ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2014年月10月26日
どんな境遇にあっても満ち足りることを学ぶ
(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:10〜)

『私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:10)

   他の人を心配できることは幸いなことです。パウロは初めに、自分を心配してくれる兄弟姉妹に感謝を述べ、次のように語りました。

『乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:11〜13)

   人生には、いい時もあれば悪い時もあります。しかし、どんな境遇であっても、私たちは満ち足りることができます。パウロが学んだのは、次のことです。

『いつも主にあって喜びなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:4)

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:6)

『そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:7)

   どんな境遇であろうとも、いつも主にあって喜ぶことと、あらゆる場合に感謝することが、私たちの心を平安で守ってくれます。それは、喜びと感謝が、恐れを消し去るからです。自分にとって良くないと思われる境遇には、必ず恐れが伴っています。貧しさも困難も、将来への恐れをもたらします。この恐れを解決することが、問題を解決するということなのです。
   恐れというものは、意識して支配しようとすると、かえってその深みにはまり、解決することは難しくなります。むしろ、恐れを意識することをやめ、感謝する方向に心を向けることによって、気づかないうちに恐れが締め出され、平安が支配してくれるようになるのです。
   聖書は、私たちに、 『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)と教え、『御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださる』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:27)と教えています。この御言葉を信じる時、すべてのことを喜び、感謝することができるようになります。
   困難にぶつかっても、御言葉を根拠に、神の恵みに目を留めましょう。すると、恐れは力を失います。これが「信仰に生きる」という秘訣です。信仰に生きるとは、神の言葉を信じることであり、神の言葉で心を満たす生き方のことです。今、心が満たされていないのであれば、それは信仰に生きていないからです。
   では、神の言葉をしっかり食べて、信仰に生きるためにどうすればいいのでしょうか。


・信仰に生きるには

1.ビジョンを持つ

   目標がなければ、信仰は働きません。人は、問題にぶつかり、解決したいと願うから、信仰を使うのです。聖書は、「幻のない民は滅びる」と教えます。人は目標がないと、その時々で、欲しいままに生きてしまうものです。信仰に生きるためには、明確なビジョンを持つことが必要です。
   パウロの明確な目標は福音です。イエス・キリストを目指し、ひとりでも多くの人に救われて欲しいと願い、福音を語ることが、パウロの目標です。
   私たちも、どのような目標でもかまいませんから、目標を設定して祈ってみましょう。その際、ただ願いを持つだけでなく、あきらめないことが大切です。困難なことに出会って、途中で諦めるなら、それは、ビジョンではありません。信仰を働かせるには、明確なゴールを持ち、あきらめないことが必要です。その夢のために、どんな困難にあっても、あきらめず、喜び感謝し信じ続けること、それがビジョンです。
   時々、「祈ったけど、聞かれなかった」という声を聞きますが、イエス・キリストは、「求めなさい。そうすれば与えられる。」「あなたが信じた通りになる。」と、くり返し教えました。これは、あなたが求めなければ、神は何もなさらないし、あなたが信じなければ、何も起きないということです。つまり、祈ったけれど聞かれなかったのは、その人が「私の祈りはきかれないだろう」と思っていたからなのです。主は私たちの信仰をご覧になりますから、私たちが「祈っても無理だろう」と思っていたら、その信仰の通りになさるのです。多くの人は、このからくりに気づかず、困難に出会うと、自分自身であきらめてしまい、「神は、祈りを聞いてくれなかった。」と思ってしまうのです。
   皆さんは困難な出来事を見て、祈ってもどうせダメだと思っていないでしょうか。あなたの信じた通りになるように、と主は言われました。求めるから与えられるのであり、求めなければ与えられません。これが神と私たちの関係です。
   私たちが本気で求めているのかどうか、神が試されることを試練と言います。試練によって、あきらめないで、忍耐して祈り続けることを学びます。信仰が試されることをも、喜びましょう。これが明確なビジョンを持つということです。聖書は、信仰が試される時、あきらめないで喜びなさいと、くり返し教えています。どんな困難になっても、神の言葉を信じ続けることが大切です。


2.心に思い描く

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)

