ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2014年月12月21日
クリスマス礼拝のメッセージより
(新約聖書 ルカの福音書 2章7節〜11節)
『マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」』(新約聖書 ルカの福音書 2:7〜11)

   「キリスト」という言葉は、かつては「救い主」を表す一般名詞でした。しかし、救い主イエス様の誕生が、あまりにも素晴らしい喜びであったために、今日、この言葉は、イエス・キリストのみを指す固有名詞となりました。
   キリストの誕生日であるクリスマスが、世界中で祝われるようになったのは、キリストの誕生がすべての人にとって、素晴らしい出来事だったからです。イエス・キリストは私たちに、どのような素晴らしい喜びを届けてくれたのでしょうか。

1.永遠のいのち
   キリストが与えてくれた素晴らしい喜びの第一は、永遠のいのちです。私たち人間は、生まれながらに死という問題を背負っています。人間は、この問題をなんとか解決したいと願って、病気と闘ってきましたが、そこには限界があり、必ず死は全ての人に訪れます。
   そして、その先はどうなっているのか、死後もいのちが続くことを願って、様々な宗教が生まれました。しかし、これらの宗教にすべて共通しているのは、生前の行いに応じて、天国に行くことができるという考え方です。「どうしたら天国に行くことができるのか」を考えると、人は「何をしたら天国に行けるのか」「何かをすることで天国に行ける」と考えるものなのです。
   こうして生まれた様々な教えに従って、人々は行いを頑張ってきましたが、どんなに見えるところを頑張っても、恨んだり、憎んだりする自分の心の内側は変わらないという問題にぶつかります。その一人がパウロです。
   イエス・キリストがこの地上に来られ、私たちに教えてくださったことは、「人は行いによって救われるのではない。ただ私を信じれば救われる」ということです。信じるだけで救われる、これは大変驚くべきことです。
   私たちはどんなに頑張っても完全な行いに到達することはできません。もし、行いがなければ救われないのであれば、誰も希望を見出すことができないのです。しかし、信じるだけで救われるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。「私を信じる者は、永遠のいのちを持つ」「私を信じる者は、救われる」このことをイエス・キリストはくり返し語られました。
   これが私たちに与えられた最も素晴らしい喜びです。こうして私たちは永遠のいのちの希望を持つことができるようになりました。
   ウサギとカメの話をご存知でしょうか。ウサギの敗因は、カメを見ていたことです。それに対してカメは、ゴールを見ていました。何を見て生きるかで、結果は大きく変わるのです。ところが、私たちは、自分のゴールが見えません。そのため、いつも人ばかりを見てしまいます。ウサギと同じです。
   私たちにとっての真のゴールは永遠のいのちです。それが見えるようになると、希望が見えるようになり、勝利の人生を生きることができます。過去に縛られることなく、自由に生きることができるのです。

2.罪が赦される
   人が、肉体の死以上に恐れているものは、自分の罪が暴露されることです。その結果、恥をかくよりも死を選ぶ人が大勢います。たとえ死を選ぶことはなくても、私たちは自分の過去の過ちや弱さを人々に知られることを、大変恐れるものです。
   私たちは、自分が犯した過ち、自分の汚さを、誰よりもよく知っています。そして、それを隠し、少しでも自分を良く見せようとして生きています。つまり、私たちはいつも大きな重荷を背負い、それに押しつぶされそうになりながら生きているのです。
   そんな私たちに、イエス・キリストは、あなたの重荷を私に寄越しなさい、私がそれを背負ってあげようと言っておられます。キリストは、あなたの罪を赦し、雪のように真っ白にする、過去を白紙にし、あなたの人生をもう一度やり直しができるようにすると約束しておられます。なんという素晴らしい福音でしょうか。
   私たちは罪が赦されるためには、何が徳を積まなければならない、あるいは、罰を受けなければならないと思っていました。いや、この重荷は、生涯背負って生きていかなければならないものだと思ってきました。ところがイエス・キリストは、あなたの罪をすべて赦すから、何も心配しなくて良いと言われるのです。
   実際、この地上でイエス・キリストは、多くの人々の前で、何人もの人の罪の赦しを宣言しておられます。姦淫の現場で捕まった女性を石打ちにして死刑にすべきだと言う人々に対して、キリストは、「この中で一度も罪を犯したことのない者から、彼女に石を投げなさい」と言い、誰も石を投げることができずにいると、「私もあなたを罪に定めない。安心して生きなさい」と言われました。また、ヤクザのような生き方をしていたザアカイに対しても、彼の罪を責めることなく赦し、彼が新しい人生を生きることができるようにしてくださいました。
   罪が赦されるとは、なんと嬉しいことでしょうか。過去が帳消しになって、やり直しがきくとは、なんと素晴らしいことでしょうか。このような社会でなければ、希望がありません。
   以前、これからの日本には何が必要かという記事を読みました。そこには、今、日本に欠けているものは、「赦すこと」だとありました。日本は、失敗を許さない社会です。そのため、多くの人が自分の過ちや不正や失敗を隠し、会社も政治家も過ちに過ちを重ねて、身動きがとれなくなっています。この社会を再生するためには、人は過ちも犯すし、失敗もするものだ、しかし、それらは赦されて、再生することができる、そういう社会を作らなければ希望がないと結ばれていました。
   ビクトル・ユーゴーが書いた「レ・ミゼラブル」という小説に登場する、ジャン・バルジャンという男は、たった1個のパンを盗んだことで19年間も服役することになり、心はすさみ、憎しみで満ちていました。出所し、教会で食事と寝床を与えられましたが、彼は、教会の銀の食器を盗み、逃亡します。逮捕されたバルジャンに対して、司祭は「食器は彼に与えたものだ」と警官に告げ、さらに、銀の蜀台をバルジャンにあげたのです。生まれて初めて赦される経験をしたバルジャンの人生は、そこから大きく変わります。赦されるとは、なんと素晴らしい希望でしょうか。

3.助けられる
   多くの人にとって神は天におられる遠い存在であり、人間はただその神に従うだけと考えるものです。しかし、イエス・キリストは、そう言われませんでした。キリストは、「私は共にいる」と言われたのです。イエス・キリストは、別名を「インマヌエル」と言い、「神はあなたと共にいる」という意味があります。イエス・キリストは、人々と共に生き、苦しみ、問題を一つ一つ解決してくださいました。こうしてキリストは、私は共に生きる神だと示してくださったのです。
   私たちは、問題にぶつかったり、苦難に出会ったりすると、自分はたった一人であり、誰にも愛されていない、見捨てられているのだと思うものです。しかし、イエス・キリストは、そうではない、私がいると言っておられるのです。私たちの中に住み、共にいて、共に生き、共に解決する、それが神だと教えてくれたのです。
   神は、私たちを決して見捨てることはありません。共にいて、心に語りかけ、力を与え、立ち上がらせてくださいます。それがキリストなのです。その言葉通り、患難や問題の中にあって、助けられた人が、今も昔も世界中に大勢います。こうして、世界中でクリスマスが祝われるようになったのです。
   キリストは私たちを愛し、自分のいのちを投げ出されました。神は愛です。遠くにいるのではなく、共にいる神であり、懲らしめるのではなく救い出す神です。世界はこのことを、キリストを通して初めて知ることができたのです。