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2014年月7月13日
敵との戦い4〜神の武具〜
(新約聖書 エペソ人への手紙 6:13〜)
『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:13)

   悪魔や悪霊の策略と戦うために、神の武具を身につけよと教えられています。神は、私たちが敵と戦うために、どのような武具を与えておられるのでしょうか。

『では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:14〜18)

・真理の帯

   悪霊と戦うための第一の武器が「真理」であるという事実からも、敵が用いる道具は「偽り」であることがわかります。偽りに対抗できる唯一のものが真理です。神を否定する偽りの情報と戦える武器は、聖書の言葉しかありません。
   つまり、「真理の帯」とは、御言葉の正しい理解を指します。しかし、御言葉の正しい理解といっても、それはとてつもなく多いものです。ですから、的を絞った御言葉の正しい理解が求められます。では、何に的を絞ればよいのでしょうか。


・正義の胸当て

   「正義の胸当て」とは、救い主なるキリストを信じるだけで「義」とされ、救われるという神の教えを指します。つまり、「救いの恵み」を受けるための教えです。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8,9)

   聖書は、イエス・キリストを信じる以外に救いはないと教えますが、この世はイエス様の十字架の贖いを否定する偽りの情報であふれています。パリサイ人やこの世の宗教は、救われるためには良い行いや徳を積むことが必要なのだと巧妙に思い込ませます。イエス様は、永遠のいのちを得るためには、「狭い門から入りなさい」と言われました。この世にあふれる情報に惑わされてはいけません。
   救いとは、神との関係の回復です。神のいのちによって造られ、神とつながって生きていた人間が、悪魔の嘘の情報によってその関係を断ち切られてしまいました。人は、幹から切り落とされた枝のような存在なのですが、神は、落ちた枝を拾い上げ、再び木につなぎ合わせたいと願い、御手を差し伸べておられます。その御手にすがるだけで、人は救われるのです。これが、信じれば救われるということです。私たちは、神が心に呼びかけられる声なき声に応答することで、永遠のいのちという神の気に接木され、神との関係を取り戻すことができるのです。これを第一の相続といいます。
   偽りの情報は、行いによって救われると教え、イエス・キリストに目を向けさせません。これに対抗するものが、「正義の胸当て」です。


・平和の福音の備え

   「平和の福音」の「平和」とは、神との「平和」を指します。「救いの恵み」を受けて救われた人が、さらに神に近づき、親しくなることを、神との「平和」を築くといいます。
   「救いの恵み」を受けた人は、神という永遠のいのちの木に接ぎ木された枝です。接ぎ木された枝は、多くの実を結ぶことができるようになりますが、接木してすぐに実をならすことができるわけではありません。枝が幹から養分を受け幹と一つとならなければ、実はならないように、神のいのちとつながっても、神とつながっていくことを邪魔する隔ての壁を取り除かなければ実はなりません。隔ての壁とは、幹からの養分を十分に流れなくさせている罪のことです。イエス・キリストは、隔ての壁を取り除くために十字架にかかってくださいました。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。/このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:14〜16,22)

『人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。』(新約聖書 エペソ人への手紙 3:19)

   神は、私たちを接木した後、放っておくのではなく、実を結ぶまで、私たちを育ててくださいます。救いとは、単に永遠のいのちを与えることではなく、神を信頼することによって、平安を得るまでの流れのことです。平安の実を結ぶのを邪魔している罪を取り除き、流れを良くし、枝が木と同じようになるようにしてくださるのです。これが平和の福音であり、神から受け継ぐ第二の相続と言われるものです。
   こうして、私たちは平安の実を結ぶことができるようになりました。クリスチャンになったら、御言葉を実行することで罪に気づくから、その罪を神に罪を取り除いてもらって神に近づきなさい、と聖書は教えています。ところが、偽りの情報は、クリスチャンになったのに罪を犯すなんてこんな自分は神に愛されないのではないかという恐れを抱かせ、良い行いをすれば神に喜ばれる、良い行いができるようにならなければ神に近づけないという偽りの情報を信じさせ、神の前に罪を差し出すことを妨げます。こうして神に近づけなくさせるのです。
   イエス様は、神の言葉よりも人の言葉を信じこの世の常識を信じてしまう罪を、この世の心づかい、富の惑わしと言われました。イエス様の弟子のペテロですら、人にどう思われるかを優先してイエス様の言葉を止めようとしたために、「下がれサタン、あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」と、忠告を受けています。
   人はそれぞれ御言葉を食べるのを邪魔する様々な思いを持っています。その罪に気づいて神に差し出し、取り除いていただくことで、神に近づくことができるのです。ここが惑わされると、罪を隠して、立派な行いで神に近づこうとする過ちを犯してしまいます。

