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2015年月2月1日
母が子を育てるように
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:1〜8)
『兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:1,2)

   パウロは、苦難に会いましたが、大胆に福音を語ることができました。それは、神が苦難から彼を助けて出してくださったからです。神は、必ず私たちの祈りに答えて、苦難から助け出してくださいます。

・イエスの名によって祈る

『その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:23,24)

   神に答えていただくためには、まず祈り求めることが必要です。神は人間に自由意志をお与えになったので、私たちの意志を無視して、求めないのに与えるようなことはなさいません。神は、私たちの選択に応じて答えてくださるのです。
   イエス様は弟子たちに「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはない」と言われました。しかし、弟子たちは、これまでに何度もイエスの名によって祈っています。ということは、私たちが考えているイエスの名によって求めるということと、神の考えは、少し違うことがわかります。
   それは第一にあきらめないことです。もし、困難にぶつかって途中で祈りをあきらめてしまうなら、神は初めから求めていなかったと判断なさいます。
   困難にぶつかってあきらめられるようなことなら、神の側からすると、求めているとは言わないのです。神は、本気で求めることを望んでおられます。
   第二に、「イエスの名によって求める」とは、あなたの心が神に向いていることが必要です。あなたの人生の優先順位は、キリストが一番になっているでしょうか。生活の優先順位は、礼拝が一番になっているでしょうか。
   イエス・キリストは、ふたりの主人に同時に仕えることはできないと言われました。イエスの名によって求めるとは、神と共に生きたいという優先順位が明確になり、神のほうを向いて生きる土台があって初めてできることなのです。神が一番でなければ、イエスの名によって求めているとは言いません。
   この時、弟子たちは、残念ながら、イエス様は二番目でした。弟子たちにとっては、この世の心づかい、すなわち、人から良く思われることが一番だったのです。
   私たちも、もし自分がクリスチャンだと知られると恥ずかしい、福音を語るのは恥ずかしいと思っているのであれば、優先順位の第一は世の心づかいであり、イエス様は二番目です。しかし、弟子たちも初めはそうだったのです。人は皆、そういう過程を通り、だんだん優先順位が上がってくるようになるものです。そして、神にしっかりと目が向く時、私たちは、イエスの名で求めることができるようになるのです。 当時の弟子たちは、途中で祈りをあきらめてしまうし、イエス様よりも人にどう思われるかが優先されていました。イエス様は、弟子の心がまだ神を第一にできていないと知っていたために、まだ私の名において求めたことはないと言われたのです。
   聖書は、祈っても答えられないのは、自分の欲のために祈るからだとも教えています。本当に神を第一として求めるなら、神は答えてくださいます。しかし、この世でどうしたら成功するか、どうしたら幸せになれるか、そういうことには答えないのです。
   私たちにとって大切なことは、このことを知って、軌道修正することです。神に心が向けば、自分が神に愛されていることと、神なしでは生きられないことに気づき、神が人生の土台、人生のすべてになります。神は私たちに、神を第一に愛する人生を築いてほしいと願っておられるのです。

・神の愛を受け取る

『私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実をもうけたりしたことはありません。神がそのことの証人です。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:3〜5)

   人にへつらいのことばを語るのは、人を喜ばせようと思うからであり、その動機は、自分は愛されている、価値ある人間であると確認したいためです。人は、自分の価値がわからないと不安なのです。
   それは、私たちは、神に愛されて生きる存在であるにも拘わらず、神との関係を失ってしまったからです。そのために、自分が愛されていることがわからなくなり、自分の価値が見えなくなってしまったのです。そして、神の愛が見えないために、人の愛を受けようとする習慣の中で生きてきました。
   しかし、神との関係が回復した今は、神の愛が見えるようになるはずです。ところが、今、神の愛が見えないのは、人からの愛を確認するために、人を喜ばせようとして生きるところに問題があるのです。そのために、福音は人を喜ばせるためのものではないと語られているのです。 イエス様は、世の心づかいと富の惑わしが御言葉をふさぐと言われました。私たちが人から愛されたり、物を手に入れたりすることで安心することを、神はわかっておられます。クリスチャンになってもその習慣が残っているために、神の愛が見えず、平安な義の実を結ぶことができません。ですから、この問題は、なんとしても解決しなければなりません。
   どうすれば神の愛を知ることが出来るのでしょうか。それは、神は、ありのままのあなたのすべてを愛していると知ることです。 人間は、悪い人や嫌な人を愛することができませんから、人から愛されるためには、悪い自分を隠さなくてはなりません。その習慣によって、私たちは神に対しても、自分の中に悪い思いがあることを隠して、良い自分を見せることで、神から愛されようとしてしまうのです。しかし、そのことがむしろ、あなたと神の間を邪魔して神の愛を見えなくしているのです。
   あなたがどのような者であっても、神はあなたを愛し、愛するがゆえに、あなたを苦しみから解放したいと願っておられます。自分では罪をどうすることもできないつらさも、その罪を手放すことができないつらさも、それを隠し続けるつらさも、あなたが罪を隠すことをやめ、神の前に差し出すならば、あなたを愛するがゆえに、神がそれを背負い、すべてを赦し、この愛が変わることはないと、何度も語り続けておられます。神にあなたの罪を差し出すとき、あなたは神の愛が見えるようになるのです。
   にもかかわらず、私たちは長年の習慣により、そんなことをしたら神から愛されないのではないかと恐れ、神にすべてを差し出すことができません。なかなか神を信頼することができないのです。
   イエス・キリストは、放蕩息子のたとえの中で、放蕩息子が彼のすべてを差し出した時、初めて父(神)に愛されていることがわかったと教えておられます。
   「神様、どうか私を助けてください。あわれんでください。」と、神の前にへりくだって、自分の罪や弱さを、正直に告白すればするほど、言いようもない平安を体験することができます。世の中でそんなことをしたら、つらい仕打ちを受けるでしょうが、神は逆です。どうか、心の中に隠している罪を神に知っていただき、あなたの心の重荷を下ろして、この平安を体験してみてください。祈るほどに、心に言いようもない平安が訪れ、神に愛されていることに気づき、神のために生きようという経験をすることができます。この経験を一度でもすると、神にしっかり焦点が合い、神の名で祈ることができるようになります。
   神に愛されていることに気づくためには、あなたが自分のつらさを神に差し出さなければなりません。人を愛せない自分、憎む自分、神はあなたの弱さ・罪という重荷を取り除くことに、神は興味を持っておられるのであって、あなたが何かできることに興味があるわけではありません。
   人を喜ばせることばを語ろうとするとき、私たちは人からの愛を求めています。そのことに気づき、神に愛されていることを体験しましょう。神の前に、正直にさらけ出せば、その愛を体験することができます。

