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2014年月12月7日
罪が赦されるとは
(新約聖書 コロサイ人への手紙 2章11節〜)
『キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:11〜14)

   「神を信じれば、すべての罪が赦される」とは、キリスト教の教えの基本です。しかし、「罪が赦される」とは、具体的にどういうことなのか、よくわからない方も多いと思います。
   多くの人は、「罪がゆるされた」と聞くと、罪に伴う罰が免除されたと理解します。それは、罪には罰があるものだと考えているからです。
   しかし、神には、罪に対して罰を与えるという概念がありません。神の中にあるのは、ただ罪を憐れむ思いであり、それゆえ神は、人を罪から救い出そうと考えるのです。イエス・キリストは、地上での生涯の中で、ただの一度も罪を罰したことはありませんでした。むしろ、罪人を憐れみ、救い出そうとなさったのです。これが、神というものです。
   罪が赦されるとはどういうことかを理解するために、人とは何なのか、そして、罪を犯すと何が生じるのかということを、聖書を通して学んでいきましょう。


・人とは何か

   聖書は、人は神に似せて造られたと教えています。神の最大の特徴は、三位一体であるということです。父・御子・聖霊という、三つの独立した人格を持った神がおられるのですが、三つの神はその思いを共有しており、一つの思いしか持ちません。そして、何をするにしても、一つとなって共にことを行います。互いに助け合い、補い合って存在し、そこにはまったく矛盾がないため、あたかも一人の神しかおられないように存在しておられます。それで、神はお一人だと言うのです。
   人は、このような神に似せて造られました。つまり、私たちも神と同じ思いを共有するように造られたのです。聖書はこのことを、「私たちはキリストのからだの部分だからです。」(エペソ5:30)と語り、私たち一人一人が神のからだの一部であり、各器官であると教えています。また、神と人の関係を、ぶどうの木と枝の関係にたとえ、次のように語っています。

『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:5)

   神とつながることで結ぶ実とは、平安のことです。人は神とつながると平安の実を結ぶことができるのですが、離れるとその実を結ぶことができません。そのため、何をしても虚しいので、それを打ち消すように、一生懸命頑張って生きています。裏を返すと、人が一生懸命頑張って生きているのは、何をしても虚しいからだということです。その理由は、神から離れているからだと聖書は教えています。


・罪を犯すとどうなるのか

   聖書が教える罪とは、神と異なる思いを持つことです。 私たちは、罪というと、さまざまな悪い行いのことだと思っています。しかし、人間が悪い行いをしてしまうのは、神と異なる思いを持つからです。ですから、聖書は、それらの悪い行いの原因を罪と呼びます。罪を心の向きで考えると、神に心を向けないことと定義できます。
   本来、神と一つ思いを持つように造られた人間が、神と異なる思いを持つと、とたんに神との関係が壊れます。これが、聖書で「死」と呼ばれる状態です。すなわち、罪を犯すと、死を背負うことになるのです。
   神は、最初の人アダムを造った時に、ひとつだけ注意をなさいました。それは、善悪の知識の木の実を取って食べてはならない、それを取って食べると必ず死ぬということです。これは、神と異なる知識を取り込むと死んでしまうから、そのような思いを持たないようにと注意されたのです。
   ところが、悪魔が蛇を利用して、アダムの妻エバに神と異なる思いを吹き込みました。当時の蛇は、見た目も美しく最も賢い生き物として造られたと聖書にありますから、今と違って人に安心感を与える生き物だったのでしょう。蛇に話しかけられたエバは、神がこれを指示しておられるのだと勘違いし、まんまとだまされて神と異なる思いを心の中に信じ入れ、その瞬間、神との関係が壊れてしまいました。聖書はその時の様子を、人は自分の姿しか見えなくなり、自分が裸であることに気づき、いちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作ったと記しています。
   こうして神と異なる思いを持つようになった人間は、神の姿が見えず、自分しか見えない状態が、今も続いています。このことを聖書は、私たちは皆罪の中に死んだ状態であると言っています。
   つまり、神との関係が壊れ、神が見えなくなった状態が死であり、この死が生じた理由は、人が神と異なる思いを信じ、罪を犯したからです。

『罪から来る報酬は死です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:23)

   一般的に、死はアダムとエバが犯した罪の罰だと誤解されがちですが、そうではなく、人は罪を犯すと自動的に死という状態に陥る存在だったのです。ここで「報酬」と訳されているギリシャ語は、当然予想される結果を表す言葉です。コップを手放すと落下するように、罪を犯すと死ぬのは、当然予想される成り行きだったわけです。また、聖書はこうも述べています。

『なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:2)

   「原理」は、「法則」とも訳されます。「罪を犯すと死が訪れる」のは、神と私たちの関係から生じる原理・法則です。ですから、「罪が赦される」とは、罪の結果当然来るべき死が無効とされるということなのです。
   私たちは、神と異なる思いを持つという罪を犯したことによって、神との関係が壊れ、関係がない状態となりました。神の一部として造られた私たちが、神との関係を失うことで、死んだ状態になってしまったのです。罪が赦されるとは、その私たちが神との関係を取り戻して、神と共に生きられるように、死から贖い出されることです。


・恐れからの解放

『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:13〜14)

   神との関係がなくなった人間は、死の恐怖を抱くようになりました。そして、神が見えず、自分が何者なのかわからなくなったために、不安でたまらず、一生懸命自分を良く見せて、人から愛されようとするようになりました。そのために作り出したものが、律法と呼ばれる行いの規定です。人々は、さまざまな規定をクリアすることによってお互いの価値を判断する社会を、作り上げてきたのです。
   律法は、自分とまわりを比較するものであると同時に、あんなことをしてはいけないのにと人を裁く基準となります。この律法によって、私たちは互いに愛せないようになってしまいました。結果として、律法が、ありとあらゆる罪の行為を引き出してきたのです。こうして律法は、取立てをする債務証書のように、人を苦しめています。そこで、神は、この債務証書を無効にすると言われたのです。
   以上のことからわかるように、罪が赦されるという言葉には、二つの意味があります。一つは、罪によってもたらされた死から解放され、神との関係を回復することであり、もう一つは、私たちを責め立てる債務証書を無効にすること、すなわち、○○でなければならないという規定によって価値をはかる生き方から私たちを解放するということです。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:14〜16)

   敵意とは律法のことです。キリストの十字架は、恐れを締め出し、死の恐怖を取り除きます。こうして、死の恐怖によって見えるものにしがみつき、互いにさばき合っていた人生から解放されるのです。私たちを苦しみから解放して自由にし、平安をもたらすもの、それが十字架の福音です。
   この神の恵みは、神の永遠の契約に基づくものであり、人の行いを求めません。ですから、全ての人に無条件で与えられます。イエス・キリストは、あなたを幸せにして、あなたを導き、安息に招き入れるというこの契約を実行するために来られました。救いとは、神の側で誰を救うかを決めているのではなく、あなたが、この恵みが実行されることを受け入れるかどうかです。神のあわれみにすがるのに、何の準備も必要ありません。神のあわれみにすがることを拒んでいるのは自分自身なのだということに気づき、それを捨て去り、ただ神が差し伸べておられる手をつかめば良いだけです。
   神はあなたを助けたいのですから、ただそれにすがれば良いのです。それが、神を信じれば救われるということです。そうすれば、神との関係が回復して、神がおられることがわかるようになります。自分の罪を神に言い表すことで、恐れが締め出されていきます。今、神の愛を受け取りなさいと主は語っておられます。

『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:4〜5)

   神は、なんとかして恵みを受け取らせようとしておられるのに、それを受け取ることができないのは、私たちのかたくなな心が恵みを拒否しているからです。悔い改めとは、行いを改めることでもなく、反省することでもありません。ただ神が差し伸べておられる手にすがることです。

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:20)

   神はあらゆるものを通して、神がおられることを明らかに示し、救いの手を差し伸べておられます。ですから、救いを受け入れることを拒否する者に弁解の余地はありません。ですから、とにかく神の恵みを受け入れなさいと、神は繰り返し教えています。「悔い改めよ」とは、神に立ち返り、神の恵みを受け取りなさいという意味です。ただ恵みを受け取るだけで良いのですから、何も難しいことはありません。そうすれば、罪が赦されて、神との関係を回復し、永遠のいのちを受け取り、恐れから解放されていくのです。
   私たちの人生を変える唯一の方法は、ぶどうの枝が木につながるように、神につながることです。私たちは、これまで神と異なる思いを持ち、それが正しいと思っていたのですが、悔しさ、虚しさ、怒り、敵意といった実ばかり結んでいました。しかし、神としっかりつながるならば、平安の義の実を結べるようになり、人を愛せるように変わります。キリストは、私たちの人生を180度変えることができるのです。罪が赦されるとは、神にしっかりとつながることです。