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2015年月2月15日
信仰を強く育てる
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:13〜3:5)
・神の言葉を理解するには

『こういうわけで、私達としてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私達から神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:13)

   神の言葉が、神の言葉となるかどうかは、信じるかどうかが鍵になります。聖書は、人の手を通して、神によって書かれた書物です。ですから、人間の知識や経験で、正しく理解することはできません。聖書が単なる言葉で終わるのか、神の言葉として力をもって働くのかは、信じるかどうかで変わります。

『しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:14)

『人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私達はみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:16〜18)


   古い契約とは、旧約聖書です。覆いとは、自分の知識や経験のことです。人間の知識や経験で聖書を読んでも理解できないことが、イエス・キリストに心を向けることで、覆いが取り除けられ、理解できるようになります。キリストに心を向けるとは、十字架の贖いに心を向けることです。

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には、神の力です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 2:1〜18)

   十字架の言葉とは、イエス・キリストが、私達の罪を背負って十字架にかかり、三日目によみがえられたことと、これを信じるだけで誰でも救われるということです。これは、信じない人には愚かな言葉であり、まったく意味がありません。しかし、信じる私達には神の力となる言葉です。

『私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 2:4〜5)

『この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 2:13〜14)


   神の言葉は、御霊の働きにより、十字架の言葉を信じる信仰によって初めて理解できます。聖書を字義通りに読むのでは理解できないことが、御霊の働きによって解き明かされるのです。聖書を正しく理解するためには、人間の力ではなく、神の力に支えられることが必要なのです。
   ところが、私達の罪に対する間違った理解が、神の力の働きを止めてしまいます。それは「罪人には罰」という理解です。人間は、罪には罰があるのが当然だと考えます。その眼鏡で聖書を読むと、この律法を守れなければ罰を受けるのだと理解してしまうのです。そして、律法を守り、善い行いをすれば、ほうびがあるのが当然だと考え、神の愛や救いは、善い行いのごほうびとしてもらえるものだという誤解が生まれます。
   つまり、人間が持っている「罪人には罰」という眼鏡が覆いとなって、聖書の意味が理解できないのです。しかし、十字架の贖いという眼鏡を通して聖書を読むなら、覆いが取り除けられて、神の言葉がわかるようになります。
   「罪人には罰」という眼鏡は、福音の理解を根本的に間違わせます。神にとっての罪とは、罰するものではなく憐れむものです。あわれむ対象であるからこそ、キリストは十字架で罪を背負い、赦し、癒してくださったのです。私達が神に心を向ける時、イエス・キリストが「罪人には罰」という眼鏡を外し、「罪人にはあわれみ」という眼鏡に掛け替えてくださいます。これが神の力となり、覆いが取り除けられて、御言葉が分かるようになるのです。
   神の言葉は、神の言葉をもって理解するという原則は、十字架の言葉をもって理解するということです。パウロが、「私達が誇りとするものは十字架以外にはない」と言っているのはそのためです。これが神を信じるということです。
;  「罪人にはあわれみ」であることがわかるようになると、私達は他の人の罪を見ても裁かなくなります。自分は神の憐れみなしでは生きられない存在だということが本当にわかると、他の人の罪を裁く気にはなりません。
   そして、十字架の眼鏡で旧約聖書の律法を解釈するなら、律法の目的は、行いで救われるためではなく、罪に気づかせて、信仰を励ますためのものだと理解できます。神を信じて聖書を読むとは、十字架の贖いを信じて聖書を読むことです。大切なことはイエス・キリストの十字架の贖いなのです。

・苦難はなぜ生まれたか

『兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私達をも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。彼らは、私達が異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:14〜16)

「御怒りが彼らの上に臨む」とありますが、神の怒りとは、人に対する敵意は含まず、罪に対するものです。神の罰が彼らに下るわけではありません。
   テサロニケの人々は、イエス・キリスト同様、地元の人から苦難・迫害を受けました。身近な人ほど、行いのいろいろな部分が見えるので裁きやすくなり、受け入れることが困難になります。私達が人を裁くのは、「ねばならない」という律法のものさしで人を見るからです。律法とは、「○○しなければならない」という行いの規定です。これを守れない者はダメなものだと、自分を裁き、人を裁き、敵意を抱くのです。御言葉で人を裁くのは、神に仕えているのではなく、ただ文字に仕えているのであり、律法に支配されているのだと聖書は教えます。

『兄弟たちよ。私達は、しばらくの間あなたがたから引き離されたので―といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、―なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。それで私達は、あなたがたのところへ行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私達を妨げました。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:17〜18)

   パウロは迫害によってテサロニケに行けなくなったことを、「サタンに妨げられた」と言っています。それは、迫害という敵意は律法から生まれ、律法に仕える生き方は死の恐怖から生まれ、その死を持ち込んだのがサタンだからです。
   死とは、本来共に生きておられた神との関わりを失うことであり、この不安が恐れとなって、人は何かにしがみついて安心しようとしています。私達がしがみつくものの第一は、人から良く思われたいという安心です。そして、人から良く思われるために、「○○しなければならない」という律法にしばられます。また、富や物にしがみついて安心を得ようともします。聖書はこれを、貪りあるいは偶像礼拝等と呼びますが、その根本原因である死の恐怖を持ち込んだのがサタンです。ですから、「サタンに妨げられた」と言っているのです。聖書が「死のとげは罪であり、罪の力は律法」と教えるのは、死の恐怖によって律法に仕えるようになった結果、様々な敵意や苦難が生み出されているからです。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(新約聖書 ヘブルの手紙 2:14〜15)

