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2015年月1月18日
祈りの力
(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:25〜)
・報いとは

『不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:25〜4:1)

   人は、何か悪いことをすると、当然の結果として、その報いを受け取ることになります。それは、決して神の罰などではなく、自分の行いの報いが、自分にはね返ってくるだけです。クリスチャンであっても未信者であっても、善人であっても悪人であっても、その報いに不公平な扱いはありません。悪い行いをすれば、それはそのまま自分に返ってきてつらさを招くものなのです。

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1〜2)

   この御言葉は、人をさばけばさばくほどつらさを感じると教えます。さばくことで、満ち足りて幸せになる人などいません。人をさばいてつらさを感じることは、自然の結果であって、神が与えた罰でないことはすぐにわかります。しかし、そういう仕組みを理解していないと、何かつらいことがあったときに、すぐに人のせいにしたり、神の罰のせいにしたりして、原因をなすりつけてしまいます。ですから、私たちが受ける苦難や苦しみは、人の行いが招いた結果であり、神が意図したものでないことを、しっかりと心に留めましょう。しかし、神は私たちが過ちを犯して苦しむことを知っておられ、そこから助け出したいと願っておられるのです。
   多くの人が、神というものは、悪いことをした人間に苦しい罰を与えて改心させ、良い方向に導くのだろうと思っています。しかし、神は決してそのような考え方はなさいません。神は、一貫して、罪に対して憐れみを持たれます。たとえ人が自ら招いたつらさであっても、なんとか助け出したいと考えるのが神なのです。そうでなければ、イエス・キリストが十字架にかかったりはなさいません。罪に対して罰を与えて矯正しようと考えるのは人間だけです。神を人と同じように考えてはなりません。
   そして、コロサイ4章1節では、人の上に立つ人は、このことをよくわきまえて、正義と公正を行うよう、教えられています。

・祈りについて

『目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 4:2,3)

『あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 4:12)

   パウロは、私たちのために祈ってくださいと述べ、さらに、あなたのために祈っている人がいることを教えています。祈りとは何でしょうか。

1.神と交わる時

   祈りとは第一に、神と交わる時です。自分は誰との交わりを大切にしているか、どんな交わりをしているか、祈りを通して神と交わっていると言えるか、考えてみましょう。神が祈るように命じているのは、神と交わる時を持ちなさいということです。神が私たちに求めておられるのは、神との交わりです。
   ですから、朝起きたらまず祈りから始めましょう。人間は、誰と交わるかでその人の生き方が決まります。朝の祈りがその日一日を左右します。

『あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:17)

『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:23)

   祈りには、神に感謝するという交わりがあります。そして、祈りの姿勢を取って祈ることだけではなく、神に心を向けて神に応答することは、すべて祈りです。「何をするにも、主に対してするように」とは、神との関わりの中で生きているのだということを日々忘れないように、という思いが込められています。
   人間は、何かに依存しなければ生きられないように造られています。それは、私たちのいのちが、神のいのちをいただいて造られたものであり、人は本来神との関わりの中で生きるように造られたものだからです。ところが、人は悪魔によって欺かれその関係を壊してしまったため、その後人は神との関係を失った中で生まれてくるようになりました。その結果、神との関係を失った人間は、神の代わりに人に依存して生きるようになったのです。人に腹を立てたり、嫉妬したりするのは、人との関わりの中で心を満たしたいと願っていることの表れであり、人に依存しているということです。
   そして、神との関係を取り戻した後も、人との関わりで心を満たす習慣がやめられないという問題が残ってしまい、私たちを苦しめています。私たちは神との関わりの中で心を満たすように造られているのに、かつて心を支配していた人との関わりで心を満たしたいという思いが優先されて、結果として神によって心を満たすことを邪魔しているのです。
   ですから、神は、人との関わりで平安を得ようと人に依存する生き方をやめなさいとくり返し教えています。神との関係を回復したのだから、神との関わりで真の平安を得て欲しいと願っておられます。それを実現するのが祈りなのです。
   私たちはどうしても人に喜ばれようとしてしまうものです。人から愛されるように、人からよく思われるように生きようとしてしまいます。そして人との関わりを強くして、そこで平安を得ようとしてしまいます。しかし、これが神と私たちの関係を築かせない敵であるとイエス様は言われました。イエス様はこの世の心づかいと富の惑わしが御言葉をふさぐと言われました。御言葉を食べることが、神との交わりとなりますから、人からよく思われようとすること、富を手に入れて安心しようとすることが、神との交わりをふさいでしまうのです。人とお金に依存する生き方をやめなければ、せっかく神との関係を回復したのに、平安の実を結ぶことができないと、イエス様は教えておられます。
   そういう古い生き方をやめるために、祈りというものは大切な時間です。すべてのことを神に対してするようにとは、私たちが依存し平安を得るべき先は、神様だということを忘れないようにということです。

