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2015年月1月25日
心の食事
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 1:1〜)
   新約聖書のパウロの手紙は、「信仰による救い」をテーマとした「ローマ人への手紙」から始まり、その後、初信者から成熟したクリスチャンに成長するという流れで書かれています。福音の第一は、信じて救われることであり、第二は平安を手にすることです。イエス・キリストを信じて救われた者の次のテーマは、「どうすれば平安が手に入るか」ということです。

・恵みと平安

『パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 1:1)

   恵みとは、大きく分けて、イエス・キリストを信じれば救われるという救いの恵みと、罪を言い表せば赦されるという赦しの恵みの二つがあります。
   救いの恵みは、神との関係を回復する恵みです。この恵みによって、神からいただいた永遠のいのちは、決して取り去られることはありません。
   これに対して、「多く赦された者は、多く神を愛するようになる」と聖書にある通り、赦しの恵みとは、赦される経験によって神を信頼できるようになる恵みです。そして、神を信頼できるようになると、平安になります。
   つまり、「恵みと平安」の「恵み」は、赦しの恵みを指し、罪が赦される恵みによって平安が増し加えられますように、と語られているのです。平安は、安息とも言い、神への信頼が増し加わる事によって得られるものであり、このことを「救いを達成する」という言い方をすることもあります。

・テサロニケのクリスチャンたち

『私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 1:2〜3)

   パウロは、テサロニケのクリスチャンについて、彼らの信仰の働きと愛の労苦とキリストへの望みの忍耐を思い起こして、神に感謝していると述べました。

1.信仰の働き

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:6)

   信仰は神からいただくものであり、二つの働きがあります。一つは、神がおられることを知る働きです。イエス・キリストが神であると信じることができたのは、神から信仰をいただいたからであり、自分自身の力によるものではありません。二つ目は、神は必ず答えてくださるという神への信頼を増し加える働きです。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)

   信仰の働きは、目に見えない神への信頼を確信させます。救いの恵みを手に入れたクリスチャンが次に目指すのは、信仰を働かせることです。

2.愛の労苦

   聖書が教える愛は、見返りを求めません。神は、一切条件をつけずに、私たちと関わってくださいます。この愛は、神を信頼することで手に入れることができます。
   人の心は愛を求めています。そのため、人に良く思われて、人から愛されることで平安を得ようとしています。人に親切にしても、誰にも良く思ってもらえなければ、平安ではいられません。このように、人の愛は見返りを求めているのです。 しかし、神との関係を築き、神から平安が手に入るようになると、人に平安を求める行為をしなくなります。ですから、見返りを求めずに、人と関わりが持てるようになるのです。
   神を信頼していなかった時は、人から良く思われることで平安を得ようと頑張ってきました。このような行いは、聖書が教える愛ではありません。しかし、信仰が働くようになると、神を信頼できるようになり、神からの平安を得るので、真の愛の働きができるようになります。

3.主イエス・キリストへの望みの忍耐

   何事もあきらめないで、いつどんなときも主への望みを抱くことです。
   この3つは、私達クリスチャンが目指すべき姿です。神から頂いた信仰を働かせて、神を信頼する者となり、それによって平安を得て、真の愛の働きができるようになり、失望しないで希望を持ち続けることが出来る、このような生き方を神は私たちに望んでおられます。パウロは、テサロニケの人々が、このような正しい方向に向かっているのを見て、喜んで感謝しているのです。

『神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 1:4〜5)

   「神に選ばれた者」とは、神によって救われたという意味です。神が救う者を選んでいるわけではなく、すべての人を救おうと手を差し伸べておられます。それをつかむかどうかは、人の側の選択にかかっています。拒めば、永遠のいのちを手に入れることはできません。神は、人に意志を与えてくださったので、神がくださるものを受け取るかどうかは、本人の責任になります。
   私たちは、人が語った福音の言葉だけで救われたのではなく、神の御業によって、強い確信すなわち信仰が与えられたので、信じることができたのです。救いは、人の行いによるものではなく、神の恵みであり、私たちはそれを受け取ったに過ぎないという確認がここでされています。

・苦難の中でどうするか

『また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 1:5〜8)