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』(新約聖書 ルカの福音書 18:9〜14)

   確かにこのパリサイ人の行いは立派です。ところが、イエス様は、神に近づくことができるのは、パリサイ人ではなく、取税人のほうだと言われました。
   罪があると愛されないという恐れが、その罪を認めることを拒み、良い行いを頑張ることで救いを確認しようとし、さらに、自分が作った良い行いという律法で人をさばくようになってしまいます。偽りの情報に騙されると、自分では神に近づいているつもりでも、まったく近づいていないのです。
   イエス・キリストの十字架は、あなたの罪を取り除くための十字架です。罪がない人などいないのです。罪がないと言うなら、その人は自分を偽り者としていると聖書は教えています。罪を言い表すならば、赦されて罪を取り除かれ、神の愛がわかるようになっていきます。
   悪魔・悪霊の攻撃は、まず人を救われないようにすることですが、救われたクリスチャンに対しては、偽りの情報を流すことで、神に近づけないようにしてくるのです。その代表的な偽りの情報が、「罪があると神に愛されない」という思い込みです。ですから、私たちは、「平和の福音」の備えをしっかりと履いて、敵の惑わしと戦っていくのです。

・信仰の大盾

   悪いものが放つ火矢とは、私たちの中に恐れを持ち込むものです。悪口を言われること、否定されること、さばかれること、失敗、人と比較して嫉妬すること、これらはすべて火矢となって、私たちの心に恐れを持ち込みます。この恐れと戦う武器が、信仰の大盾です。「信仰の大盾」とは、「神への信頼」を指します。

『どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:23)

   神への信頼は、私たちに愛を教えます。神を見上げて信頼する時、初めて神の愛が見えるようになります。これが恐れに対抗できる武器なのです。

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9)

   信仰を通してこの愛が見えるようになるのです。自分はダメなものだという不安、愛されないという不安、これらの恐れがあるために、人は見えるものにしがみつき、上辺をよくすることで愛されようとします。これがこの世と調子を合わせるということです。しかも、この世と調子を合わせることで愛されようとすることがまた、私たちを苦しめる原因ともなっています。なぜなら、怒り、憎しみ、嫉妬など、すべての原因はここにあるからです。ですから、イエス様は恐れを締め出すために、十字架にかかったのです。全き愛だけが恐れを取り除くことができるからです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   平和の福音とは、神との平和を築くために、偽りの情報は、お前は立派だ、罪はないから大丈夫だと言って、これを妨げます。ですから神は、御言葉によって、罪に気づかせようとなさるのです。

『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:15)

   誰かを憎んだりさばいたりしたことがない人などいません。神の御言葉が、すべての人の罪を指摘し、すべての人を罪人に定めるのは、十字架の愛を知ってほしいからです。
   私たちが、正直な自分を神にさらけ出し、人を憎み、嫉妬し、さばく自分を助けてほしいと神に求めるとき、初めて私たちは自分が愛されていることを知るのです。このことを認めず、私は憎んでいない、嫉妬していない、さばいていないと、心をかたくなにするなら、神に愛されていることに気づかず、愛されていないという不安でこの世の愛にしがみつき、ますます心を神に向けなくなってしまうのです。
   自分の罪を正直に神の前にさらけ出すとき、私たちは言葉では言い尽くせない愛に包まれ、この愛が私たちの心の中の恐れを締め出します。これが信仰の大盾です。信仰の大盾は、心の中の敵意や憎しみをはねのけることができるものです。
   このように、戦うべき敵の実態は恐れです。恐れによって、偽りの情報に心を向け、受け入れてしまうのです。

・救いのかぶと

   「救い」という言葉には、広い意味と狭い意味があります。神との関係を回復して永遠のいのちを得るだけではなく、神とつながってその命を豊かなものとし、多くの実を結ぶようになる第二の相続までを含めてが「救い」だということです。つまり、救いのかぶとをしっかりとかぶるということは、この「救い」の意味を理解することであり、神はあなたの救いを取り消すことなどないのだから、滅ぼされることを恐れる必要はないと理解することです。
   実は、多くのクリスチャンが、死んだら本当に天国に行けるのか、自分は本当に救われているのだろうかという不安を抱えています。そして、この不安によって、聖書の言葉の意味がまったく別のものに理解されてしまうのです。あなたは、まだ救いが達成されていないのだから、もっと行いをがんばりなさいという意味に受け取ってしまうのです。
   神の言葉を食べ始めると、罪に気づくのは当たり前です。それは、自分の罪を知ることで、その罪を神に差し出して神の愛を知り、神への信頼を増し加えて平安を得るためです。しかし、神は、平安の実を結ぶまで責任をもってくださるのが救いだということを知らないと、自分の罪を知ることで逆に不安になり、自分は本当に救われているのだろうか、天国に行けるのだろうかと、偽りの情報に惑わされてしまうのです。

