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2014年月8月3日
伝道しよう
(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:12〜20)
   一般に、宗教とは倫理を教えるものだと思われています。しかし、キリスト教は、倫理によって人を変えるのではなく、自分の価値観という物差しが変わる生き方を教えています。同じ出来事に対して判断や反応がそれぞれ異なるのは、出来事そのものに問題があるのではなく、その人がそれをどう捉えるかという物差しによるものです。この物差しは、善悪の知識と呼ばれ、これを根本から変えることによって、私たちは平安へと導かれます。この物差しを変えようとしないで、自分の価値観のまま聖書を読むと、神の真意を正しく理解できずに私的解釈に陥り、神の平安を手に入れることができません。自分の価値観と異なる表現に出会った時こそ、神の価値観を知るチャンスです。


・患難は栄光に変わる

『さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:12〜14)

   パウロは投獄され、自由を奪われました。私たちの常識では、パウロの宣教活動はここで止まり、大きな痛手を負ったと考えます。ところが実際には、このことによって、福音はかえって大きく前進することになったのです。それは、パウロの投獄によって兄弟たちに確信が与えられ、ひとりひとりがますます大胆に伝道するようになったからです。さらに、パウロ自身は牢獄で多くの手紙を書く時間が与えられ、その手紙は新約聖書の一部として後世に伝えられることになり、当時のクリスチャンばかりでなく、将来にまで正しく福音を伝えるという素晴らしい働きになったのです。このように、人間の目には絶望的に思える出来事であっても、神はその患難を栄光に変えてくださいます。
   「患難が栄光に変わる」、人は本来このような価値観を持っていませんでした。今、人々が持っている価値観は、神なしで生きていくために作り出した価値観です。しかし、神は、あなたはひとりで生きているのではなく、神の一部であり、神がともに生きていると教えます。人には解決することができず諦めるしかない問題も、神が共に生きているなら、解決されるだけでなく栄光に変わるのです。患難にぶつかるのはつらいことですが、ともにおられる神に目を向けて祈るならば、神は必ず栄光に変え、その問題をプラスの結果に変えてくださいます。


・神への愛を動機とする生き方

『人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:15〜17)

   パウロが投獄されたことで、みんなが奮起して伝道するようになったのは良かったのですが、すべての人が神への感謝や喜びが動機で伝道したわけではありませんでした。中には妬みや競い争う心から伝道する人々もいたのです。パウロは、人々が間違った動機で奉仕することに対して、苦しみを感じています。

『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:13〜3)

   神は、私たちが何をしたかではなく、心の状態が大切なのだと教えています。奉仕は動機がその大切です。どんなに立派な行いをしようとも、愛がなければ何の役にも立ちません。
   人間が考える愛は、その人のために良い事をして尽くすことです。しかし、人には必ず、人から良く思われたいという見返りを求める気持ちがあり、この見返りがないと、一生懸命やっているのになぜわかってくれないのかと怒りが湧いてくるものです。たとえば、家庭では、相手が自分の期待に答えてくれないとケンカになり、子どもの成長を期待して育てているのに、期待通りにならないと、親は子を叱ります。子どもは、期待に答えようとして頑張ると、「褒められる」という見返りをもらえます。
   このように、「わかってもらえた」「頑張ってくれた」「感謝された」「褒められた」等の見返りを、お互いに期待してしまうのが人間の関わり方です。良い見返りをもらうために頑張ることが、人間にとっての愛なのです。しかし、聖書が教える愛は違います。「愛」を表す言葉として、聖書では、ギリシャ語の「アガペー」が使われていますが、「アガペー」とは、本来人間の間には存在しなかった関わり方を表す言葉です。

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:4〜7)