   テサロニケの人々は、苦難に会った時に、御言葉を受け入れ、信者の模範に成長しました。御言葉を受け入れることを、聖書は、神の言葉を食べることだと言っています。それは、体に食事が必要なように、心にも食事が必要であり、心に必要な食事は言葉だからです。人は、言葉を食べて生きています。そして、言葉には、神の言葉と、人の言葉の二種類があります。 体の食事には、いろいろな食べ物があり、食べ物の選び方・食べ方によって、病気にもなるし、健康にもなります。体の食物と同様に、心の食物である言葉も、きちんと食べれば模範に成長できる言葉もあり、食べることで病気になる言葉もあります。どの言葉をどのように食べれば良いのでしょうか。
   テサロニケの人々は、神の言葉を食べて成長しました。私たちの多くは、人の言葉ばかりを食べて生きようとし、神の言葉をなかなか食べないものです。そんな私たちが、積極的に神の言葉を食べようとする時が、苦難に会う時です。これは、人の弱さでもあり、テサロニケの人々も、苦難に出会い、御言葉を求めました。
   苦難に会った時、どうするかが大切なのです。人の言葉を食べようとするのか、神の言葉を食べようとするのか、その時、何を食べるかで、人生は大きく変わります。苦難はいつ来るかわからず、避けようがありません。普段から神の言葉を食べていれば、苦難に会った時に、神の言葉をしっかり食べることができます。

『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:1〜2)

   「御霊に属する人」とは、神の言葉を食べて生きようとする人であり、「肉に属する人」とは、人の言葉を食べて生きていこうとするクリスチャンです。乳とは、人の言葉であり、堅い食物とは、神の言葉です。神の言葉を食べるのが無理な状態とは、人の言葉、人の慰めを求めているために、神の言葉が語られても拒否してしまうということです。

『あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:3)

   神の言葉を食べるためには、まず自分が肉に属していると気づくことが必要です。その判断材料として、自分の中に、ねたみや争いや怒りがないかどうか調べてみましょう。もし、そのような思いがあるなら、自分は今、人の言葉で生きていると判断することができます。
   私たちが怒るのは、人の言葉を信じてしまったからです。人をねたんでしまうのは、人の言葉を聞いたからです。傷つく言葉を言われたり、無視されたりすると、誰でも落ち込みます。私たちのコミュニケーションの多くは言葉によるものではなく、人のちょっとした態度やボディーランゲージによって多くのメッセージを受け取ります。否定的なメッセージを受け取ると、人は誰でも落ち込むものです。
   しかし、冷静に考えれば、神が私たちに送っているメッセージは、どんな時もあなたを愛している、あなたは私にとって高価で尊いというメッセージです。神は、常に十字架を見上げなさいと語っておられます。イエス・キリストは、あなたをどれほど愛しているかを示すために、十字架にかかってくださったのです。
   このように、私たちには、常に二つの言葉が存在します。どちらを信じるか、どちらを食べるかは、自分の選択です。私たちが落ち込んだり、ねたんだり、怒ったりするのは、人の言葉を食べた結果です。神の言葉を食べれば動じることはありません。人の言葉を食べることをやめない限り、神の言葉を食べることはできません。 なぜ患難がチャンスかというと、本当に苦しく辛い時、人の言葉は役に立たないからです。つらさの中で、そのことに気づき、神に心が向くようになります。そして、神の言葉を食べた時、真の平安を得ることができるのです。患難の中で、神の言葉の必要に気づくことができれば幸いです。
   イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉による」と言われました。神の言葉こそが、真の食事です。落ち込んで、人の慰めも音楽も役に立たない時、神の言葉は本当の慰めになります。聖書を開いて神に御言葉を求める時、あなたの心は変えられ、そこから希望が見えてくるようになるのです。こうして、神の言葉の素晴らしさに気づくことができれば幸いです。神の言葉こそが、人にとって本当の宝です。
   人は、苦難に会わなければ、なかなか真面目に御言葉を食べようと向き合うことをしません。しかし、この時こそ、神の言葉を食べる人間に変わるチャンスです。苦難に会って初めて、神の言葉を食べるように変わるのです。人生を変えるのは、神の言葉しかありません。