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2015年月2月8日
神のことば
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:8〜12)
御国と栄光とに召す

『このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私達自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私達の愛する者となったからです。兄弟たち。あなたがたは、私達の労苦と苦闘を覚えているでしょう。私達はあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。また、信者であるあなたがたに対して、私達が敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。また、ご承知のとおり、私達は父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:8〜12)

   「神の福音」とは、「神が伝えておられる良い知らせ」のことで、その内容は「ご自身の御国と栄光に召してくださる」ことです。
   「御国に召す」とは、この地上での生涯が終わった後、天国で永遠に生きる命をいただくことです。この恵みは信じるだけで受け取ることができ、他に一切条件はありません。あなたに差し伸べておられる神の御手にしがみつきさえすれば、誰でも救われます。こうして神との関係を回復したら、どのようなことがあろうとも、決して永遠の命が取り消されることはありません。
   「栄光」とは、救われた人が神の似姿に変えられていくことです。罪が取り除かれ、神との関係が築かれていくことによって、私達は変えられていきます。聖書が教える罪とは、神を信頼せず見えるものを信頼して、人間関係やお金といった見えるものにしがみつくことです。見えるものは必ず失われる時が来ますから、これらで安心しようとする限り、決して完全な平安は得られません。しかし、神との関係に自分の安心を置くならば、それは何があっても壊れることはなく、神を信頼できるようになればなるほど、かえって平安は増し加わります。聖書はこれを安息と呼びます。つまり、第二の福音として記された「栄光」とは、神との関係を築いて、神を信頼できるようになり、安息を得ることです。

「神のことば」を信じるとは

『こういうわけで、私達としてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私達から神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:13)

   テサロニケの人々は、パウロが神からのメッセージとして語った言葉を、神の言葉として信じました。彼らが信じたことによって、御言葉は、神の言葉として働きました。
   神はご自身の思いを伝えるために、人の言葉を使っていらっしゃいますが、神の思いを正しく理解するためには、人の言葉という制約があることを考慮しなければなりません。
   たとえば、旧約聖書では、「神の怒り」という表現がたびたび登場しますが、「神の怒り」と「人の怒り」は、根本的に異なります。「人の怒り」には、相手に対する敵意が含まれますが、「神の怒り」は、人を苦しめる罪に対するものであり、人に対する敵意は含まれていません。しかし人は、「怒り」と聞くと、人への敵意を思い浮かべ、神は人に対して怒って罰を与えようとおられるのだと誤解が生じます。そこで神は、人間が正しく理解できるように、神の怒りは人ではなく罪に向けられており、神は人を愛してやまないことをくり返し語っておられます。これを無視して、「神の怒り」を「人の怒り」と同じものだと理解してしまうと、神の愛がまったく見えなくなってしまいます。これが、人の使う言葉の制約を受けているということです。
   また、「愛」についても、神と人では思いが異なります。「人の愛」は見返りを期待しますが、「神の愛」とは神を信頼することです。そこで、神は、人間に「神の愛」を理解させるために、当時一般的に使われていた言葉を用いず、ほとんど使われていなかった「アガペー」という言葉を用いて、神の愛と人の愛とは異なることを伝えようとなさいました。
   このように、神の言葉を人の言葉の理解で字義通りに解釈しないように、注意しなければなりません。

『パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(新約聖書 ルカの福音書 18:11〜12)

   パリサイ人は、神の戒めを字義通りに解釈し、行いだけに着目して、「私は神の律法をきちんと守っている正しい人間だ」と言いました。しかし、イエス様は、彼は間違っている、神の意図を正しく理解していないと指摘しておられます。イエス様の基準は次の通りです。

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:27,28)