   神が教える愛とは、見返りを求めず、神を信頼することです。神を信頼するがゆえに、患難に耐えることができ、約束を信じることができるのです。
   神は私たちに、神への信頼を持った上で、人と関わりを持つように教えています。人を直接愛そうとすると、どうしても見返りを求める思いが働きます。そうではなく、間に神を置き、神を信頼することで得られる平安を持って人と関わるならば、神に愛されている喜びが大きいため、人に愛を求めなくなります。
   聖書では、よく「主にあって○○しなさい」という表現が使われます。自分と人との間に、神がおられることを忘れないようにということです。私たちは皆愛されることを求めています。それを、人から愛されているかどうかを基準にするのではなく、神を基準にするなら、いかに自分が愛されているかがわかります。
   神を通して人を見る生き方に変えましょう。私たちは、人を通して神を見ようとしてしまいがちですが、神への信頼の中で人と接すれば、迫害されようが悪口を言われようが気にならなくなるし、見返りを求めることもなくなります。私たちの見返りを求める生き方が、互いの間に争いや妬みなどの様々な問題を引き起こしているのです。
   奉仕も、人との関わりも、神を信頼する心をもって実行することが大切です。神を信頼するとは、神を愛することです。そのためにできることはただ一つ、神なしには生きていけない自分の弱さに気づけばいいだけです。そのためには、自分の罪に気づき、自分がいかに惨めかと気づくことです。そうすれば、神を求めるしかなくなるからです。すると神は赦してくださいます。自分の罪がわからなければ、赦されたことがわかりません。多くの罪を赦されたことに気づいた者が、神を多く愛するようになり、信頼するようになるのです。
   私たちは、神の前で自分を飾る必要はありません。自分の弱さに気づき、神に赦されていることを知れば知るほど、正直に生きられるようになり、神を信頼できるようになり、その神への信頼を持つ中で人と接するならば、正しい生き方ができるのです
   。最も大切なことは、神との関係を築くことであり、その方法はただ一つ、自分の弱さに気づくことです。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:9)

   神の恵みは、私たちの弱さにしか働きません。ただ、「神様」と呼ぶだけで、あなたの罪は赦され、あなたは神の愛を知ることができます。すると、神の愛によって心が満たされるため、人の言葉で心を満たそうと見返りを求めることをしなくなるのです。それしか神の愛を知る方法はありません。


・キリストの素晴らしさが現れる

『すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:18〜20)

   妬みや争いという間違った動機からなされた伝道であっても、パウロは、福音が語られるという事実に目を留めて喜びました。たとえ良くない動機から始めたにしても、それによって救われる人がいるならば、福音が前進して、キリストの恵みが現れる喜びの方がまさるからです。
   奉仕の動機は重要ですが、伝道はさらに重要なものなのです。福音が語られることで、キリストの素晴らしさが現れるからです。神は、愛がなければすべては虚しいと教えますが、たとえ愛がなくても、やらないよりはやったほうがいいのです。なぜなら、御言葉を実行することによって、神の愛を知る機会が生まれ、そこから、本当の愛が生まれるからです。自分には愛がないから、何もしない方がいいのではないかと考えてはなりません。神は、行いのない信仰は死んだものであるとも言われました。何もしなければ何も生まれません。しかし、御言葉を実行するならば、必ず自分自身の罪が示され、その結果、神の愛を知ることができるようになります。つまり、どんな動機であっても伝道することによって、人は必ず砕かれ、主に助けを求めることによって、主を信頼し愛する者へと結果的に変えられていきます。ですから、私たちはどんなときも福音を語り続けましょう。
   私たちが福音を語ることで、キリストの素晴らしさが現れるのです。キリストの素晴らしさ、これがどれほど素晴らしいものかを知れば、あなたは福音を大胆に語ることができるでしょう。イエス・キリストは、私たちの人生を180度変えることがおできになります。私たちに永遠のいのちを与え、救ってくださるだけでなく、この地上での私たちの価値観を変え、素晴らしい人生を与えてくださるのです。