・神が祈りに答えるとは

『また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 2:6,7)

   イエス・キリストは、神ご自身であられるにも拘わらず、むしろそのことを隠して、人々に仕え、愛し、導いてくださいました。パウロも、イエス・キリストと同様です。権威を振りかざして、私たちを従わせることを望まず、親のように優しく養い育てる姿は、そのまま神ご自身のお姿です。このように、神は優しい方であり、私たちが祈り求めるならば、何でもその答えを導いてくださいます。しかし、神が私たちを子として愛し育てるということは、その優しさの中には親としての厳しさも備わっているということです。

『そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。』(新約聖書 ヘブルの手紙 12:5〜7)

『すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(新約聖書 ヘブルの手紙 12:11)


   神の厳しさの目的は、私たちに平安をもたらすためです。
   この代表的な話は、旧約聖書のヨブ記です。ヨブは、突然の苦難に出会い、家族、財産、しもべを失います。彼の妻が、神を愛しているのになぜこのような目に会うのか、神に文句を言いなさいとつぶやいても、神を信頼し続けたヨブでしたが、自分自身が重い病にかかり、ついに、こんな苦しみに会うくらいなら、造らないでくれたほうが良かったと、自分の生まれた日をのろうという形で、神に対してつぶやきました。
   この時、ヨブの3人の友人が彼にアドバイスをしました。それは、このような災いに会うのは、あなたが気づかないうちに罪を犯し、神が怒っておられるからに違いない、悔い改めて神の赦しを請いなさいというものでした。ところが、ヨブは決してそのようなことはない、自分は罪など犯していないと言い張り、3人は黙ってしまいます。すると、神ご自身がヨブに対して口を開きました。ヨブは神の前に傲慢だったことを悟り、悔い改めて、以前の倍の祝福を受けます。その後、神はヨブの3人の友達に対して、お怒りになりました。それは、3人が神の思いを語らなかったからです。神は、人が罪を犯したからといって、怒って罰を与えたりはしません。彼らは神に対して思い違いをしていたのです。神はヨブに、3人の友人をとりなして祈るように教えました。
   ヨブが受けた患難は、彼に平安な義の実を結ばせるための訓練でした。神は、ヨブなら、この訓練に耐えられると知っておられたのです。決して、罪を犯したから罰したわけではありません。
   私たちは患難に出会うと、つい神から罰を受けているのだと考え、自らを裁いたり、落ち込んだりするものです。しかし、決してそんなことはありません。神は罪に対して罰を与えることはありません。神は、私たちに平安な義の実を結ばせるために、訓練なさるのです。訓練とは、神が直接手を下して災いを与えることではなく、私たちが自らの選択によって苦難に会ったとき、それを益としてくださることです。
   神の訓練の目的は、静観することによって、あなたは神なしでは生きられないことに気づかせることです。それが究極の平安の答えです。このことに気づいていないから、神を第一とすることができず、平安を得られないのです。私は神なしには存在し得ない、神なしには生きられないという人間の弱さに気づいたら、神に愛されていることを知り、真の平安を手にすることができます。これが、神は親が子を育てるように優しく接するということに含まれる意味です。
   私たちは、祈りが答えられるというと、自分の願いが叶えられることを想像しますが、そうではなく、自分は神なしには生きられない存在であり、神に愛されていることを知って、平安を得ることこそ、本当の祈りの答えなのです。これが、神が私たちに与えたい安息です。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブルの手紙 11:13)

   自分の弱さを知り、イエス・キリストなしでは生きることができない自分だと気づき、神が共におられる喜びの中に生きることができることこそ、神が与えたい究極の祈りの答えです。
   私たちが目指すべきは、この弱さに気づくことです。これが心に平安を結ばせます。神は、そのために私たちを訓練しておられます。ですから、何事もつぶやかないで、感謝し続けましょう。神は決してあなたを罰したりすることはなく、あなたを愛し、真の平安に気づかせたいと願っておられるのです。