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2014年月8月10日
目指すべきは信仰の成長
(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:21〜)
『私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:21)

   パウロがこう言ったのは、パウロ自身が自分がキリストのからだの一部であるという自覚があったからです。生きていても死んでいても、キリストにつながっていることに変わりがないという思いから彼はこう言いました。

   私たちには、キリストのからだの一部であるという自覚があるでしょうか。人間はみな、キリストのからだの部分として造られ、互いに繋がっています。私たちは、そうした意識をなかなか持てないのですが、しかし、確かに繋がっています。それを証しする現象があります。「愛他行動」です。「愛他行動」というのは、自らの命の危険を顧みず人を助ける行動のことです。人はいざというとき、自らの危険を顧みず「愛他行動」を取ります。

   東北大震災では多くの方が命を落とされましたが、その原因の一つに、「愛他行動」があったと報じられています。多くの人が、誰かの命を助けるため、自らの命を犠牲にした現実がありました。こうした行動は、他にも多く見られます。例えば、消防隊員が自らの危険を顧みずに人を助けに行く姿、また、川で溺れている人がいれば、とっさに川に飛び込み助けに行く姿もそうです。日常生活の中でも、子どもが目の前で転びそうになったら、とっさに人はその子どもをかばおうとしますが、それもそうです。

   普段私たちは、自らの命が大切で、自分さえ良ければそれでいいと思って生きていますが、いざというとき、理屈ではなく、人を助けようとしてしまうのです。こうした行動を人間が取る唯一の理由として考えられるのは、人がみな繋がっているからだということです。

   このことは、自分の体を見ても分かります。体で弱っている部分があれば、その弱っている部分の痛みを体全体が共有し、そして、他の器官がその部分を助けようとします。それは体が一つに繋がっているからです。同様に、人はみな、キリストのからだで繋がっているので、いざというとき、互いを助け合う行動をとっさに取るのです。これが私たちがつながっているということの証拠です。

   パウロは、このように、キリストのからだが繋がっていて、自分はその部分であり、それは永遠であることを知っているがゆえに、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」と言ったのです。

『しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:22〜26)

   パウロは、このまま捕らえられたまま死んだとしても、あるいは釈放されて生きたとしても、自分がキリストの一部であるという事実は何も変わらないという確固たる平安がありました。彼としては、肉体の苦しみにとどまるよりも、キリストのところへ行く方が楽だったのでそれを望みたいという思いはありました。しかし、彼は何が彼らの「信仰の進歩と喜び」に繋がるかを求めていたので、この地上で残り、そして彼らの所に行くことを望むと言いました。

   パウロのこの言葉から、私たちの目指す方向は「信仰の進歩と喜び」であることが分かります。とかく私たちは、信仰の進歩から来る喜びではなく、人から良く思われることの喜び(この世の心づかい)や富を得ることの喜び(富の惑わし)を目指して生きてしまいます。しかし、それらは残るものではありません。私たちは、パウロの言うように、信仰の進歩とそれによる喜びを目指していくのです。信仰の進歩とは、神への信頼を増し加えることです。これは、いつまでも残るものです。

・「信仰の進歩」について考えていきましょう。
   イエス様が語られたたとえ話に「タラントのたとえ」(マタイ25:14〜30)があります。これは、信仰の進歩について教えたものです。「タラント」というギリシャ語は、本来「天秤」という意味の言葉であり、当時は、重さを量る単位、また通過の単位として使われていました。この「タラント」とは、人が救われたときに預けたものとして書かれていることから、その具体的な中身は「信仰」であることが分かります。クリスチャン生活は、神から預けられた「信仰」をどこまで増やしていくことができるかという歩みです。「信仰」を増やすというのは、神を信頼することを意味します。すなわち、どこまで神を信頼できるようになるか、それがクリスチャンとしての歩みなのです。パウロはこれを、「信仰の進歩」と言いました。
   しかし、多くの人は、このたとえを読み、「タラント」は「才能」を指すと勘違いし、このたとえは、神のために「立派な行い」を目指すことを教えたものだと理解します。それは、うわべで価値を判断する「肉の価値観」による惑わしですが、みなこの惑わしにだまされてしまいます。その惑わしの力はとても大きく、「タラント」という言葉から生じて「タレント」(才能)という言葉が出来てしまうほどです。ですが、私たちは、この「タラント」が「信仰」を指すということを誤解してはなりません。神は、人を救うとき(呼んだとき)に「才能」など預けませんでした。神が渡されるものは「信仰」だけです。
   神が望んでおられるのは、一人一人が「信仰」を使い、「神への信頼」を増し加えていくことです。神はそれを得てほしいと願っておられます。ですから、聖書には、『いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:13)と書かれています。信仰を使えば、そこには希望が生まれ、それが神を愛することになります。つまり、信仰を使えば、神が人に与えたいいつまでも残るものを手にすることができるのです。