   人は、姦淫を行いに限定して考え、体の関係さえ持たなければ、何をしようと、何を思おうと、自分は悪くないと考えます。ところが、神の基準では、自分は姦淫したことがないと言える人はいません。
   また、偶像礼拝に関しても、多くのクリスチャンが、自分は仏壇や神社で手を合わせないから偶像礼拝をしていないと思っていますが、神は、見えるものに頼る生き方はすべて偶像礼拝だと教えます。もし見えるもので安心しているなら、偶像礼拝と同じことです。
   ですから、聖書ははっきりと、神の律法を守れる人はひとりもいないと言っています。神が律法を与えた意図は、人に「自分は神の律法が守れない」と気づかせることです。もし、律法が守れたら、人は自分の行いで神に認めてもらおうと考えます。しかし、救いは、人の行いによるのではなく、神の恵みによるものです。神の律法が守れないことに気づき、自分の力では救われないと知って、神の恵みにしっかりしがみつかせるために、律法は存在します。それを理解しないで、パリサイ人のように、ただ字義通りに解釈することを、聖書は文字に仕えると言っています。

神に尋ねなさい

   聖書を読む時に大切なことは、神が何を言おうとしているのか、神に尋ねることです。これが「信じる」ということなのです。「人の言葉ではなく神の言葉として信じたから神の言葉として働いた」とは、「この言葉を通して神様が私達に教えたいことは何ですか」という信仰を持って御言葉を読んだということです。この時、聖書は、文字ではなく、神の言葉として私達に入ります。しかし、神に聞こうとしないで、自分の知識と経験だけで聖書を読むなら、それはただの人間の言葉であり、いつまでたっても心に響かず、あなたを助ける力とはならないのです。

『神は私達に、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:6)

   文字に仕えるとは、聖書を字義通りに解釈し、こうあるべきだと行いにしばられる生き方です。御霊に仕えるとは、神を信頼し、神に祈って聞く生き方です。聖書の言葉が、本当に神の言葉として生きるかどうかは、私達が神を信じて祈るかどうかによります。もしあなたが神を信頼して尋ねることをしなければ、聖書の言葉はただの文字であり、あなたにとって何の力もありません。
   神が、多くのことをたとえを使って話されたのは、神に意味を聞かなければ理解できないようにという神の知恵によるものです。それを無視して字義通りに解釈すると、間違った信仰が生まれてしまうのです。

『神はこれを、御霊によって私達に啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私達は、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私達に賜ったものを、私達が知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 2:10〜13)

   聖書は、神に心を向ける時、神がそこに働き、人の言葉という覆いが取り除けられ、わかるようになっているのです。神の言葉を知りたければ、神に聞き、神の助けを受けなければなりません。新約聖書の中に、このことがよくわかる例があります。

『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:53〜54)

    現代の私達には、これは聖餐式を教えるたとえであることがわかります。しかし、もし、この御言葉を字義通りに受け取らなければならないとしたら、恐ろしいことです。実際にこの言葉を聞いた弟子の多くがつまずき、去っていってしまいました。彼らに対して、イエス・キリストは次のように言っておられます。

『このことであなたがたはつまずくのか。それでも、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」「それだから、わたしはあなたがたに『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:61〜65)

   イエス様は、こんなことでつまずくのであれば、これから起きることでさらにつまずき、何も理解することはできないと言われました。つまずいた彼らの問題は、わからないことをイエス様に聞こうとしなかったことです。イエス様に最後までついていったペテロは、わからなければどこまでもイエス様に聞く姿勢を持っていました。
   大切なことは、イエス・キリストの十字架の愛を信じ、神が私達を愛しておられることを信じて聞くことです。「神様、これはどういう意味ですか」と聞くならば、私達の中に住んでおられる神が、そのことを明らかにしてくださいます。これが、聖書の正しい読み方であり、神の言葉を御霊によって理解するということです。

『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:39,40)

   聖書は、キリストを知るために書かれた書物ですから、御霊に導かれ、神に意味を教えていただくならば、聖書は必ずキリストへの信仰に結びつきます。しかし、もし、神はこのような方だと勝手に決めつけるなら、いつまでたっても神は見えません。キリストに対する信仰に結びつかない読み方は、正しい読み方ではありません。
   偶像礼拝や姦淫に関する律法に関しても、本当の意味を理解すれば、自分の罪深さに気づき、神に助けと憐れみを求めるしかありません。こうして、神に目を向けるしかない状況に気づかせ、律法は私達をキリストに導くための養育係となったと聖書は教えます。

『ことばは人となって、私達の間に住まわれた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:14)

