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2015年月2月22日
愛には信仰が伴う
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 3:6〜4:12)
・第一に目指すべきもの「信仰」

『ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 3:6〜8)

   当時、テサロニケの人々は、大変な患難の中にありました。患難はできれば避けたいものですが、信仰を育てるには有益なものでもあります。
   パウロは、自身でテサロニケを訪れることができない状況だったため、テモテを遣わし、そのテモテから、テサロニケの人々が患難の中でも、主にあって堅く立っていることを聞き、慰めを受け、生きがいがあると語りました。パウロにとって慰めと生きがいとは、信仰です。自分自身についても、兄弟姉妹達についても、パウロは、神への信頼に堅く立つことを目指していました。 私達はどうでしょうか。神への信頼をしっかりと持ち、一番大切なのは信仰を育てることなのだという認識を持っているでしょうか。
   テモテは、テサロニケの人々の信仰と愛について良い知らせをもたらしました。信仰は、愛という実をならします。ただし、聖書が教える「愛」とは、行いではなく、心の向きを指します。愛が育てば、自然と正しい行いに結びつくものですが、本来は「愛」と「行い」を切り離して考えなければなりません。
   なぜ、信仰が育つと愛の実を結ぶのでしょうか。
   私達は皆、神との関係を失ったために、心の中に不安を抱えています。この不安をかき消すために、人は、富や人間関係から平安を得ようとしてきました。お金や人との関わりで、人から愛され、良く思われることで安心しようとしてきたのです。もし、相手に尽くしても良く思ってもらえず、期待通りに反応してもらえないと、人は怒りを感じます。夫婦、親子、友達との関係が壊れるのは、自分の求める反応が返ってこない時です。どんなに人に親切にしようとも、優しく接しようとも、見返りを求めている限り、それは愛ではありません。
   しかし、神への信頼が育つことで、見返りを求める行いが必要なくなります。神からの平安・安心を手にすることができるようになるので、人からの見返りを受ける必要がなくなり、相手が期待通りに反応しなくても、怒りを感じなくなります。これが、聖書が教える愛です。
   つまり神への真の信頼が育つと、心の中に愛が育つ仕組みになっているのです。ですから、パウロは、テサロニケの人たちに愛が育っていると聞いて、信仰がちゃんと成長していることを確認し、喜び、安心しているのです。
   私達が第一に目指すべきものは、神への信頼です。聖書は、「いつまでも残るものは、信仰、希望、愛」であると教えます。この順番には意味があります。信仰が育つと希望すなわち平安が訪れ、愛が育つということです。このようにして、妬みや怒りが消え、人との関わりの中に安息を見出すことができるようになるのです。
   人間のすべての問題の根元は、見えるものに安心を求めようとするところにあります。この問題の解決は、神を通して安心を手にすることです。それが信仰です。

『私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 3:9〜13)

   信仰には愛という実がなりますから、信仰が育つと、人に対する怒りや裁く思いが消えて行きます。見返りを求める必要がなくなるので、本当の意味で人に親切にできるようになります。このような信仰を持つことが、キリストが再び来られる時に、神の御前で責められるところのないことなのです。これと同様のことが、次のようにも語られています。

『そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:28)

   キリストの来臨の時、神への信頼を持っていることが、神の御前で恥じ入ることのないことです。逆に考えれば、地上での生涯が終わった時、真の信仰を持っていなければ、恥じ入ることになるというのです。
   私達が、地上の生涯で目指すべきことは、神への信頼を育てることです。今、皆さんは、何を目指し、何を宝として蓄えようと生きているでしょうか。この世の富・名声でしょうか。それとも神への信頼でしょうか。
   聖書はくり返し、神を信頼する心を育てなさいと語ります。それがすべてであり、天にたくわえることができる唯一の宝です。

・不品行を避けなさい

『終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 4:1〜6)

