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2015年1月4日
愛を身につけよう
(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:11〜)
『そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:11〜14)

   神の前に、いかなる差別もありません。スクテヤ人とは、当時の野蛮人の代名詞です。人間は、人を差別したり、レッテルを貼ったりしてしまいますが、神はすべての人を同じように愛しておられます。なぜなら、人の命は神の命を分け与えて造られたからです。つまり、私たちは神の一部なのです。何かができるとか、血筋がいいとか、そんなことはまったく関係なく、神は私たちを愛しておられます。
   このように、神に分け隔てなく愛されているのですから、私たちは互いに、同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけ、もし不満を抱くことが起きても、主が私たちを赦してくださったように、互いに赦し合いましょう。
   さらにその上に、愛を身につけよと、聖書は教えます。

・「愛」とは何か

   ここで注意すべきことは、なすべき行いが述べられたあとに、愛を身につけるように教えられている点です。つまり、愛と行いが分けられており、愛とは行いを指すものではないことがわかります。謙遜な態度、柔和、寛容などの立派な行いを持っていても、愛がなければ何の役にも立たないと聖書は教えています。
   では、聖書が語る愛とは、いったい何なのでしょうか。「愛」という言葉の原語は「アガペー」です。「アガペー」は、当時一般的には使われておらず、聖書にしか出てこない言葉です。ほとんど使われていない言葉があえて使われたか、造語であると考えられますが、いずれにしても、「アガペー」は、一般的に人が考える愛と神の愛とを区別するために使われている言葉なのです。では、神の愛とはどのようなものなのでしょうか。

『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:15,16)

   「召されて一体となった」とは、キリストを信じて救われ、神の命とつなぎ合わされて一体になったということです。その目的は、神との平和を築くためです。「平和」は「平安」とも訳されます。つまり、「愛」とは、立派な行いをすることではなく、神とのつながりによって平安を得ること、神との信頼関係を築くことです。このことを理解しなければ、聖書を正しく理解することができません。
   また、感謝するには、私たちが出会う出来事が良いものでなければなりません。人は、良いことには感謝し、悪いことには感謝できないものです。ということは、すべてのことを感謝するには、すべてのことを益としてくださるという神の約束を、心から信じれば良いのです。つまり、感謝は神を信頼することによってできることなのです。
   また、神の言葉を豊かに住まわせるとは、神を信頼するようにということです。神への信頼を土台として、互いに交わり、神を賛美するように教えられています。
   このように、「愛を身に着けよ」と命じられたあとに述べられていることは、いずれも、神を信頼することです。神がご自身の姿を見せないのは、人との間に真の信頼を築きたいと願っておられるためです。人は良いことをし合うことが信頼関係を築くと思っていますが、そのような人間関係がいかにもろく壊れやすいものであるかを、私たちはよく知っています。ささいなことから、愛が憎しみに変わったりするのです。ですから、見えるところを良い状態で固めるのではなく、見えないものを信じてこそ、真の信頼関係を築くことができるのです。

『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:3〜7)

   このように、「愛」とは行いではなく、神を信頼することです。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ」とは、神に対してのことであり、神を信頼して期待することです。聖書で「信頼」と訳されている言葉は「信仰」とも訳されます。神が私たちに望んでいることは、行いではなく、何があっても神を信頼して信じ続ける信仰です。寛容や親切といった行いは、神への信頼を通して生まれるものなのです。
   このことをしっかり理解しておかないと、行いができることが神に喜ばれることであると思い違いをしてしまいます。しかし、いくら良い行いをしても、神を信頼する心から行うのでなければ、その心は間違っているとイエス・キリストは言われました。イエス様が求めておられるものは、神を信頼する心です。これが、愛を身に着けるということであり、そのためにこそ、私たちは救われて神と一つとなったのです。
   神を信頼することを置き去りにして行いを求めると、人を愛せない、裁いてしまうという問題が起こります。人にはどうしても、褒められたい、認められたいという思いがあるため、神への信頼を育てることが目的なのだということを忘れると、神に対して奉仕をしているつもりでも、腹が立ったり、嫉妬する思いが起きたりします。しかし、神を愛する心から奉仕するようになると、その奉仕が人に認められるかどうかは気にならなくなります。
   大切なことは、心を神に向けて、神との信頼をしっかり築くこと、すなわち神を愛する愛を身に着けることです。そうすれば自然に、慈愛、謙遜、柔和、寛容という行いが身に着きます。神を信頼すればするほど、自然と神の愛が流れ出るようになり、その人は優しくなっていくものです。

・愛を身に着けるには

1.御言葉に従う

   聖書が教えている愛を身に着けるステップの第一段階は、御言葉を実践することです。御言葉を実践することを通して、自分の心がどちらを向いているのかが、はっきりするからです。御言葉を実践しようとすると、恐れや不安、怒りなどに気づき、神よりも見えるものを頼ろうとしてしまう自分の罪が見えてきます。
   聖書は、救われた者はさらに上にあるものを目指しなさいと教え、救いの次は、安息を目指す生き方をするように、私たちを導きます。安息を目指すとは、天国に入るという意味ではなく、神との平安を築くことです。
   「信じるだけで救われる」、これがキリスト教の最大の前提です。ところが、多くの人が安息に入るとは天国に入ることだと勘違いして、救われても天国に入れないのではないかという矛盾を抱えていますが、決してそのようなことはありません。安息とは、救われた人が目指すところです。
   安息の地とは、もともと、モーセがイスラエルを率いてエジプトを脱出した時に、神が用意したカナンの地のことです。この時、イスラエルが紅海を渡った出来事が、バプテスマのひな型であり、救いを表します。その後、イスラエルは砂漠で神を信頼する訓練を受けますが、救いを受けた者のほとんどは安息に行き着くことはできませんでした。救われなかったのではなく、神を信頼することができず、平安を手に入れることができなかったということです。

