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2014年月11月9日
すべてのことを働かせて益とされる
(新約聖書 コロサイ人への手紙 1章9節〜14節)
『こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:9)

『神は、私たちが、真の知識に満たされることを願い、霊的な知恵と理解力を得られるように、助け主なる御霊を与えてくださいました。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:17)

   私たちは、神の助けによって、神の言葉を理解し、悟ることができるのです。

・御言葉の理解を妨げる壁

   ところが、私たちの側に、御言葉の理解を妨げる大きな壁があります。それは、自分自身が積み上げてきた経験です。私たちは、人から受け入れられ良い評価が得るにはどうすれば良いか、少しでも多くのお金を稼いで安心した暮らしを手に入れるにはどうしたら良いかを、経験によって学んでいます。しかし、イエス・キリストは、これらを「この世の心づかいと富の惑わし」と呼び、それが御言葉をふさいでいるために、神の言葉を理解する障壁になっていると言われました。

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   私たちは経験によって、うわべで良し悪しを判断する基準を積み上げてきました。過去の業績・学歴・富・家柄等を見て、すごいかすごくないか、人の価値を判断しています。そして、良いことをしたらほめられ、悪いことをしたら責められ、罰が与えられるのは、当然だと思い込んでいます。実は、この価値観が御言葉をふさいでいるのです。

『『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』(新約聖書 マタイの福音書 9:13)

   神は憐れむ方であり、神が来られたのは「罪人を招くため」です。神は、罪人を招き、罰を与えるのではなく、憐れみをお与えになります。イエス・キリストは、罪人を助けるために十字架にかかったのです。これは私たちの経験では全く理解できないことです。そのために、聖書を読むときにも、大きな誤解をしてしまうのです。

   たとえば、有名なノアの箱舟の話は、聖書に次のように書いてあります。

『主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」』(旧約聖書 創世記 6:5〜7)

   私たちの経験によってこの箇所を読むと、人々が悪に走るのを見た神は、当然怒って罰を与えるだろうと考えます。そのために、「神は、人を造ったことを悔み、心を痛めた」という訳が生まれました。しかし、神は、罪人を憐れみ、招き、助けるために十字架にかかったお方です。その神が、何を悔やまれるのでしょうか。実は、この箇所は、文法上「神は、人を造ったので憐れみ、心を痛めた」と訳すことも可能なのです。へブル語をギリシャ語に訳した七十人訳聖書は、ここを「彼らのことで思いを巡らせた」と訳しています。「思いを巡らす」とは、「愛・憐れみ」から発した行動です。つまり、私たちは伝統的に、神は、人の犯した罪を怒って洪水を起こしたと考えていますが、そうではなく、神は造った者を憐れみ、洪水を起こしたとも訳せるのです。
   造った者を憐れんで洪水を起こすとは、どういうことでしょうか。当時、多くの人が、神の言葉が語られているにもかかわらず、神に敵対して過ごしていました。クリスチャンは、ノアの家族8人だけです。いつの時代も、福音を語る者は迫害を受けます。キリスト教は、命の危険を顧みず宣教する人々によって、世界中に広がってきました。しかし、この当時、世界にたった8人しかいないクリスチャンが殺されてしまったら、後の人々に福音を伝えることができなくなってしまいます。そこで神は、神の言葉が消滅しないように、この8人を守るため、洪水という方法を取られたと理解できるのです。
   この世の基準では、人々は洪水によって神に滅ぼされたと考えてしまいますが、そもそも聖書は、神を信じない人々はすでに死んだ状態であると教えています。つまり、人間の魂は、神を信じて初めて生きることができるのであって、神を信じていない人は、うわべは生きているようだけれど、魂は死んでいるのです。信じない者はすでにさばかれている、とイエス・キリストは言われました。ですから、人々は、神に滅ぼされたわけではなく、すでに死んでいたのです。
   神は洪水によって、ノアの家族ばかりではなく、後の多くの人々のいのちを助けました。ところが、経験によって、悪いことをした人に対しては怒るのが当然だと思っている私たちは、神は人々を怒って洪水を起こしたのだと思い込み、御言葉全体の意味を取り違え、御言葉を受け取れなくなっているのです。

