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2014年月7月20日
恵みと平安がありますように
(新約聖書 ピリピ人への手紙 1章1節〜)
   神は、私たちを惑わす偽りの情報と戦うために、真理の言葉である神の武具を身につけなさいと教えておられます。私たちが惑わされる原因は、自分の中にある恐れです。そのために周りの目が気になり、周りの言うことを受け入れてしまうのです。しかし、真理の言葉を身につけるならば、私たちは惑わしに勝利し、自由を得ることができるのです。

『キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:1〜2)

   「恵みと平安」とは、単に儀礼的な挨拶ではありません。「恵み」とは、私たちの働きには関係なく、神が私たちに与えてくださるものです。働きに応じて与えるものは報酬と呼ばれます。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8〜9)

   神の恵みの第一はこれです。私たちが救われたのは、恵みによって、神が私たちに信仰を与えてくださったからです。主イエスを信じることができる信仰こそ、神の恵みです。
   人間は、悪魔にだまされ、死によって神と切り離されてしまいました。幹から切り落とされ自分ではどうすることもできない枝である私たちを、神ご自身が拾い上げ、再びご自分の幹に接木してくださることが、救いなのです。
   第二に、「平安」とは、神との関係を築くことによって得られる平安のことです。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:14〜16)

   イエス様は、神と私たちの間にあった隔ての壁を壊して一つにし、平和を築くために十字架にかかられました。「恵みと平安がありますように」とは、「神によって救われ、あなたの上にあった罪が取り除かれて、あなたの上に神の平和が築かれていきますように」という意味なのです。

『これが、神の救いの計画です。神は、枝を接木するだけでなく、接木した枝が実を結ぶまでの計画を持っておられます。途中で実がならないからといって、取り除くようなことはなさいません。このことをしっかり理解することが、神の武具である救いのかぶとをかぶるということです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:16)

『私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:3〜6)

   5節の「広める」は、原文にはない言葉で、新改訳聖書を翻訳する際に補われた言葉です。新改訳聖書は、この箇所は伝道について語られているという理解に基づいて翻訳されているからです。しかし、原文のまま直訳すると、「あなたがたが福音(恵みと平安)に預かってきたことを感謝する」という意味になり、続く6節の理解は、「神は、イエス・キリストの日が来るまでに、あなたがたのうちに始めた恵みと平安を完成させて下さると信じている」ということになります。
   神は、この世での死が訪れる時まで、私たちが完成に近づくように面倒を見て下さるのであって、途中で見捨てたり、救いを取り消したりすることはありません。ですから、信仰が足りないとか、実がなっていないなどの理由で、神から見離されるのではないかと不安になる必要は全くありません。たとえ一時的に神への信頼を失い、神から離れるようなことがあったとしても、神は最後まで見捨てず、働きかけ続けて下さるお方なのです。
   何があっても最後まで見捨てられない――この愛を知るとき、私たちの中から不安や恐れが消えていきます。自分に罪や弱さがあることに気づくと、多くの人が神から見離されるのではないか、救いが取り消されるのではないかと不安を抱きますが、それは、むしろ神の愛の深さに気づくチャンスです。いつでも神に立ち返ることができるチャンスがあるのです。
   救いは神が完成してくださるものでから、今の自分の状態を見て心配する必要はありません。あなたはすでに神から救いという平安の実をいただいており、これからもさらに多くの実を結ばせていただくことができるのです。

『私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:7〜8)

   神は、恵みに預かったすべての人に対して、神との平安を築く完成まで責任を持って導いてくださいます。救いとは、イエス・キリストを信じる信仰を持つところで終わるのではありません。神との間に平和を築き平安を得るまでも、救いに含まれるのです。それは、人の力によってできることではなく、神の働きかけがあって初めて達成されるものです。

『そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:12)


・神が築く平和とは

『私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:8〜9)