『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:10)

   イエス・キリストは、私たちにいのちを与えて、豊かにするために、この世に来られました。これが救いです。私たちが聖書のことばが実行できず、実がないのは当たり前です。それは、イエス・キリストがならすものだからです。この事を知らずに、恐れが増し加わると、偽りの情報に飛びつき、自分で自分の正しさを主張しようとして、行いに目を留めるようになります。

『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:28)

『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)

   神が接木した枝を折ることは、誰にもできません。私たちが神の言うことに従えなくても、神はその人をさばきません。ですから、安心して自分の弱さと向き合うことができます。安心して、神の愛を見ることができます。
   しかし、救いの理解があいまいだと、まったく逆の事態が起こってしまうのです。

『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:2)

   「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」と訳されています。そうすると、神に接ぎ木され救われても、罪を犯すなら救いは取り消されるという意味に理解されます。当然、そうした意味にこの箇所を読んだ人は、恐れを抱くようになり、自分は天国に行けるのかと、不安になります。しかし、イエス様は、ヨハネの福音書で繰り返し、一度接ぎ木し救った者を決して滅ぼすことはしないと言っておられます。神の救いは、救われた人が豊かな実を結ぶところまでを意味するからです。
   では、ここで「取り除き」と訳されている「アイロー」をどう理解したらよいのでしょう。通常この「アイロー」は、「持ち上げる」という意味で使われます。第一の意味が「持ち上げる」、第二が「かつぐ」、三番目は「負う・支える」の意味で、例外的に「取り除く(移動させる)」という意味を持っています。
   つまり、「救いのかぶと」をかぶり、イエス様が言われた「アイロー」という言葉の意味を考えるなら、このように理解することができるでしょう。「実を結ばない者は、神がその者を持ち上げ、その者を担ぎ、その者を負い、その者を支え、その者の罪を取り除く。」と。
   しかし、「救いのかぶと」をかぶらないで、「取り除き」という訳だけ見ると、神に接ぎ木され救われても、罪を犯すなら救いは取り消されるという意味に理解されてしまうのです。
   このように、救いのかぶとをかぶらないと、聖書の言葉を逆の意味に理解して、恐れ、神に近づくために、罪を言い表すことを避けるようになってしまいます。
   イエス・キリストは罪人を救うため、病人を癒すためにこの地上に来られました。救いという言葉には、本来「癒す」という意味があるのです。病人が病気だからといって、見捨てて切り捨てる医者があるでしょうか。医者というものは、病気だったら癒そうとするものです。もしあなたに罪がないなら、私は必要ないとイエス様ははっきりと語っておられます。あなたが罪を犯し続けるクリスチャンでも、神に見捨てられる恐れはまったくなく、むしろ神の愛を知るチャンスなのですから、救いのかぶとをしっかりかぶり、積極的に自分の罪を明らかにし、神に正直に差し出してみましょう。

・御霊の剣

   御霊とは、ともに住んでおられる神様で、私たちに神の言葉を思い起こさせてくださるお方です。敵と戦うための神の言葉は、助け主である御霊から受け取ります。そのためには、普段から御霊と交わることが必要なので、日々祈りなさいと教えられています。
   祈って御霊と交わることで、神があなたの心に御言葉を与え、思い起こさせ、悟らせ、戦わせ、守ってくださいます。

   このように、神が私たちに与えておられる武具とは、偽りの情報と恐れと戦うためのものです。すなわち、悪魔・悪霊の実体は「偽りの情報」と「恐れ」です。特に「恐れ」は、神の愛が見えなくなったところから発しており、神の愛が見えないことがあなたを苦しめている原因です。ですから、神の愛が見えるようになればなるほど、恐れが取り除かれ、平安になります。この愛を見えなくさせているのが罪です。罪とは、心が神に向かないことです。神に心を向けられず、人の言葉に心が向いてしまうために、神の愛が見えないのです。罪を取り除くと神の愛が見えるようになり、恐れから解放されて平安を手にすることができるのです。敵と戦うとは、どのようなことかを正しく理解して、正しく戦いましょう。