   このように、私たちは、自分が積み上げてきた経験によって、御言葉を別の意味に解釈してしまいます。多くの人が、災いや困難に会うと、自分の罪のせいでバチが当たったのではないかと考えますが、それはこの世の人々の考えであり、経験によってそう思わされているだけで、神にはそのような考えはありません。
   神の思いを知る上で基本になるのは十字架です。神は私たちを愛し、その愛を示すために、十字架にかかってくださいました。神が悔やむなどということは、ありえません。神は私たちを愛するがゆえに、私たちにとって一番良い対応をされる方です。旧約時代も、現代も、変わることなく、一貫して神は愛を実践しておられます。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わらないと、聖書は教えます。神の思いは変わることなく、悔やむこともありません。

『実に、イスラエルの栄光であるお方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。』(旧約聖書 サムエル記第一 15:29)

   辞書によると、「悔やむ」とは、「悪かったと反省して心を入れ替えること」です。神が反省して心を入れ替えるなどありえません。これは、人間的な発想であって、神は、いつまでも私たちを愛し、決して対応を変えたりしません。

・神の愛を信じる

   私たちが勝手に、神は罰を与える方であり、自分は愛されていないと思い込んでしまうのは、神に愛された経験がないからです。愛された経験がないと、神の愛がわからないので、理解することができません。神は、愛の方であり、罰を与えるのではなく助けたいと願い、私たちが傷つけばなんとかしたいと願うお方です。そのために、私たちの理解を全く超えた対応をなさることもあります。
   ヨブ記を読むと、そのことがよくわかります。ヨブが出会った試練は、決して神の罰などではなく、ヨブの信仰があまりにも成長しているため、神は保護をやめて、信仰の仕上げをなさったということなのです。あまりにも多くのつらさに出会い、ヨブもついに、自分が生まれたことを呪って、間接的に神につぶやいてしまいます。しかし、ここでヨブは自分の罪に気づき、神に憐れみを求めて、さらに信仰が成長するのです。
   災いは、決して罰ではありません。神は愛するものを懲らしめ、平安な義の実を結ばせ、いやしてくださいます。自分の経験で物事を理解しようとするとわからなくなってしまうので、大切なことは変わらない神の愛を信じることです。盲目の人に対して、弟子たちは誰かが罪を犯したせいでこうなったのだと考えましたが、イエス様は、神の栄光が現れるためだとはっきり言われました。すべては神の栄光を現すためであり、あなた自身を助けるためです。
   その時はわからなくても、後から振り返ると、この時これがあったからこそ平安を手にすることができたと分かる時が来るものですから、自分の経験で分からなくても、神を信じましょう。神の計画は変わらず、悔やむこともない方です。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(旧約聖書 エレミヤ書 29:11)

   神は、創世記から一貫して、平安を与える計画を持っていると語り続けておられます。この平安は、私たちに将来と希望を与えるものです。神が愛する子にしたいことは、これしかありません。自分の経験で物事を考えると、わからなくなってしまいます。神は、いつもあなたを愛し、あなたを助けようとしておられます。それを信じると、惑わされることはなくなります。

・御言葉を実行する

『また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:10)

   主にかなった歩み・善行とは、聖書に書いてある行いを実践することです。それによって、神に対する知識を増し加えることができます。なぜなら、神の御心を実行しようとすると、必ずできない自分に気づきます。もし、このことに気づかないなら、それは真剣に実行していないのです。御言葉は、すべての人を罪の下に閉じ込め、神の恵みによってきリストに導く働きをするものです。「いつも喜べ」「あなたの敵を愛せ」等の御言葉を、真面目に実行しようとするなら、自分の力では、うわべはできても本心からは絶対にできないと気づくものです。こうして、神に祈るしかないことに気づいて、「あなたの言葉を実行できるように助けて欲しい」と祈るとき、神を知る知識が増し加えられていくのです。