   ちなみに、タラントのたとえの中で、一タラントを預けられた者が、こわくなって地に隠してしまったという話が出てきます。彼は、「信仰」を使わなかったということです。そのため、彼は清算のときに「歯ぎしり」するほどの後悔に襲われるとあります。私たちも、もし「信仰」を使わなければ、この地上での歩みが終わるとき、必ず後悔をすることになります。人から良く思われたことや富は、何も残りません。そのようなものを追いかけて生きていては、この地上での歩みは一体何だったのか、と必ず後で後悔することになります。ですから、そのようなことにならないように、神は、「信仰」を使うことを教えておられます。

   では、本当に神は「信仰」を成長させていくことを望んでおられるのか、私たちが目指すべきことは、それで間違いないのか確認しましょう。それは、神が何を喜ばれ、何を悲しませるかという視点から見れば分かります。

・イエス様が感動されたこと、悲しまれたこと
   イエス様がこの地上で感動されたのは、「信仰」を使った人に遭遇したときでした。聖書にその出来事が書かれています。百人隊長の信仰(ルカ7:2〜10)と、イスラエルの女の信仰(マタイ15:21〜28)を見たとき、イエス様は感動を覚えられました。

   反対に、イエス様は神を信頼しないことに、涙を流されるほどの悲しみを覚えられました。聖書にその出来事が二つ書かれています。一つは、イエス様がエルサレムに入られるときのことです。エルサレムでは、多くの人たちが長い間神の子が現れることを待ち望んできました。しかし、いざ神の子であるイエス様が現れたとき、人々はそれを信じなかったのです。イエス様は、そうした「不信仰」がエルサレムに満ちているのをご覧になり悲しまれました(ルカ19:41〜44)。もう一つは、ラザロの復活の出来事です。イエス様がどんなにラザロがよみがえると話されても、ラザロの兄弟であるマルタとマリヤ、そして弟子たちも信じませんでした(ヨハネ11:1〜45)。イエス様は、霊の憤りを覚えるほどに、彼らの「不信仰」を悲しまれました。

   このように、イエス様が何に喜びを覚え、何に悲しみを覚えられたのかを見れば、私たちの目指すべき生き方は明瞭です。それは、「信仰」を使うことです。「行い」をよくすることでも、「知識」を蓄えることでもありません。「信仰」を使うことなのです。「信仰」を使うとは、とにかく、神の言葉を「信じよう」とすることです。それが入口です。神の言葉を幼子のように素直に信じようとすると、それを信じられない罪(不信仰)が見えてきます。神は、その罪に涙を流されるのです。その罪の重さが分かるとき、その罪を神に言い表し、それを差し出せば、神は十字架の全き愛でその罪を赦してくださいます。神を信頼できないその思いが赦されたと知るなら、心には言いようのない平安が訪れます。それが、そのまま「神を信頼する心」になるのです。これが「信仰」を使う生き方なのです。では、「信仰」を使って生きた一人の人物について証ししましょう。