『ですから、私たちは、この安息に入るように力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:11)

『また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:18,19)


   神は、救った人々を安息に入れようと、神を信頼する訓練をなさいましたが、イスラエルの多くは不信仰によって落伍してしまいました。神を信頼しなかったために、平安を得られなかったのです。
   愛を身に着けるとは、神を信頼して平安を手にすることです。そのためには、どうすれば良いのでしょうか。

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:12,13)

   御言葉を実践すると、心の中がすべて判別されます。パウロは、神の律法に従おうとした時に、自分の中に従えない罪があることに気づき、自分の惨めさ、罪深さを発見しました。もし律法がなければ気づかなかったものを、神の言葉があったために自分の心の中の有り様を知ってしまったことは、つらく認めたくない事実だったでしょうが、やがてこのことを通して、神の恵みに気づいたと告白していいます。
   私たちも御言葉を実行しようとする時、心の奥底に喜べない自分、感謝できない自分、愛せない自分を必ず発見します。うわべは御言葉を実行しているように見えても、それが心の底から出来ているかどうかは、自分自身が一番よくわかります。できないのです。怒りが収まらない、不安で仕方ない、そういう自分に必ず気づきます。困難な状況を見て怯えるのも、神の言葉よりも見えるものを信頼している証です。それをはっきりさせてくれるのが神の言葉なのです。しかし、神の言葉に従えない自分に気づくことができれば幸いです。これが、神の言葉を通して、自分の罪を知るステップです。

2.神に罪を差し出す

『さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:14〜16)

   御言葉があなたの心を明らかにし、みじめな自分に気づいたら神のもとに行きましょう。
   大祭司とは、罪を取りなす人のことです。イエス・キリストが、あなたをあわれみ、罪をとりなしてくれるのですから、恐れることなく、イエス様のもとに罪を持って行きましょう。
   大胆に神に近づくとは、神を信頼する行為です。これが愛を身に着ける第2のステップです。
   死ぬほど喉が渇いたら、必死になって水を求めるのと同様に、本当に自分の罪に気づいたら、心が渇き、なんとしても平安が欲しいと願うものです。その平安を与えられるのは、イエス・キリストだけです。
   なぜ救われたのか、それは、魂に渇きが起きたからです。魂が、その渇きを満たすものを求め、神を知り、神の水を飲んだのです。こうして救われた魂は、神の水を求め続けています。
   神の言葉を通して、私たちは今も自分の魂が渇いていることに気づくことができます。そうしたら、神に助けてくださいと言えばいいのです。
   神を信頼できずに、見えるものに頼ってしまう自分に気づいたら、神に助けてくださいと言えば、必ず平安が与えられます。これが神への信頼となるのです。
   あなたは自分の弱さを隠そうとしていないでしょうか。ごまかそうとしていないでしょうか。つらくなった時、あなたはいったいどうやって解決しているでしょうか。すぐに神に助けを求めに行くでしょうか。見えるもので解決しようとする限り、神への信頼は育ちません。神に助けを求める時、必ず神は助けてくださいます。こうして信仰が育ち、愛を身に着けていくことができるのです。自分の罪、弱さ、不信仰を、どうぞ大胆に神の前に告白しましょう。
   イエス・キリストは、多く赦された者は多く愛するようになると言われました。罪が赦されるということは、自分の心から恐れが取り除かれるということです。罪とは、死の恐怖から生まれるものです。神に助けを求めて祈ると、必ず平安が訪れ、恐れが締め出されることに気づきます。ぜひ祈って、それを体験してみましょう。

『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:15)

   私たちは、死の恐怖の奴隷となって生きていたために、見えるものにしがみついて生きていました。これが罪です。イエス・キリストはこの罪を取り除くために十字架にかかってくださいました。ですから、見えるものにしがみつく自分の不信仰に気づいたら、どうか神に助けを求めて祈りましょう。そうすれば必ず平安が与えられます。こうして罪が赦され、恐れが取り除かれるのです。

『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:38,39)

   神は、私たちが恐れて退くことではなく、信じて進むことを喜ばれます。神が私たちに求めているのは、神を信頼することです。もし、つらくなったり不安になったりしたら、何か見えるものにしがみついて平安を得ようとしているということです。それがうまくいかないために、つらさを感じているのです。その時、神に助けを求めて祈るなら、神の平安が心に訪れて、愛を身に着けることができます。

3.試練を通して神に近づく

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2〜4)

   試練は、信仰が本当に根づいたかどうか試すことができるチャンスです。
   しかし、誤解してはいけないことは、神が試練を作り出すのではないということです。神は、人間が生きていく上でぶつかる様々な問題を用いて、神を信頼するチャンスとしてくださいます。試練や患難は本来喜ばしいものではありませんが、神によって良いものに変えられます。ですから、様々な問題にぶつかる時は、信仰を訓練するチャンスだと心得て喜びなさいと教えられているのです。
   人は何か問題にぶつかると、自分が悪いことをしたための罰ではないかという発想を持ちますが、そのようなことは絶対にありません。神にあるのは、ただあなたが神を信頼するものになってもらいたいという思いです。そのためにすべての状況を益として利用してくださるのです。神がすべてを益とすると言っておられるのですから、試練にぶつかっても失望せず、真の愛を身に着けるチャンスだと思って喜び、後ろを振り向かないで、神を信頼する戦いをしましょう。必ず神は何かしらの解決の道を示し、助けてくださいます。
   2015年のスタートにあたり、愛を身に着けることを目指して、今年も歩みましょう。