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2014年月7月27日
死のとげが罪

   イエス・キリストは、私たちを罪からあがない出すために、この世に来られました。ですから、罪がわからないと、あがないが理解できず、本当の福音の意味がわかりません。キリストは何のために来られたのか、福音とは何か、聖書を通して学んで行きましょう。


・罪とは何か

   私たちには、同じ言葉を聞いても、人によってその言葉の持つイメージが異なるという問題があります。さらに、人はそれぞれが持つ独自の価値観によって、語られる言葉を理解します。しかし、聖書は、神の価値観で書かれたものなので、聖書の言葉を私たちの価値観で理解しようとすると、神の意図を誤って理解してしまいます。聖書は、聖書の言葉によって理解しなければならないのです。
   さて、私たちは一般的に、罪とは規則に違反すること、つまり、悪い行為だととらえます。しかし、聖書は、行いだけでなく、その行いにいたらせる原因をも罪だと教えます。ですから、罪の原因を理解しなければ、本当の神の福音が見えてきません。
   結論から言うと、罪とは肉の思いだと聖書は教えます。私たちの中に、神の思いに逆らう肉の思いが住み着いてしまっていて、それが、私たちに悪い行いをさせていると聖書は教えています。聖書は、これを「神と異なる善悪の知識」とも表現しています。これが罪の原因です。

『というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:7)

『私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:19〜21)

   私たちの判断の基準は、私たちの中に住み着いた肉の思いから生まれた善悪の知識で、それは神の基準とはまったく異なるものです。例えば、聖書に次のようなたとえ話があります。

   ぶどう園の主人が、朝早く広場に行き、1日1デナリの約束で、労働者を雇いました。主人はその後、9時と12時と3時と5時にも、人を雇いました。夕方、賃金を払う時になり、5時に雇われた人たちから順番に1デナリずつ受け取りました。最初に雇われた人たちは、もっと多くもらえるだろうと思いましたが、やはり1デナリずつだったので、主人に不平を言うと、主人は「わたしは約束通り、不正なことはしていない。ただ、わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と言いました。(マタイ20章参照)

   これが神の国の価値観です。私たちの価値観は、行い=価値です。どれだけのことをしたか、どれだけのことができるかで、人の価値を判断し、その価値に見合う報酬を手に入れるのが当然だと考えます。
   しかし、神の基準は違います。いったい神の価値観の基準は何なのでしょうか。それは、いのちです。神にとって価値があるものはいのちであり、人間は皆神のいのちを持っています。そのいのちは平等なので、いのちに対して同じ評価しかしないのです。神は、人を上辺で判断して、さばく価値観を持っていません。ですから、イエス様は人を上辺で判断してさばくのはやめなさいと教えておられるのです。
   この神と異なる価値観が、肉の思いです。この肉の思いがあるために、神の価値観で書かれた聖書の言葉を実行しようとしてもできないのです。これが罪です。私たちの中に神とは異なる肉の思い、善悪の知識が住み着いているのです。

   私たちが持つ善悪の基準では、自分が良く思われ愛されることが「善」になり、良く思わないことが「悪」です。そのため、人から良く思われない行為が「罪」とされるのです。人に迷惑を掛けたり、苦しめたり、傷つけたりする「行為」が「罪」だと考えます。
   しかし、聖書の教える善はまったく異なり、聖書はむしろ、私たちが悪い行いをする原因は、私たちの善という基準にあると教えます。上辺をよく見せて、人から愛されようとする価値観のために、人と比較して嫉妬し、意地悪をしたり、殺してしまったりするのです。人と比べて自分はダメだと思う時、悪い行為が発生するのです。すべての憎しみは比較から生まれます。この人は価値がある、価値がないと比較し、憎しみが生まれ、戦争が生まれます。
   この価値観が私たちを苦しめているのです。悪い行いだけを罪だととらえると、神の福音とは、私たちが善い行いをするためのものになってしまいます。そうすると、何のための十字架だったのか、まったくわかりません。なぜこのような価値観を持ってしまったのか、このことがわからないと神の福音が見えてこないのです。
   人は、神と異なる善悪の知識を持つがゆえに神を必要としません。本来、善とは神ご自身であり、その神を愛することです。私たちは神により頼み、神の言葉を聞いて生きてくのが本来の生き方なのですが、いったいいつから人と比べて妬んだり、憎んだり、自分の価値観で生きるようになってしまったのでしょうか。