・証し
   ジョン・ニュートン(1725〜1807)というイギリスの牧師の話です。
   彼の母親は敬虔なクリスチャンでした。彼は、母親のしてくれる聖書の話が大好きで、神の言葉を蓄えながら幼少期を過ごしました。しかし、彼の幼いうちに母親は亡くなりました。父親は船乗りでしたので、母親の死後、彼は寄宿舎に入ることになりました。彼は11歳になると、船乗りを志し、父の船で学ぶことになりました。やがて彼は、父の船を任されるようになりました。彼はどうやったら稼げるかということを考えました。この時代、船の仕事で最も稼ぐことのできたものは、奴隷の輸送をすることでした。そこで彼は、アフリカで奴隷を買い、イギリスに運ぶという仕事をするようになります。船の中では奴隷を動物と同じ扱いにしました。そのため、奴隷たちは感染症や栄養失調、脱水症状などになり、船の中で命を落とす人もいました。何ともむごいことですが、当時、これは合法的な仕事だったのです。彼は、幼い頃あれほど聖書の言葉に親しみ育ったのですが、神の言葉はすっかりどこかへ飛んでいってしまったような生活をしていたのです。

   ところが、彼が22歳の時、彼の船が嵐に遭います。船が沈没しかかり、彼はそのとき、命の危険を覚えました。神などすっかり忘れた生活をしていた彼ではありましたが、そのとき、忘れていた「信仰」がよみがえってきたのです。彼は生まれて初めて、神に必死にすがりました。死を目前にしたとき、自分の得た名誉や富は何の役にも立ちません。彼は、ただ神に祈り、神を信頼しました。そのとき奇蹟が起き、彼は助かったのです。

   彼は、22歳の日に起きた奇蹟を忘れませんでした。すぐに船を下りることはできませんでしたが、彼はその日以来、奴隷たちを動物のような扱いをすることができなくなりました。彼は30歳になると、牧師を目指すため、船を下りることにしました。「黒人売買をするような罪深い自分であったが、神はこんな自分を見捨てず助けてくださった。これほどの喜びがあるだろうか。」彼は嵐の中助けられた日を、自分の第二の誕生日とし、「信仰」によって新しい人生を歩み出すことにしました。彼は聖書を学び、牧師になり、そして教会で証しし続けました。

   彼の話を聞いて感動した一人の教会員がいました。彼は、ウィリアム・ウィルバフォース(1759〜1833)という若い政治家でした。彼はジョンの話を聞き、奴隷貿易反対運動を始めます。状況は厳しいものでした。しかし、ウィリアムはジョンに励まされながら、神は必ず助けてくださると信仰を使って運動を進めました。そして、長い年月を要しましたが、ついに人身売買を禁ずる「奴隷貿易法」が可決されたのです。この出来事がきっかけとなり、世界中に革命が起きました。人間はみな平等だという今日の礎が築き上げられたのです。

   ジョン・ニュートンは、自分の罪が赦され、生かされているこの恵みがあまりにも素晴らしすぎるので、一つの賛美歌を作りました。それが、あの有名な「アメージンググレイス」〜驚くばかりの〜です。ジョンは船が遭難し掛かるという患難に出会ったとき、神に必死にしがみつく選択をしました。そして、助けられた彼の感謝と喜びから、一人の人物の「信仰」に火がつき、そして、世界の政治までを動かすようになったのです。

驚くばかりの恵みなりき
この身の汚れを知れる我に

恵みは我が身の恐れを消し
任する心を起こさせたり

危険をも罠をも避け得たるは
恵みの御業と言う他なし

御国に着く朝いよよ高く
恵みの御神をたたえまつらん

   このように、神の言葉を信じ、「信仰」を使った人たちによって世界は動かされてきました。私たちも、自分の抱える問題に対して、神の言葉を素直に信じることです。幼子のように、神の言葉を信じるかどうか、全てはそこに掛かっているのです。神は、試練にぶつかったら喜べと教えています。それは、信仰を使って、神の言葉を信じるチャンスだからです。その中で得た神への信頼は、決して失うことがありません。

   私たちは、一体何を目指していくのか、それは「信仰の進歩とそれに伴う喜び」です。すなわち、「信仰の成長」です。神が最も悲しまれるのは「信仰」を使わないことです。このことをしっかりと心に留め、歩んでいきましょう。