   神は、私たちの愛が豊かになり、真にすぐれたものを見分けられるようになることを、願っておられます。人間は、神と切り離されたために、それを見分けられなくなったので、神との関係を回復し、本来の知識と識別力を取り戻して欲しいと、神は願っておられるのです。
   神は、人をお造りになった時、エデンの園の中央にいのちの木と善悪を知る木を植えました。いのちの木は、神の与えたいのちは成長して実をならすものであることを教えるために植えられ、善悪の知識の木は、自分で善悪の知識を求めてはならないという注意を促すために植えられたものです。ですから、神は善悪の知識の木の実を食べてはならないと言われたのです。
   私たちの罪の本質は、神と異なる善悪の知識を身につけてしまったことです。神と異なる基準で物事を判断するために、神の愛がわかりません。善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバは、神が見えなくなり、自分の姿しか見えなくなりました。しかもその自分は裸であることを知り、恐れて隠れたと聖書にあります。自分には何もないという不安を取り除くために身につけた神と異なる善悪の基準、これが罪の本質です。
   人の善悪の基準は、善とは人からよく思われること、悪とは人から悪く思われることです。人から良く思われるにはどうすればいいかが物事の判断の基準であり、道徳はこの基準によって成り立っています。
   ところが、神が本来人に与えていた善の基準は、神を愛することなのです。ですから聖書は、たとえ全財産施したとしても、命をささげたとしても、愛がなければ意味がないと教えています。私たちが何か良いことをするとき、心のどこかに人から良く思われたいという思いがないでしょうか。人からよく思われたいという見返りを期待する思いは、神を愛する心ではありません。つまり、その行いは、神の基準では善とはなりません。
   人間の善悪の基準で生きるなら、神の基準を知る必要もなく、神なしで生きていくことができます。このように、人が自分の基準で生きることが罪なのです。
   真の知識とは御言葉であり、識別する力とは神の力です。何が正しくて間違っているか、神の力によって真にすぐれた物を見分けるためには、善悪の基準を変えなければなりません。人から愛され良く思われることが善であるという基準を修正しなければ、神との関係を築くことはできません。神との平和を築くために、私たちが持っている善の基準を捨てて、神の基準に合わせなくてはいけないのです。


・神が義とするもの/しないもの

『またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 1:10〜11)

   イエス・キリストによって与えられる義の実とは何でしょうか。それは、決して行いのことではありません。イエス・キリストが義と認める祈りは次の取税人の祈りです。

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(新約聖書 ルカの福音書 18:9〜14)

