の一生です。

   テサロニケ人への手紙Tは、まず私達が信仰に立っていることを確認し人は苦難に会うけれどそれを通して信仰が育てられていくこと、そしてすべての人が迎える死とは悲しむことではなく栄光に変えられる時であること、そしてすべての人はそれに向けて進んでいるのだからしっかりと信仰を育てていくようにと教えられてきました。最後にそれを具体的に実践する勧めとして、権威を認めて悪い方向に進まないように、御言葉を大切にして悪を避けるように教えられています。