ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2014年月11月2日
御霊による愛
(新約聖書 コロサイ人への手紙 1章1節〜)
『神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:1〜4)

   「キリスト」は、かつては「救い主」を表す一般名詞でしたが、今ではイエス・キリストにしか使わない固有名詞となりました。「イエス・キリスト」という呼び名は、「イエスこそ救い主なる神である」という信仰告白です。
   「恵みと平安があるように」とは、挨拶でよく使われる表現で、恵みと平安は一体のものです。聖書が教える恵みとは、私たちの罪を取り除くことです。罪が取り除かれれば、平安が訪れます。また、信仰と愛も一体です。信仰とは、神への信頼であり、神への愛です。神への信頼が増し加わると、愛が増し加わり、それが人々への愛となるのです。


・天にたくわえられている望み

『それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:5〜6)

   私たちが、神への信頼と愛を持てるようになったのは、天にたくわえられている望みがあるからです。天にたくわえられている望みとは何でしょうか。

1.神の国

   神様が永遠のいのちをくださったので、私たちは、この地上で死んだ後、よみがえって神の国に行くことができます。この地上でどんなに問題を解決しようとも、私たちは必ず死を迎えます。病が癒されたとしても、それは一時的なもので、死を解決しなければ、本当の問題解決にはならないのです。ですから、神の国があることが本当の望みなのです。
   イエス・キリストがこの世に来られたのは、このためです。十字架で死を滅ぼして勝利し、3日後に復活することで、私たちも、永遠のいのちを持つことができるという希望を与えてくださったのです。

2.平安(安息)

   二つ目の望みは、平安です。神の国に行くには、ただ神を信じさえすれば、誰でも行くことができます。しかし、平安という望みは、ただ神を知るだけでは手に入りません。神を信頼できるようになって初めて手に入れられる恵みです。つまり、私たちには、もっと神と親しくなることができるという望みがあるのです。
   神と親しくなると、神と共にいることが喜びになり、平安の源になります。ですから、患難や困難があっても、神が共におられることを知っていますから、平安を失うことはなく、つぶやく必要がありません。
   神は、この望みに気づかせるために、私たちのうちに、一緒に住んでおられるのですが、そのことに気づかないと、見える状況の変化でつぶやいてしまいます。神に近づき、神と親しさを増すことによって、私たちはこの望みに気づき、いつも感謝することができるようになります。


・御霊による愛

『これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 1:7〜8)

   愛とは、関わりのことで、御霊による愛と、肉による愛の二つがあります。つまり、私たちの関わり方には、肉による関わり方と御霊による関わり方があるということです。
   肉による関わり方とは、親切にする、優しくするなど、私たちが一般的に愛だと思っている関わり方で、自分の力で行うものです。この関わりの根底にあるのは、人によく思われたいという願いです。
   例えば、私たちは、親切にしてあげたら、相手に喜んでもらいたいと思います。それが、見返りを期待するということであり、評価されたいという思いなのです。ですから、肉の愛は、自分がしたことを、相手が理解してくれなかったり、受け入れてくれなかったりすると、愛が憎しみに変わったります。恋愛でも親子でも、自分の愛を受け入れてもらえないと、「どうしてわかってくれないの」と怒りを感じます。
   それに対して、御霊による愛は、自分の力ではなく、神に愛された経験を通して行う愛です。神に愛されているという思いから発する愛は、人からの見返りを求めません。自分がしたことに対して評価を受けなくても、相手を憎んだりすることはありません。
   もし、相手に受け入れてもらえなかった時、怒ったりさばいたりする感情を持ってしまったら、それは肉の愛です。反対に、どんな時も平安なら、御霊による愛だと言えます。聖書は私たちに、御霊による愛の関わりを目指すように教えています。


御霊による愛を手に入れるには

『さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。』(新約聖書 ルカの福音書 7:36〜39)

   パリサイ人は、心の中でこの女性をさばきました。この時、イエス様は、次のような質問をなさいました。

『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。〜(中略)〜だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。』(新約聖書 ルカの福音書 7:41〜48)

   「多く赦された者は多く愛する」、これが愛の原理です。愛された経験が、愛を育てます。神の前に罪を差し出すならば、神は、愛のゆえにすべて赦してくださいます。この時、私たちは神に愛される経験をし、この経験を積めば積むほど、私たちは、神を愛し、神の命令に従いたくなります。神の命令とは、人を愛することです。こうして、御霊によって人を愛したいという愛を手に入れ、人との関わり方が、肉の愛による関わり方から、御霊の愛による関わり方に変わります。それは次のような関わり方です。