   神が私たちに与えてくださっている信仰は、私たちが望むビジョンに対して、それは確実にかなうという確信をもたらします。ですから、神に願ったことはすでにかなえられたと信じて、心に思い描くことをしましょう。
   心の中で思い描くとは、信仰を育てる作業です。こうなったらいいな、と願うことを一つ一つ具体的に思い描き、神に祈りましょう。信仰を育てることによって、現実の結果を見る前に、祈ったことは心の中ですでに現実のものとなっています。すると、見える状況の中で問題が起こっても、必ずうまくいくという結果が分かっているので、あきらめるという選択肢はなくなり、なんとか乗り越えて先に進もうと対処できるのです。
   このように、確信が来るまで信仰を育てる作業は、戦いでもあります。問題に直面して、今苦しんでいる自分を見るのではなく、解決されて喜んでいる自分を思い描き、感謝を持って祈り続けましょう。「どうせだめなんじゃないか」という思いが心をよぎっても、その思いに負けないように、神が解決してくださっている状態を心に描き、祈り続けましょう。
   ただし、誤解してはならないのは、聖書は、将来を思い描く「信念」を育てる話をしているのではないということです。世の中は、よくこういった聖書の真理を利用して、「信念」を育て、成功する話をします。しかし、それは聖書の教える「信仰」ではありません。聖書の教える「信仰」とは、神を信頼することに根ざしたものなのです。これについては、後述します。
   いずれにしても、神を信頼するとき、人は心に平安を得ることができます。この平安は、見える結果に左右されない、いつまでも変わらない平安です。
   結果が出たら誰でも感謝します。しかし、どんな境遇であっても満ち足りるとは、結果が出る前に、願ったことを心の中で見て思い描き、感謝することなのです。すなわち、信仰で手に入れる平安です。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)

   神と自分との間では、それはすでにかなえられているので、現実に何が起ころうとも、関係ありません。ですから、手に入れていなくても喜べるわけです。ここで語られているのはアブラハムのことで、アブラハムは、「あなたの子孫はこの星の数ほどになる」という主の言葉を信じて、星を見ながら喜び感謝していました。実際にはアブラハムの子は一人でしたが、現在、私たちは信仰の継承者としてアブラハムの子孫です。確かに神の約束は成就しています。
   信仰で見て感謝をすることが、心に平安をもたらします。これがどんな境遇にあっても、満ち足りる秘訣です。苦しみの中で神を信頼することを学び、祈りは聞かれたと信じることで、平安を得ることができます。大切なことは平安を得ることです。なぜなら、見えるものは一時的であり、問題が解決したとしても、神の平安がなければ何にもなりません。これが、「満ち足りる」ということです。


「霊的祝福」

『それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:14〜19)

・パウロが求めている霊的祝福とは、信仰のことです。

   信仰には、肉の信仰と愛の信仰があります。肉の信仰は、世の中の成功のために使う信仰です。ビジョンを持ち、あきらめずに心に思い描き続け、目標を達成する聖書の法則は、自己啓発の道具として用いられることもあります。しかし、神の信仰は愛を土台とするものです。神は、山を動かすほどの信仰があっても愛がなければ何の役にも立たないと言われます。愛とは、神への信頼を意味します。世の中は、愛に根ざした信仰ではないので、自分が成功し有名になることを求めますが、どんなに自己を啓発して成功したとしても、愛がなければ意味がないのです。
   最終的に神が求めているのは、愛の土台に立ったビジョンです。つまり、神を愛し、キリストのために生きることです。そうなるためには、神に愛されていることを知るしかありません。
   自分自身の罪が赦される体験をするしか方法はなく、これによって神に愛されていることを知り、神を愛せるようになり、神に対してビジョンを持つことができるようになるのです。
   初めは肉の信仰でもかまわないと、神は言われます。どんなことでも、あきらめずに祈り続けると、どこかで必ず自分自身の罪に気づきます。その罪を神に差し出して赦される体験をすることで、神を愛したいという願いがわいてきます。そうすると本気で神に対してビジョンを持つことができ、それを思い描いて、私たちは信仰を成長させることができます。これが、神に愛され、神の愛によって築き上げていく霊的な祝福です。神の愛に根ざし、成長する信仰です。
   神は、霊的な祝福も、経済的な問題も含めて、さまざまな問題のすべての必要を満たしてくださいます。私たちが困ったことはすべて、どんなことでも、神は必ず助けて道を開いて下さるのです。あきらめないで祈り続けるならば、神は必ず答えてくださいます。もし、ダメだと思ったら、あなたが思った通りにしかなりません。どんな状況になっても、あきらめたり、つぶやいたりするのはやめましょう。そうすれば、必ず、神の約束は真実だということを知るでしょう。私たちが戦うべき相手は、不信仰です。こうやって信仰は一つ一つ成長するのです。
   神は、今も生きていて、約束を守る方であり、私たちの想像をはるかに超えて素晴らしいことをなさいます。神がすべての必要を満たすという言葉を信じて祈り続けましょう。