   主は、私達を死の恐怖の奴隷から解放するために、サタンを滅ぼしました。滅ぼすとは、存在を消滅させることではなく、機能停止の意味で、サタンの働きが止められたということです。自分が死の恐怖の奴隷となって、見えるものにしがみつき、律法に生きていることがわからないと、聖書の本当の意味はわかりません。

・神から与えられた信仰は成長する

   私達の主イエスが再び来られるとき、御前で私達の望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私達の誉れであり、また喜びなのです。

『そこで、私達はもはやがまんできなくなり、私達だけがアテネにとどまることにして、私達の兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私達はこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私達は苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。そういうわけで、私も、あれ以上はがまんできず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私達の労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:19〜3:5)

   患難の中で信仰を保っているテサロニケの人々の信仰を強め励ますために、テモテが遣わされました。信仰を強め成長させることこそ、神が私達に願っておられることであり、私達が目指すべきところです。
   信仰は、神から与えられた賜物です。人は信じる能力を持ってはいますが、その力でイエスを救い主と信じることはできません。それは、神から与えられた信仰とは全く別物です。イエスを救い主と信じる信仰は、神から与えられたものです。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8)

   信じるという行為は同じように見えても、自分の力で信じる信仰は肉の信仰です。しかし、「イエスは主」と信じることができるのは、自分の信仰ではなく、神から与えられた信仰です。
   神が与えた信仰の最初の働きは、イエスを信じることです。そして、「からし種ほどの信仰が、大きく成長する」と聖書にあるとおり、信仰は、私達の中で成長し、神への信頼を増し加えます。これが、信仰を強くする、あるいは、神に近づくということです。
   どのような時代、どのような環境に生きていようとも、神から信仰を与えられた者に課せられた課題はひとつ、神を知り、神を信頼する者となることです。聖書はこの目標のために書かれています。
   信仰が成長し、神への信頼が増し加わることが、神に近づくということであり、そうなればなるほど、心に平安が増し加わります。これが、安息に入るということです。私達の心の多くの領域を平安が占めるようになっていくと、恐れが占める領域が減り、心の中から恐れが締め出されていきます。すると、見えるものにしがみついて、平安や安心を得ようとすることの愚かさがわかるようになり、律法という文字に仕える生き方から解放されます。これが自由を得るということです。
   このような信仰をいただいているにもかかわらず、私達はいまだに律法にしばられ、人の目を気にして、自由を味わっていないのではないでしょうか。私達の心を真に自由にするのは、イエス様を信頼する信仰です。私達の心が自由を取り戻し、律法に仕えなくなると、私達の心の中に愛が育つようになります。

『ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15)

   人と人の間に敵意が生まれるのは、律法があるからです。「○○してはいけない」という律法があると、違反する人に対して、敵意が生じます。敵意は相手に対する怒りを生み、あいつはダメなやつだと思うようになります。こうして、律法が人の価値を判断するものさしとなります。
   イエス・キリストは、この敵意を廃棄するために十字架にかかりました。信仰が成長すると、十字架の贖いがわかるようになり、平安が増し加わるので、私達から怒りや敵意が廃棄されます。自分の中に人を裁く思いがあると、判断できるようなるのです。あなたが、もし怒ったり裁いたりしているなら、信仰はまだそれほど成長していません。信仰が成長すると、平安に満たされますから、律法にしがみつく必要もなくなり、律法で人を裁くことをやめるようになります。また、あなたの中に妬みや嫉妬があるならまだ肉に属していると聖書は教えますが、これもすべて律法が原因です。
   私達の信仰が成長し、律法に仕える生き方から解放されると、人に対して敵意を持つことがなく、怒らず、裁かず、許すことが自然にできるようになります。これを聖書は愛と呼びます。つまり、信仰が成長すると、愛が育ちます。これが私達の目指すべき生き方です。神の律法の目的は、愛に集約されます。こうして律法は廃棄されますが、神の律法の目的は成就するのです。

・どうすれば信仰が成長するか

   聖書は、苦難によって、私達の信仰は成長すると教えます。ただし、神が苦難を与えるわけではなく、この世の苦難はすべて、罪によって引き起こされています。ですから、苦難は、人間に罪を生じさせた悪魔による妨げであると言えるのです。しかし、神はこの苦難を逆手にとって、神を信頼するチャンスに用いて下さるのです。

『弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。』(新約聖書 使徒の働き 14:22)

   神の国とは安息のことです。この世に生きている間中、罪は私たちを苦しめます。苦難は避けられるなら避けたいものですが、罪人である限り、避けられません。しかし、私達は苦難の時を、神に祈り、神を信頼するチャンスとすることができます。罪によって招いた苦しみも、失敗からくる苦難も、逆手に取れば神にすがるチャンスとすることができるのです。
   私達にとって大切なことは、信仰を育てることです。私達が天国に持っていけるものは、信仰だけです。この世で築いた名誉や富は、すべて誰かの手に移ります。神を信頼し、愛する心だけが、神の国に持っていける唯一の宝です。天に宝を蓄えるとは、この宝に目を留めて、イエス様を信頼する心を育てることです。この宝を育てるには、苦難の中で訓練される必要があるのです。苦しみには多くの恵みが隠されています。その中にあって私達は信仰を持ち、信仰を育てることができます。それが神の福音です。苦しみは神の罰ではありません。信仰を育てるチャンスです。苦しみとしっかり向き合って、神に心を向けましょう。それを通して、平安を手にし、愛という素晴らしい宝を育てることができるのです。