1.相手の救いを願うようになる

   人間にとって最も必要なことは、神の国に行けることです。これが最終的なすべての問題解決です。どんな贈り物も素晴らしい経験も、神の国に行くことができなければ、いずれは消えてしまうむなしいものです。
   ですから、相手にとって、最も必要なものを願うならば、それは救いです。自分自身が神に愛され、その素晴らしさを経験するならば、他の人も救われて欲しいと願うようになるものです。パウロは、ただひたすらこの一事に励んでいると言っています。
   もし、自分にその思いがなければ、愛されている経験が少ないと言えるでしょう。罪を差し出し、愛される経験を積みましょう。

2.相手の回復を願うようになる

   回復とは、神が人を造られた本来の姿に戻ることです。人は本来、神を愛し、人を愛するように造られました。ところが、人に罪が入り込んだことによって、神との関係が断ち切られ、神を愛せなくなり、人を愛せなくなってしまいました。しかし、罪は、外部から入り込んだ病気のようなものですから、取り除かれ、癒されることができます。神は、罪という病気がいやされて、私たちが元の姿に回復することを願っておられます。
   神に愛されていることを知ると、神が人の回復を願うように、自分も相手の回復を願って、さばかなくなります。御霊によって愛するとは、人の罪を見てさばくのではなく、相手の回復を願うことです。相手をさばくと、自分自身の罪という病気も悪化し、ますます辛くなります。罪を犯している人を神の愛によって愛する時、私たちは、どうしたらこの罪が回復するだろうかという接し方をするようになるのです。

『兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:1〜2)

   私たちが負い合う「互いの重荷」とは、罪のことです。そして、「キリストの律法」とは、愛です。つまり、愛とは、互いの重荷を負い合って、回復を願うことなのです。誰かの罪を見たときに、さばく心ではなく柔和な心で、癒されて回復するように願うことが、御霊による愛し方です。このように、御霊による愛は、未信者に対しては救われてほしいと願い、クリスチャンに対しては罪が癒され回復することを願うようになるのです。

3.相手の問題解決を願う

   一般的な愛は、問題解決を願うことを第一に考えます。しかし、これまで述べてきたように、神が教える愛とは、第一に救いを願うことであり、第二に罪が癒され回復を願うことで、相手の問題が解決するように願うことは第三番目になります。神の愛を知るならば、キリストの体の一部として、そのように人と接したくなってくるのです。もし、問題解決ばかりを祈っている自分に気づいたら、神に立ち返り、御霊の愛によって愛することを求めましょう。

さばかない

   御霊による愛の実践を目指すとき、絶対にしてはいけないことは、さばくことです。誰かがあやまちを犯していたら、それはさばく対象ではなく、癒されるべき病気です。
   私たちがさばいてしまう悪い行いは、肉の行いと呼ばれ、罪から発展したものです。罪の原型はさばく事です。神との関係が断ち切られた人間は、他の何かと結びつこうとして、見える物に価値を見出すようになり、容貌、学歴、富など、人のうわべを見て、自分で勝手に決めた価値観によって、褒めたりさばいたりするようになりました。これが、私たちの罪の原型です。
   どんな理由であろうとも、自分をさばいたり、人をさばいたりすることは、罪の姿です。これを放置すると、ますますつらくなり、憎しみに心が縛られて、何がつらさの原因か、何が憎しみの原因かもわからなくなり、どうにもならなくなってきます。まず最初にするべきことは、さばくことをやめることです。
   私たちの価値は、うわべにあるのではなく、私たちのいのちにあります。なぜなら、人間は神のいのちを吹き込まれて造られており、神のいのちを分けていただいている存在だからです。あなたの外見や能力は、親から受け継いだものであり、あなたのいのちとは関係ありません。この地上で一時的に預かっているものであり、価値とは無関係のものです。
   自分が神に愛されていることを知れば知るほど、人の価値を判断しようとしたりしなくなるものです。人の価値は、神のいのちの価値と同じです。決して人をさばいてはいけません。人をさばいても、何も得るものはありません。聖書は、あなたを憎む相手を愛しなさいと教えています。さばくと、何も手に入らないばかりか、ますますつらくなります。さばくことをやめれば、私たちの心は平安の中に入っていきます。
   人をさばかず、赦すことは、こんなに素晴らしいものであるにもかかわらず、人はなかなかそれを実行しようとしません。さばいて、なんとか自分で気持ちを晴らそうとしてしまうものです。そのような自分の罪に気づいたら、神様に祈って赦される体験をしましょう。そうすれば、誠に人を愛せるようになり、さばかなくなり、心が引き上げられます。このようにして、御霊による愛を自分のものにしましょう。「多くの罪が赦された者は、多く愛するようになる。」これが秘訣です。