   「聖くなる」とは、神への信仰が育って、愛の者に変えられることです。パウロは、あなたがたの今の生き方は、神に喜ばれる生き方であるから、ますます信仰を育て、愛を育てるよう励ましています。
   信仰を育て、聖くなるという目標のためには、自分のからだを聖く、尊く保つことが鍵になります。というのは、私達の内側である魂は、神が住まわれる神殿であり、外側である体がなければ、内側は存在し得ないからです。神はまず、人間のからだを造り、そこにいのちの息を吹き込まれました。魂と体は一体なのです。死んだら魂だけが存在するようになると考える人がいますが、それは間違いです。聖書は、死んだら新しい体に造り変えられると教えています。人は、魂と体がひとつとなって、初めて生きるものとなるのです。
   このように、体は重要な働きをしている聖いものであり、尊いものであることを知らなければなりません。神への信仰を育てる上で、体に対する正しい認識を持つことを忘れてはならないのです。
   かつて、体は汚れたものであり、罪は体に依存するという間違った解釈がありましたが、決してそんなことはありません。どんな体も聖いものとして造られており、自分の体と他人の体を比較することは無意味です。すべての体は、神のいのちを宿すものであり、良きものなのです。体を感謝し、大切にしなければなりません。
   そのために、聖書は、体を快楽のために使わないように、性的な情欲に溺れないようにと警告しています。それは、神の神殿を汚すことになり、信仰が育たたないからです。

『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つのからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 6:15〜20)

   私たちの体は神の宮です。ですから、体を尊ばないで快楽に身を投じるなら、神の宮が汚されることとなり、信仰が育ちません。神の宮である自分の体を大切にし、不品行を避け、神への信頼を育てましょう。

『神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 4:7〜8)

   もし、神の宮である体を聖く保つことを拒むならば、それは神を拒むことになります。体を聖く保つことなく、信仰を保つことはできません。
   信仰には、肉の信仰と愛の信仰の二種類があります。肉の信仰とは、神から与えられた信仰を育てるのではなく、自分の中にある信念を強くする信仰です。自分の信念を強めるとは、神に対して自分の利益ばかりを求めて祈り、自分の願いがかなわないと文句を言う信仰です。
   しかし、自分の信仰が、神からいただいた信仰から来ているのか、自分の利益を求めた肉の信仰なのか、最初はなかなか区別がつかないものです。そこで、神は、どんなことでも祈って求めてみるように教えています。もし、祈っても聞かれないという現実にぶつかるならば、自分の快楽のために求めているからだと、聖書は教えています。こうして、私達は、信仰とは神を信頼するものだ、神を信頼できれば平安なのだと、だんだん気づいていくのです。
   神を信頼することが愛の信仰です。こうして、愛の信仰が育つと、体を聖く保つようになるものです。信仰が育つことと、体を聖く保つことは、別々のことではなく、同じことなのです。

・落ち着いた生活を志しなさい

『兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 4:9〜12)

   神は、自分の仕事に身を入れて働きなさいと教えます。神を信じてさえいれば、自分では何もしなくていいのかと誤解する人がいますが、そんなことはありません。神は自分で出来ることは自分でするように教えておられます。ご利益を祈って、ただ待つことが、神への信頼ではないのです。自分の手で働き、衣食住を得ることや、目標のために努力し勉強することなど、私たちが自分でできることやなすべきことを、神が代わりにしてくださるようなことはありません。
   祈って待っていたのに何も起きない、そんな時、なぜ助けてくれないのかと神に文句を言うのではなく、自分でできるのではないかと神を信頼してチャレンジしてみましょう。なんでも神にやらせようとしないで、自ら証しある生活を心がけるなら、クリスチャンでない人から責められることもありません。
   自分では何もせず、なんでも祈って面倒を見てもらうことが信仰ではありません。神に与えられた体を尊ぶということは、自分の体を使ってできることを行うことでもあるのです。そうすることで、神への信頼も育ちます。祈っても聞かれない時、自分には何ができるか、祈ってどう対処すればいいか教えていただきましょう。こうして、神に教えられたことを感謝し、神を信頼することを心がけるならば、信仰は豊かに成長します。信仰が育つと愛の実を結びます。神を信頼すればするほど、人を愛せるようにもなるのです。

『どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:23)

   信仰には愛が伴います。信仰を目指し、愛を目指しましょう。私たちの生きる目的、人生で目指すべきものは、信仰を獲得し、愛を育てること、神への信頼を増し、平安を得ることです。これが、天に宝を蓄えることであり、神の御前に出たときに恥じ入ることのない者となるということです。
   この地上でどんなものを手に入れても、信仰という真の宝を持っていなければ、地上での生涯を終える時、寂しさや不安な思いを取り去ることはできません。真に神を信頼する心をもっていれば、この世を去る時にも希望があり、感謝があります。真の宝を持つとは、私達がどのような死を迎えるかということでもあるのです。その信仰が人生に平安をもたらしてもくれます。信仰以外に必要な宝はありません。