・どのように神と異なる価値観を身につけたか

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」』旧約聖書 創世記 1:26)

   神は人をご自身に似せて創造しました。これは、姿形ということではなく、私たちは神と全く同じ思いを持つように造られたということです。神との関わりの中で、神と共に生きるように造られたのです。人を愛することは神を愛することであるという聖書の教えの根拠は、私たち一人一人が神のいのちを持っているからです。

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

   原語では、「いのちの息」の「いのち」は複数形で記されており、三位一体の神のいのちを表すときにしか使われない表現です。「息」は、霊・聖霊・魂等、いくつかの意味を持つ言葉です。つまり、人は、神のいのちで造られた霊を入れて造られ、神と関わりを持つものとして造られたということです。これが「生きものとなった」という原語の本来の意味です。
   すべての生き物の中で、神のいのちによって造られたのは、人間だけです。1:30にある「いのちの息のあるもののために」という「いのちの息」は単数形で表されており、単に生き物という意味で、神との関わりの中で生きる者という意味はありません。この「いのちの息」は、1:24の「生き物」と同じ言葉が使われています。ですから、神のいのちの息を吹き込まれたのは、人間だけなのです。

『神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」』(旧約聖書 創世記 2:16,17)

   人は、神のいのちによって造られ、神と同じ思いを持つ者として造られました。つまり人は、神と同じ「善」の思いを持っていたのです。神が、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と命じられたのは、神と異なる善悪の基準を求めてはならないことを教えたものです。それは、神と異なる基準を持つことで、神と一つの思いで結ばれていた信頼関係が壊れてしまうからです。「死」とは、神との関係を失うことです。
   人は、神との関係を失ったため、それまで見えていた神の愛が見えなくなり、神に愛されていることがわからなくなりました。不安のため、恐ろしくなった人間は、愛されたいという願望を持つようになりました。これが、いちじくの葉をつづり合わせて、腰のおおいを作る行為になったのです。(創世記3:7)神との関係を失い、自分しか見えなくなり、しかも、その自分は裸であることに気づいた彼らは、自分たちを良く見せることで、愛されようとしたのです。これが、人の善悪の知識の原点です。
   また、人は神のいのちとの関わりを失ったために、永遠のいのちも失いました。こうして、人の体は死ぬものとなったのです。このことは、人の心に生じた「恐れ」を増し加え、死にたくないという願望を生じさせました。こうして人は、富にしがみつき、お金を手にすれば安心するようになりました。ですから、人の善悪の知識は、お金に価値を置き、人の価値の報酬をお金ではかるようになりました。

   このように、死がもたらした「恐れ」が、人に神とは異なる善悪の願望をもたらし、「罪」となったのです。それが、「罪の律法」を作らせ、神を愛させない「罪の力」となりました。聖書はそのことを、 『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)と教えています。つまり、人の罪となった善悪の知識は「死」がもたらしたものであり、「死」こそが、人の「罪」の原因なのです。

   「死」が、神とは異なる善悪の知識を人に持たせたというのは、本当でしょうか。少し、別の角度から考えてみましょう。
   たとえば、今あなたが肘掛け付きの椅子に座っているとしたら、あなたはその椅子にどれくらいの価値をつけるでしょうか。ただの椅子に、百万円も出す人はいないでしょう。ところが、もし、その椅子が、椅子の周り1平方メートルの床ごと10メートル上昇したとしたらどうでしょう。あなたはきっと、椅子の肘掛けを力強く握りしめることでしょう。そのとき、あなたにとってその椅子の価値はどう変化するでしょうか。きっと相当上がることでしょう。では、さらに百メートルまで上昇したとしたらどうでしょうか。あなたは、椅子の肘掛けに必死にしがみつき、あなたにとって椅子の価値は、百万円どころの話ではなくなることでしょう。
   同じ椅子が、状況によって全く価値が変わってしまった原因は、死の恐怖を感じたことにあります。死の恐怖は、人の価値観を変え、見えるものの価値を変えてしまうのです。こうして、神との関わりを失う「霊的な死」の「恐れ」は、神と同じであった人の価値観を、真逆の価値観に変えてしまいました。
   神に似せて造られた人が、神とは異なる善悪の知識を持ち、神と真逆の価値観で、神ではなく「人」と「物」にしがみついて安心しようとして、人から良く思われることに必死になり、お金にしがみつこうとするのは、「死」がもたらした「恐れ」が原因です。
   このように、人の善悪の知識は、神との関わりを失う「死」を通して、人の中に住み着き、「罪」となりました。人の中に住み着いた善悪の知識が、「罪の律法」です。