   パリサイ人の行動は確かに立派ですが、神はそれを義と認めませんでした。それは、彼らが、自分の善悪の基準で神に近づこうとしたからです。多くの人が、神と接木された後も、パリサイ人と同じように、自分の善悪の基準で神との関係を築こうとしてしまいます。御言葉を実行すれば神様に喜んでいただけて、神様から認められてほめられる、そうすれば、神に近づいて関係が築けると思い込んでしまうのです。ところが、ほめてもらおうという動機があると、ほめられなかったり、認められなかったりした時に、腹が立ってしまいます。人の善悪の基準では、一生懸命やったのに認められないと、認めてくれない人のほうが悪いと考えます。
   しかし、神への愛が動機でなければ、行いで義とは認められることはありません。ところが、人間の心の中には愛されたいという動機がどうしても入り込んでしまいます。こんな私たちが神との関係を築く方法は一つしかありません。それが、取税人の祈りです。取税人は、自分はどうしようもない罪人だと気づき、神に憐れんでくださいと叫びました。これが神と私たちの関係を築く祈りなのです。
   多くの人が、クリスチャンになったら厳しい戒律があって、拘束されるのだと誤解しています。私たちが持っている善悪の基準が、何かをして神に認められなければ救われることはできないのだと思い込ませているのです。しかし、神との関係を築くために行いは必要ありません。自分にはできないことを認めて、「神様憐れんでください」と祈るだけで良いのです。この時、初めて神はその人を義とすると言われます。神は、あなたを助けてあなたの罪を赦し、あなたとの関係を築くと言っておられます。これが聖書の教える平安の実です。神が与える平安は、何か良いことをして褒められる平安ではなく、どうしようもない自分の弱さに気づいて、神に助けを求めて手にする平安です。こうして初めて人は神から義を受けることが出来、真の知識によって、神への愛が増し加わり、何が正しいか見極められるようになるのです。
   皆さんは自分の弱さにどこまで気づいているでしょうか。自分の弱さに気づけば気づくほど、「神様」と叫びたくなります。その時、あなたは神の愛に包まれ、自分が真に愛されていることに気づくのです。
   私たちは、弱さや罪を持っているとほめられないと思って隠そうとするものです。世の中は罪を言い表したら、罰を受け、非難されるものですが、神はその弱さや罪をすべて赦してくださいます。この体験によって、私たちは神に対する愛を取り戻すことができ、私たちの価値観は変えられていきます。
   イエス様は、この愛をわかりやすく教えるために、放蕩息子のたとえを話されました。父親の財産を湯水のように使い果たした放蕩息子は、この世の基準で見るとどうしようもない息子です。しかし、神は、帰ってきた彼を一言も責めず、抱きしめて祝宴を催しました。神は、神に憐れみを求める者を義とするのです。一緒にいたお兄さんは自分のしたことを誇りましたが、義とされませんでした。
   イエス様が十字架にかかる前に香油を塗ったマリヤは、自分の罪に気づき、神に赦される体験をして、神を愛したいという思いが生まれ、それが高価な香油をイエス様に捧げる行為になりました。しかし、弟子たちがその行為を責めたので、イエス様は、「責めてはいけない、この女性は立派なことをしたのだ」と言われました。なぜ立派なのか、それは彼女ができることをしたからだと神は言われます。私たちは神に喜ばれるためには、できる限り頑張らなければいけないと思い込んでいます。しかし、自分の弱さに気づいて、神に憐れみを求めて愛されることを知るならば、神を愛したいという純粋な動機が自然に生まれます。そうして、頑張るのではなく、できることをすればいいのです。
   このようにして、神の愛を知ることによって人は変わっていきます。それがキリスト・イエスから与えられる義の実です。神の愛を知ることで、神が義としてくださるのです。クリスチャンになり実を結ぶ者となるということは、拘束されることではなく、重荷を背負い、自分を隠して生きてきた人生から、本来の自分に戻ることです。つらい時、助けてと神に叫ぶなら実を結ぶことができる、これが神の福音です。にもかかわらず、私たちは、戒律を守らなければ、救いが取り消されるという偽りの情報を信じ込まされています。それをもたらしているのが、善悪の知識です。
   この間違った善悪の知識は、神との関係が断たれたために生じました。人間にとっての善は、本来神を愛することだったのに、今、私たちにはそれができません。神はそのこともご存知で、自分の罪に気づいて助けを求めるならば、私があなたに愛を教えると言ってくださっているのです。ですからイエス様は、多くの罪が赦されたものは多く愛するようになると言われました。
   大切なことは、何かをすることではなく、自分に気づくことです。自分の弱さに気づき、神に助けを求めれば、神の愛を知り、神を愛する義の実を結ぶことができるのです。どんなに見えるものに頼っても、平安を得ることはありません。患難に出会うことは、つらいことですが、神との関係を築く良いチャンスです。自分が何を頼り、何を第一としているのを確認する良いチャンスとなるから、患難に出会ったら喜びなさいと神は教えておられます。
   パウロも、死にたいほどの患難に出会ったことを通して、弱さの中に神が働いてくださることに気づいたと証ししています。自分の弱さや罪に気づく時、神との関係を築くことができるのです。立派な行いをした時ではありません。
   このことに気づくなら、立派な行いができない自分を見て、ダメなクリスチャンだと落ち込んだり、自分は救われていないのではないかなどと思わせるサタンの罠に陥ることはなくなります。取税人のように、「神様、憐れんでください」と求めるならば、神との関係が築かれていくのです。これが義とされるということです。