   神は言葉として私達の中に住まわれます。聖書には神が伝えたいことが記されているのだと信じ、神に聞くならば、御言葉は私達の中で神の言葉として生き、神が私達の中に住まわれ、平安に導いてくださいます。

信仰に立っているかどうかを吟味する

『あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 13:5)

   聖書の言葉を字義通りに解釈するのではなく、神に聞いて判断しようとする時、危険なことは、自分の思い込みによって私的解釈を行うことです。私達が正しく御言葉を理解しているかどうか、どのように吟味すれば良いのでしょうか。
   聖書はキリストを証しし、キリストに導くためのものです。神は愛ですから、キリストに導かれるならば、愛がわかるようになり、人を愛せるようになります。ですから、聖書を神の言葉として信じるなら、それはキリストへの信仰に結びついて、人を裁かなくなるのです。もし人を裁くなら、それは文字に仕え、律法という行いの規定に仕えているということです。つまり、正しく聖書を読んでいるかどうかは、キリストへの信仰に結びついているか、すなわち、人や自分を裁いていないかどうかで判断します。
   イエス・キリストは、姦淫をしていた女性が捕まった時、この中で罪を犯したことのない人から石を投げなさいと言われましたが、誰も投げませんでした。その通りです。私達は誰も裁く権利、文句を言う権利を持っていません。それなのに、人を裁くのです。それは、私達が文字に仕え、聖書を正しく読んでいないからです。
   ただ文字を読むのではなく、神に祈り求めながら聖書を読むならば、まず自分が神に愛されているという事実に気がつきます。神には、人に罰を与えるという概念はなく、ただ愛だけが存在します。そして、愛されていると気づけば気づくほど、私達は人を裁かなくなり、愛せるようになります。ですから、正しい信仰を持っているかどうかは、人を裁かないかどうかで確かめることが出来るのです。
   神が御言葉を通して何を伝えようとしておられるか、祈って聞く時、聖書の言葉は、真に神の言葉となり、あなたの力となり、あなたを助けることができます。しかし、あなたがそれを信じなければ、ただの人間の言葉です。私たちが神につまずくのは、自分の知恵や経験に頼って、人の言葉で神を理解しようとしている時です。私たちを愛して十字架に掛かった神の愛を通して理解する時、初めて理解できるようになります。ここに計り知れない神の知恵があるのです。神の言葉は、そこに神の働きを受け入れる者には、神の言葉です。

補足

   「聖書は字義通りに受け止めるのではなく、神がそのことを通して何を語ろうとしておられるのか」と祈って聞くことで、初めて神の言葉として受け取れるものであるという点に関して、誤解のないように少し補足をします。
   聖書には、もちろん字義通りに受け止めなければならないことも書かれています。例えば、イエス様は処女マリヤから生まれた、十字架に掛かり三日後によみがえられた等の出来事や、イエス様のなさった奇跡やイエスが言われた励ましなどは、字義通りに受け止めなければなりません。
   字義通りに受け止めるかどうかの目安は、その理解がキリストへの信仰に結びつくかどうかです。イエス様が行なった「奇跡」や「励まし」は字義通りに受け止めるからこそ、困難に遭ってもキリストの奇跡を期待する信仰が湧き上がってきます。
   逆に、旧約聖書に書かれている「律法」の教えや、神の「感情」表現、また比喩で書かれた「黙示録」などは、字義通りに受け止めるのではなく、キリストの十字架の愛を信じ、その愛を基準にして意図を判断しなければ、誤解が生じ、正しい信仰には結びつきません。 聖書は、当時の人の言葉を使い、当時の人が理解できる表現で書かれています。特に旧約時代は、今日とは言葉も理解の仕方も大きく異なるため、当時の背景を視野に入れず、現在の言葉の理解で字義通りに受け止めてしまうと誤解が生じてしまいます。
   大切なことは、聖書はすべてキリストを証しするために書かれているということです。十字架で私たちを愛してくださったキリストへの信仰に結びつけることが目的です。神には「罪=罰」という考えはなく、ただ「罪=憐れみ」という思いしかありません。その物差しで聖書を読むと、キリストへの信仰に結びつきます。

『こうして、律法(当時は、聖書のことを律法と呼んでいた)は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:24)

   主の恵みと平安が豊かにありますように。三谷和司