『また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力を持って強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:11〜12)

   権能に従って強くされるとは、神の真理に従うことによって、力を得ることができるということです。向かい風に向かって歩くのは大変ですが、風と同じ方向に歩くなら、風に後押しされて、楽に歩くことができます。神の風は、真理の方向にしか吹きません。真理の方向に歩めば力を得ますが、真理に逆らうと力を失うのです。

『私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 13:8)

   口語訳聖書は「私たちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある」と語ります。良心に反することをすると力を失い、良心に従うと前進できます。何があっても正しいことを選択するところから始めましょう。
   「忍耐」とは「逃げないこと」であり、我慢という意味ではありません。「寛容」とは「怒らないこと」です。私たちは、困難にぶつかると、逃げ出したくなるし、怒りをぶちまけたくなるものですが、それはやめなさいと教えられているのです。
   なぜ困難にぶつかると、逃げようと思い、怒りがわくのかというと、困難は、罪の罰や、愛されなくなったためだという、否定的なイメージがあるからです。しかし、そうではありません。神は、すべてを働かせて益としてくださるのですから、怒ることはやめ、困難と向き合いましょう。そうすれば、自分の弱さが見えてきます。弱さとは、神なしでは生きられない、ということです。これが本来の人間の性質なのです。私たちは、様々な行いや富で鎧を作り、自分の弱さが見えないようにしてしまっています。しかし、弱さは最高の宝です。覆い隠すのは間違いであり、弱さに気づくのは本当に素晴らしいことです。パウロは、さまざまな患難を通して、自分の弱さのうちに神の恵みが働くと悟りました。
   また、私たちがあずかる相続には、「神の国に入る」という財産と、「平安を得る」という財産の二つがあります。神の国に入るには、神を信じるだけで入れますが、平安を相続するには、罪を取り除く必要があります。神は平安を与えたいのです。それがわかれば、喜びを持って感謝を捧げることができるようになります。

『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:13〜14)

   暗闇の圧政とは、死の恐怖・恐れです。その支配から救い出され、愛に支配される世界に移されたことを、罪が赦されたと言います。赦されるとはいやされるということです。死の恐怖の中にいた私たちは、神の愛によって死の恐怖から救い出され、神のまったき愛の中に移されたのです。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14〜15)

   私たちの心は、常に死の恐怖に支配されています。恐れるから愛されようとし、人がどう思っているか気になり、少しでもお金を手に入れて安心しようとするのです。
   私たちはまず、自分は死の恐怖のためにこういう行動を取っているだと気づく必要があります。怒りはすべて恐れが原因です。恐れによって、悪いこともしてしまうのです。「罪は死のとげ」すなわち「死の恐怖」が罪を犯させると、聖書ははっきり教えています。そこから贖い出すために、イエス様は十字架にかかったのです。生涯恐れと向き合ってしっかり戦っていきましょう。

・恐れと戦う

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

   恐れと戦うために、この御言葉を何度も告白しましょう。
   人は、過ちを犯すと、恐れを抱き、人からどう思われるか、ますます恐れに怯えるものです。しかし、神はすべてのことを働かせてくださるのだから大丈夫だと信じれば、恐れと立ち向かうことができます。人は必ず失敗し、後悔するものです。しかし、神はそれを益としてくださると信じることができれば、恐れは締め出されます。手遅れはありません。この御言葉を信じて戦うならば、恐れを回避し、平安を得ることができます。イエス・キリストの十字架は、まったき愛のものであり、恐れを締め出し、人からよく思われようとすることから解放される生き方です。神はすべてのことを働かせて益としてくださるのですから、恐れと立ち向かいましょう。