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2014年月10月12日
国籍は天にあります(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:15〜)

   パウロは、罪は人に入り込んだ病気であり、自分の罪は完全に癒されたわけではなく、癒されるために、後ろを見ないでイエス・キリストを見て進むのだと語り、『ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:15)と、勧めています。この「成人」という言葉は、『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:12)の中の「完全」と同じギリシャ語が使われています。
   パウロは、まだ病気がいやされている途中のクリスチャンを「完全な者」と呼ぶのでしょうか。それは、神は私たちの罪をもう見ない、つまり、神の目には、私たちは完全な者であるからです。クリスチャンのことをよく「聖徒」と呼びますが、これは「完全な者」という意味です。私たちは罪人であり、神のあわれみによっていやされている途中なのですが、神はすでに私たちを完全な者として扱っておられるのだから、実態も完全を目指して進もうではないか、とパウロは語っているのです。

『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:7,8)

   これが十字架の贖いです。罪を赦すとは、罪が覆われ、神が罪を認めないということで、完全な者と見なされているということです。なぜ救われたら神と交わりができるのか、それはイエス・キリストが私たちの罪を覆い隠して、この人は罪人ではないと宣言しておられるからです。これが、完全ではない私たちが完全だということなのです。
   こうして主によって完全にされ成人と認められた者は、いやしていただくことを求めて、神の前に重荷を下ろす生き方をしましょうと言われています。つらさを自分でなんとかしようと頑張らないで、神の前に差し出すこと、これが大人として正しい考え方です。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(新約聖書 マタイの福音書 1:28)

   いやし主は、イエス・キリストしかいません。幼子は、自分でなんとかできると思って、別のもので解決しようとするからいやされません。神は、あなたは完全(成人)だと見なしておられるのですから、大人になって重荷を神のもとに持って行きましょう。

『もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:15〜17)

   もし、今、語られている御言葉が理解できなかったとしても、今わかっているところで歩むならば、やがて神は、必ずわかるようにしてくださいます。このことを、「砕かれる」と言います。
   人は若いうちは、自分の力でなんとかできると考え、解決しようとするものです。旧約聖書のヤコブは、さまざまな問題を知恵を使って解決し、困難から逃げることで対処してきました。ところが、おじと兄から命をねらわれ、前にも後にも行けず、ついに行き詰まった時に、ヤコブは一晩中神と向き合い祈りました。ヤコブはやっと自分のつらさを神の前に持っていき、神による本当の解決を得ました。そして、ヤコブはイスラエルと名前を変え、イスラエル12部族の父となりました。
   神は、それぞれの信仰の歩みに応じて、自分の力ではどうすることもできないと気づかせてくれるのです。
   内村鑑三も、アメリカまで渡って、罪責感という自分のつらさをボランティア活動によっていやそうとしましたが、できませんでした。しかし、アメリカで「きよい方は神しかおられない。人が自分で自らをきよくできると思うこと自体が間違っている。」というメッセージを聞いたとき、自分は神に助けを求めれば良かったのだと気づきました。心がようやく神に向くようになって、内村鑑三は日本に帰国し、大きな働きを成しました。

   神の福音を理解することはとても重要です。しかし、もしわからなかったとしても、パウロを手本として歩み、また、パウロの指示に従っている人々を見習って歩むように、パウロは教えています。なぜなら、そのように生きるならば、神は、必ず福音を理解する力を与えてくださるからです。

『というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:18)

   ところが、パウロが涙をもって訴えていることは、今なお多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるということです。キリストの十字架の敵とは、どういうことでしょうか。それを知るために、キリストの十字架は何のためであったのかを、ヘブル人への手紙を通して確認しましょう。

『キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 7:24〜25)

『また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 9:12)

『キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 9:26)

『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:16)

   キリストは、永遠の贖いを成し遂げるため、すなわち罪という病気をいやすために、十字架にかかりました。十字架の働きは、私たちを永遠にとりなすことです。この恵みの座に近づこうとしないことが、キリストの十字架に敵対するということです。つらくなっても、重荷に気づいても、神の前に差し出さず、助けを請おうとしないことです。
   私たちは、イエス・キリストから永遠の命を頂き、神を知って、神との関係が回復しました。その神に対して、少しでも近づこうと心を神に向けて進んでいるでしょうか。神に近づこうとして進むと、必ずそれを邪魔する罪が自分の中にあることに気づきます。その罪を神が全部処理してくださるから、神の前に持ってきなさいと主はくり返し語っておられます。しかし、多くの人が、神の助けを求めようとしません。
   私たち自身も、そうではないでしょうか。自分の力できよい生活をすることで、神に近づこうとしていないでしょうか。神に近づくには、十字架のとりなしが必要です。それがなければ、近づくことはできません。

『彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:19)

   キリストの十字架に敵対する人を、大きく二つに分けることができます。一つは、イエス・キリストを信じないで救いを受け入れようとしない人です。神は私たちを滅ぼしたいのではなく、助けたいのです。その神の助けを拒む人です。もう一つは、神に近づこうとしないクリスチャンです。
   クリスチャンであっても、クリスチャンでなくても、その共通項の第一は、自分の欲望に仕えているために、神に助けを請おうとしないということです。人が持つ欲望の中で最も強いのは、人によく思われたいという欲望です。様々な欲望が、人によく思われたいという欲望に絡んで生まれてきます。私たちは、よく思われたいという欲望に縛りつけられているために、自分の罪・弱さというものを人から隠そうとします。その習性によって、自分は辛くない、そんなに弱くないと言って、神からも自分を隠そうとしてしまうのです。
   二番目の特徴は、人からほめられることが、彼らが求める栄光だということです。人の魂に必要なのは、神の言葉です。ところが、人の言葉で生きようとする人は、ほめられることが栄光となります。しかし、それは神の前では、恥でしかありません。
   三番目は、心を天に向けようとせず、いつも地上のことを考えるということです。天にいる神のことを思わず、人のことばかりを考え、人の言葉を食べることに執着するために、神の前に自分の重荷を差し出すことができないのです。自分の事を思って、自分の欲望を満たそうとしてしまう。嫉妬や争い、憎しみが起きる原因は、すべてここにあります。いつも地上のことを思い、自分のことを思い、神のことを思わないことに問題の根本原因があるのです。

   世界の国々の多くは、一部の人が権力を握る政治から、すべての人が平等な社会を目指して、民主主義に変革されてきました。多くの国が民主主義を勝ち取るために、多大な血を流す戦いを繰り広げてきた中、ほとんど血を流さずに革命を成し遂げた唯一の国が日本です。
   この明治維新を推し進めた責任者が西郷隆盛が、敬天愛人という言葉を好んでいたことは有名です。「天を敬い人を愛する」という意味で、聖書の教えと合致しますが、これまでこの言葉の出典には様々な説がありました。ところが、2008年に西郷隆盛が側近に漢訳聖書を貸した記録が見つかり、西郷が聖書を愛読していたことが明らかになったのです。西郷は聖書こそが真理だと悟り、これが明治維新を成し遂げる原動力となりました。多くの人が彼を信頼して付き従った根底には、人ではなく神を見上げる彼の生き方があったのです。
   戊辰戦争は、庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちしたことがきっかけです。捕らえられた庄内藩士たちは、死罪を命じられるものと覚悟していましたが、西郷の指示により、彼らは赦されました。感銘を受けた庄内藩士たちは西郷に教えを請い、その教えを一冊の本にまとめました。そこに、次のような言葉があります。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」

   つまり、人を相手にするのではなく、心を天に向けて神の御心は何かを求め、地上のことばかり思って責め続けるのではなく、己の弱さを見つけよと教えているのです。
   当時キリスト教は禁教ですから、公にはできませんでしたが、どれだけ西郷が聖書に精通していたか、西郷の心の支えが聖書だったことがわかります。
   その他にも、「天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」と語り、天はあなたも私も同じように愛しているから、自分を愛するように人を愛しなさいと教えています。こうして、西郷は、人々から信頼される人物となっていきました。
   私たちは常に地上のことばかりを思い、人の悪いところを責めてしまうものです。そうでなく、心を神に向け、自らを問うことで、十字架の贖いが見えるようになり、成長していくのです。人が十字架の贖いを無視してしまうのは、心を神に向けずに地上のことばかり思ってしまうからです。

『けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:20〜4:1)

   私たちの国籍は天にあります。地上のことに心を向けるのではなく、あなたを造られた神に向けましょう。神は、あなたを神と同じ姿に引き上げて下さるのですから、この方のことを思いなさい。イエス・キリストの十字架の贖いが何であったのかを忘れないで、しっかり立って生きていきましょう。
   私たちの問題を解決してくださるのは、イエス・キリストだけです。贖いによって強められていくから、地上のことばかりに目を向けるのはやめましょう。そうすれば私たちの人生に新しい光が差すのです。九州には隠れキリシタンがたくさんいましたから、誰かが西郷に福音を伝え、聖書を渡したのでしょう。西郷が明治維新という大事業を成し遂げたように、私たちも神に目を向け神に助けを求めるなら、人生という大事業を成し遂げることができるでしょう。