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2014年月9月14日
必要ないやし
(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:15〜)
   人は神に応答した時点で救われます。応答とは、自分が罪深い人間だと気づき、真の神に助けを求めることです。偶像の神に助けを求めても救われませんが、真の神がおられることは被造物を通してすでに示されているので、たとえイエス・キリストの福音を聞いたことがなくても、魂は真の神を呼び求めることが出来ます。これが神への応答であり、この時、神は私たちに信仰を与えて救ってくださるのです。魂が神に応答しているかどうかは自覚できないことなので、いつ救われたのか本人にもわからないのですが、与えられた信仰は必ず成長して、「イエスは主である」と告白できるようになります。信仰を与えてくださるのは神であり、人間の力によるものではないということを知りましょう。

・世の光

『それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:15〜16)

   希望を失っているこの世の中で、私たちがいのちのことばをしっかり握り、神を信頼する希望によって輝くことができるように、神は導いてくださいます。戦争や争いに希望を持つことはできません。しかし、神の言葉を信頼するなら、そこには希望があります。この世は、生きている間の希望を教えますが、神は死んだあとも永遠に続く希望があることを教えています。神は私たちに真の希望を持たせたいと願っておられるのです。

『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:16〜18)

   すべてのものに終わりがあるこの世界は、死に支配された世界です。しかし、神の教えに立つならば、私たちは日々新たにされており、終わりではなく完成に向かっているのだと、聖書は教えます。この教えにしっかり立つことよって、患難の中にあっても失望せずに生きていくことができるのです。いのちのことばを握って世の光となる生き方とは、見えないものに心を留める生き方です。このような生き方が、この世の中で輝いて見えるのです。
   歴史を振り返る時、人々の光となって時代を導いた重要な人物には、クリスチャンが多いことに気づきます。例えば、アメリカで最も尊敬される人物であるリンカーンは、敬虔なクリスチャンであり、神の言葉を信頼し、神に祈る人でした。また、最近まであまり知られていませんでしたが、日本の明治維新の立役者である勝海舟もクリスチャンです。彼は咸臨丸で渡米した際には日曜ごとに教会に通い、晩年に洗礼を受けました。彼の自宅は現在教会になっています。彼から教えを受けた西郷隆盛も、「神を愛し人を愛しなさい」という神の言葉を、生涯の標語としていました。彼らによって時代は大きく変わりました。人々は、神の言葉に信頼した彼らの中に希望を見出したのです。
   神の言葉を信頼して生きていきましょう。死は終わりではありません。私たちは、日々新たにされて完成に向かっているのです。ですから、神の言葉は、いのちのことばなのです。

・テモテについて

『たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:17〜20)

   パウロがテモテをピリピに送ろうとする理由の第一は、パウロと同じ心になっているからです。神は心をご覧になります。パウロは神と同じ思いに立っていましたから、テモテも同様に、ひとりでも多くの人に救われてもらいたい、救われた人々の信仰が成長してもらいたいという思いに立っていたことがわかります。いつまでも残るもの、それは信仰と希望と愛だと聖書は教えます。これは一言で言うと、神への信頼です。神を信頼するとは、神を愛することです。この世で手にした名誉や富は死とともに消えてしまいます。しかし、神への信頼は永遠です。

『だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:21)

   あなたは毎日、どのような祈りをしているでしょうか。クリスチャンになったばかりの人は、神にお願いをすることで自分を幸せにしてもらおうと、自分のことを中心に祈るものです。ところが、信仰が幼子から大人に成長すると、自分の事を祈るのをやめてしまいます。
   自分のことばかり祈る理由は、それが手に入ったら幸せになると思っているからです。ですから、祈りが聞かれると喜び、聞かれないとつぶやきます。しかし、信仰が成長すると、もっと大切なことに気づくのです。それは、私たちはキリストの体の一部だということです。手や足は欲しい物をつかんだら幸せになるのではありません。そんな喜びはすぐに消えてしまいます。手や足の幸せは、体と一つであることに気づくことです。私たちはキリストにあって一つだということに気づくと、祈りが変わります。救いや福音の働きのために祈るようになり、人を愛せるように祈るようになり、共に成長することで幸せになれると気づくのです。
   幼子の特徴は、人を妬んだり、裁いたりすることです。自分のことしか祈らないから、自分にとって面白くないことを裁きます。裁いたら自分が幸せになると思っているのです。確かに、裁くと一時的に気分が高揚しますが、結局は自分がつらくなります。自分のことばかり祈ることを卒業して、欲しいものが手に入ることが幸せなのではなく、神と同じ思いになることこそ、私たちに平安をもたらす真の幸せだと気づいてほしいと、神は願っておられます。

『しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:22)

   さらに、テモテの特徴は、仕える者であったということです。私たちは、偉くなったり、特別な者になることを目指しがちです。キリストの弟子同士の間にも、誰が出世するのか、常に競争がありました。しかし、聖書は、上に立とうと思う者は、仕える者になりなさいと教えます。イエス様ご自身も、上に立つのではなく仕える者となられ、私たちのために十字架にかかってくださいました。仕える者となるところにこそ、私たちの平安があると聖書は教えています。

『ですから、私のことがどうなるかがわかりしだい、彼を遣わしたいと望んでいます。しかし私自身も近いうちに行けることと、主にあって確信しています。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:23〜24)

   パウロの確信は、状況を見て判断するものではなく、主にあっての確信です。祈りが聞かれたかどうか自分で判断して感謝するのではなく、神に祈ったことはすでにかなえられたと、先取りの信仰を持って祈りましょう。

『しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のため、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:25〜30)

   神は、病を癒してくださいます。エパフロデトは、死ぬほどの病気にかかりましたが、神によって癒されました。人を造った神は、癒すことも簡単にできます。聖書には人が癒された話が多くあり、現代もまた、不治の病が神によって癒されたという証がたくさんあります。病気になってもあきらめずに、神に癒しを祈り求めましょう。
   ただし、祈っても癒されなかった人がいるのも事実です。そこにも、神の深い恵みがあります。パウロは、自分の病が癒されるよう何度も祈りましたが、癒されませんでした。でも、そのことによって大きな神の恵みに気づきました。神は、その人にとって何が最善の恵みかを判断して、一番良いことをしてくださいます。病の癒しは素晴らしい恵みではありますが、一時的な恵みです。しかし、信仰が新しくされる恵みは永遠の恵みです。いずれにしても、神はその人にとってベストだと思う判断をなさいますから、祈った結果がどうであれ、感謝できるクリスチャンになりましょう。

   さて、神の癒しについて、私たちが最も知らなければならないこと、それは、私たちにとって一番必要な癒しは何かということです。すべての人は、ある病気にかかっているのですが、そのことを知らずにいます。それは、体の病気ではなく、人と比べて自分はダメだと思ってしまう病気です。この病気は、すべての人につらさを感じさせ、人々を苦しめているのに、どうやっても人はこの病気を治すことができません。
   イエス・キリストがこの世に来られたのは、この病を癒すためです。人を比較してさばき、人から良く思われようとして見えるものにしがみつき、人との比較によって自分は不幸だと思ってしまうこの病気を、聖書は罪と呼びます。
   この病気の原因は死の恐怖です。神といのちを共有していた私たちは、神との関係を失ったことによって、永遠のいのちを失い、死ぬ存在となりました。死は罪の報酬です。アダムとエバが罪を犯したために、罪と死の法則によって、人間に死が入りました。神のいのちを失った結果、自分の価値がわからなくなり、死の恐怖に怯え、人は生きるために、人と比べることで自分の価値を見出すようになりました。私たちは死の恐怖によって、罪の奴隷になってしまったのです。しかし、人からの評価を気にして、自分を良く見せようとする生き方は、結局つらさを生み出しています。
   この生き方から解放されるためには、神と再びつなぎ合わされるしかありません。イエス・キリストが罪を背負って、十字架にかかったのは、私たちが再び神とつなぎ合わされることによって、癒されるためです。罪を取り除くとは、病気を癒すことです。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

   イエス様は、私たちを癒すためにこの世に来られました。体が病気になるのはつらいことなので、私たちは癒しを求めて祈ります。しかし、人間にとって本当につらいのは、人と比べ、自分はダメだと思ってしまうことなのです。このことに気づかないと、本当の意味の癒しに気づくことができません。肉体の病を癒していただいたら愛されていると感じ、感謝するものです。神が一番癒したい病は、人と比べる病です。この病を癒すために、イエス様は十字架にかかり、私たちから死の恐怖を締め出したのです。
   イエス様の十字架は、あなたを愛しているという証です。十字架の愛に触れ、その愛がわかったとき、恐れが締め出されて、人と比べるという病気が癒され、私たちは平安を手にすることができるのです。罪を言い表せばいやされる、これが、聖書が教える福音です。
   罪を言い表すとは、人と比べてつらい思いをしているという自分の病気を言い表すことです。赦されるとは、神の愛に触れ、癒されることです。自分の病気を神に告白すれば、神が病気を癒して下さるのです。
   自分の本当に癒されなければいけない病気に気づき、神の前にそれを言い表し、癒しを受け取ってください。罪は病気です。この病を取り除くために、イエス・キリストはこの世に来られ、十字架に掛かられたのです。