2.神に対して私たちの願い事を話す時

   私たちと神との関わりは、人格と人格との関わりです。神は、人を神に似せて造り、ひとりひとりに人格・意志をお与えになりました。ですから、神が人に強制的に何かをさせることはなさいません。救いに関しても、神は、すべての人を救いたいと願っておられますが、本人が望んでもいないのに強制的に神との関わりを持たせるのは、その人の人格をコントロールすることになってしまいます。それは、人格の破壊であり、その人を殺すことになってしまいますから、神は人に強制的に信じさせることはなさらないのです。神はすべての人に手を差し伸べておられますが、私たちがそれを拒否するなら、それを受け取ることはできません。神が人を拒むのではなく、私たちが神を拒むのです。
   強制的に人格をコントロールすることはないということは、私たちが求めなければ、与えないということです。祈りとは、私たちが神に応答して、「助けてほしい」と私たちの意志を伝える時間です。神は人格の関わりを通して働かれますから、求めれば与えられますが、求めなければ何も起こりません。もし問題にぶつかっても、祈らなければ、それに答えられることはありません。クリスチャンならば、祈らなくても神が何とかしてくれるということではなく、神との関わりを持ち、神に求めるから、神は解決してくださるのです。

『イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。』(新約聖書 マルコの福音書 10:46〜52)

   イエス・キリストは、バルテマイという盲人の目を見えるようにいやしてくださいました。彼が見えなかったのは、決して神の罰ではありません。神は、罰を与える方ではなく、私たちを助けようとする方であり、すべてを益として神の栄光を現してくださいます。この盲人は、イエス様が来たと聞いて、「私をあわれんでください」と叫び始めました。これが祈りです。祈りとは、心を神に向けて、求めることです。イエス様は、彼の叫びが聞こえても、すぐに連れてきなさいとは言われませんでした。弟子たちが、静かにするように彼を制しましたが、彼は叫び続け、イエス様もそれをご覧になっていました。
   人は、本当に求めるものならば、絶対にあきらめたりしないものです。手に入らなくて「もういいや」とあきらめてしまえるものならば、初めから求めてはいなかったのです。時々、「祈ったのに、どうして何もしてくれないのか」とつぶやく声を聞きますが、それは、神が答えなかったのではなく、途中で祈りをあきらめてしまったということです。もし本当に神に助けてほしいと欲しているのなら、絶対にあきらめません。
   神は、あなたが神に求めようとする意志を確認したいと思っておられます。そのため「探し続けなさい」「求め続けなさい」と言われますが、多くの人が途中であきらめてしまいます。患難にぶつかったら信仰が試されると言いますが、それは本当に求めているかどうかを確認するということです。
   イエス様は、バルテマイに、「私に何をして欲しいのか」とお尋ねになりました。彼が見えるようになることを求めていることは、一目瞭然です。しかし神は、彼がはっきりと告白するのを確認なさいました。私たちは、あきらめることなく、神に具体的に祈り求める必要があります。そうすれば必ず扉は開きます。
   祈りとは、自分の願い事、思いを神にぶつけて、神に求め続けるものです。神は私たちに意志を与え、私たちが求めるなら、それを与えてくださいます。ですから、何をしてほしいのか、あきらめないで具体的に祈り続けましょう。もし求めているものが神の御心に反するならば、別の答えが用意されます。これは、私たちが求めるからこそ用意されるものであり、何もしなければ何も起こりません。

3.愛を学ぶ時

   自分のためではなく、他の人のために祈ることで、愛を学ぶことができます。
   主の祈りの前半は、他の人々のための祈りであり、自分のための祈りは後回しになっています。クリスチャンになって初めの頃は、祈りというと、自分のことしか祈らないものですが、成長すると他の人のためによく祈るようになります。それは、私たちはひとりで生きているのではなく、人との関わりの中で生きており、兄弟姉妹たちが成長して祝福を受けることが、そのまま自分の恵みとして帰ってくることに気づくからです。
   人をさばけば、それが自分に帰ってきてつらくなるように、人を愛すれば、それはそのまま自分に帰ってきて祝福を受けます。このことに気づくと、自然に、人のために祈ることが中心になります。クリスチャンは、成長すればするほど、人のために祈ることに喜びを感じるようになるものです。人のための祈りに多くの時間を費やすようになり、その祈りが聞かれる様子を目の当たりにして、感謝に満ち溢れるようになるのです。
   パウロは、すべてのことを福音のためにしている理由を、一人でも多くの魂が救われることで自分もその恵みに預かることができるから、と述べています。他の人のために祈ることを通して、自分自身が祝福されて恵まれることに気づくのです。
   私たちは、とりなしの祈りを通して愛を学び、祈りを通して互いに成長していくことができます。相手を裁くことをやめ、相手のために祈るならば、平安に満たされます。