   「十字架と飛び出しナイフ」という映画の原作者、ディビッド・ウィルカーソンという牧師の証を紹介しましょう。この映画は、彼自身の体験をもとにしたものです。
   ウィルカーソン牧師は、神に示され、ニューヨークの最も貧しい子ども達が住んでいる地域で伝道を始めました。そこは、あらゆる悪事が横行し、命の危険すらある場所で、これまで誰も宣教に行かなかった地域です。そこで牧師は、ニッキーという青年に出会います。彼は、ニューヨークで最も戦闘的な暴力団マウマウ団の副団長で、弱い人や傷ついた人を見ると、憎しみと殺意を覚え、暴力を振るい、血に飢え、血を見ると笑いが止まらなかったといいます。ニッキーの両親は心霊術者で、死者と話をする商売を自宅でしており、彼はいつも自宅から追い出され、親から愛された記憶がありません。暴力団に首を絞められた後遺症で言語障害を負ったニッキーは、今まで以上に暴力を振るい、ついに殺人事件に関わってしまいます。そんな彼から逃げるため、両親はプエルトリコに帰ってしまいました。ニッキーは、自分を捨てた母が恋しくてたまらず、夜は恐ろしくて不安で眠れない日が続き、ますます心はゆがんでいくのでした。
   そんな彼に、牧師は「君を愛している」と言って近づきました。「俺に近づいたら殺してやる!」「殺してもいいよ。君が僕をこま切れにして切り刻んで通りにばらまいても、こま切れの一片一片が君を愛するよ」。親の愛情を全く受けずに育ったニッキーは、ウィルカーソン牧師から、初めて「愛している」という言葉を聞いたのです。
   それでもニッキーは心を開かず、ある晩、伝道会をぶち壊すために仲間と共に会場にやってきました。そんな彼らに、牧師は献金の奉仕を頼みます。持ち逃げされることを覚悟の上で、彼らを信じたのです。生まれて初めて自分を信じてくれる人に出会ったニッキーは、初めて心を開いて説教を聞き、変な気持ちになりました。「神は、あなたがこれまで何をしてきたかはまったく関係なしに、人々を新しく出発させることができる」というメッセージを聞き、彼はそれが欲しくなったのです。
   彼は生まれて初めて祈りました。「神様、僕はニューヨークで一番汚い罪人です。あなたが僕をお望みになるとは思いません。でも、もし、僕を望まれるなら、あなたは手に入れることができます。僕はなんと悪い奴だったでしょう。その僕をイエス様のために善にしてもらいたいのです。」
   そして彼は変わりました。キリストを伝える有名な伝道者となって活躍し、ウィルカーソン牧師の著書「十字架と飛び出しナイフ」の映画化によって、多くの人に福音を伝える働きに用いられました。

   人は、自分が愛されていることを知るだけで、180度変わることができます。これがキリストの素晴らしさが現れるということです。私たちが福音を語ることによって、キリストの素晴らしさが現れ、その人の人生が変わります。
   パウロ自身もそのことを体験しています。かつてパウロは、キリストを憎み、クリスチャンを迫害していましたが、イエス・キリストの素晴らしい福音に出会い、すっかり変わりました。イエス様の弟子たちも、イエス様を裏切り、逃げてしまいましたが、イエス様は彼らの罪を責めることなく、赦され、その体験を通して、弟子たちも変わりました。クリスチャンになる人は、皆その道を通ります。
   人は誰しも、過去の自分を振り返ったとき、人には言えないことや隠したい罪があるものです。神はその罪をすべて帳消しにして、ただ一言、「あなたを愛している。私はあなたのために十字架にかかったのだ。私の目にあなたは高価で尊い。」と言われます。この神の愛に触れるとき、私たちがそれまで持っていた価値観は、音を立てて壊れていきます。立派なことをしなければ、頑張らなければ愛されないと思っていたのに、そうではないということを知るのです。罪人の私ですら愛されるという神の愛に触れ、価値観が変わり、その人の人生が変わります。これが、キリストが現れるということです。この愛を体験し、さらなるキリストの素晴らしさが現されるために、ますます福音を語っていこうではありませんか。