『私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:19,20)

   つまり、人の中には「神の律法」に逆らう「罪の律法」が住みつき、それが「神の律法」に戦いをいどみ、人の力では神を愛せないようにしているのです。

『私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。(新約聖書 ローマ人への手紙 7:23)

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)


   人の罪は、死がもたらした「恐れ」(死のとげ)であり、その「恐れ」の力が、神とは異なる善悪の知識(罪の律法)を人に持たせました。この日本語からは分かりませんが、この原文のギリシャ語には動詞が省略され、「死のとげ、罪。罪の力、律法。」と書かれています。動詞を省く手法は、強調したいときに使う手法です。なぜ、そうまでして、この箇所を強調したかったのか、それは、罪の原因が分からないと、「神の福音」も分からなくなるからです。

   「神の福音」は、人の罪を取り除く福音です。そのため、この福音を正確に知るには、罪のことを正しく知る必要があります。罪とは、神とは異なる善悪の知識であり、人は自分が愛されることを善として生きています。そのせいで、人の心は神に向けられず、神を愛せないのです。
   この罪を取り除く「神の福音」を知るためには、人に罪をもたらした原因を知る必要があります。それは、「死」です。神との関係を失う「死」が、人の中に「恐れ」を住まわせ、罪が誕生したのです。つまり、「死のとげ(恐れ)」が「罪」であり、その「罪の力」が「善悪の知識(律法)」なのです。(Tコリント15:56)。

   つまり、罪を取り除く「神の福音」は、神との関係を回復することから始まります。そして、「善悪の知識」を誕生させた「死のとげ」、すなわち、「恐れ」を締め出して、人の罪を取り除いてくれるのです。

   すなわち、第一に神との関係を回復する「救いの恵み」であり、第二に「恐れ」を締め出す「赦しの恵み」、これが神の福音です。
   「恐れ」は、自分が愛されていないと思う不安から生まれています。ですから、「恐れ」を締め出すには、自分がどれだけ愛されているかを知るしかありません。キリストはどれだけ私たちを愛しているかを示すために、十字架に掛かられたのです。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9,10)

   この愛を私たちが知ることができるように、神は罪を言い表すように教えておられます。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   人は罪を言い表したら罰を受けると思って、なかなか自分の罪を認めようとしません。しかし、神は、ただ赦すと言われているのです。本来「罪」の報酬は「死」です(ローマ6:23)。これは神が与えたものではないので、罰ではありません。キリストは、「私が、その報酬を十字架で支払ったので、あなたは支払う必要はない。だから、罪には定めない。その罪は赦された。」と言われます。こうしてキリストは、私たちが罪を言い表すことで、罪が赦される十字架の「全き愛」を知るようにしてくださったのです。

   自分の罪深さを知り、それがキリストの十字架で赦されたことを知るなら、まことに自分が愛されていることを自覚しないでしょうか。こうして、十字架の「全き愛」によって、「恐れ」は締め出されていき、それに伴い神を愛させなかった罪は取り除かれ、人は神を愛せるようになっていきます。つまり、多くの罪が赦されれば、それだけ「恐れ」も締め出され、多く神を愛するようになるのです。

『だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(新約聖書 ルカの福音書 7:47)

   これが、罪を取り除く「神の福音」であり、十字架が必要な理由です。