ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2014年月6月22日
悪魔の策略
(新約聖書 エペソ人への手紙 6:10〜)
『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:10〜12)

   日々の生活の中で、私たちは何と戦わなくてはならないのでしょうか。悪魔の策略とは、一体どのようなものなのでしょうか。今日、悪魔や悪霊に関して様々な解釈があり、いろいろな情報が出回っています。しかし、この世に出回る情報に惑わされることなく、聖書はどのように教えているのか、忠実に学んでいきましょう。

   悪魔の策略とは、人に罪を犯させ、人を神から引き離そうとするものです。そのために悪魔は偽りの情報を使います。それは、神が悪魔に立ち向かうために身につけるように教えている武具を見ればわかります。私たちの戦いは、偽りの情報との戦いです。
   イエス・キリストは、悪魔について次のように語っています。悪霊は、悪魔を手助けする立場にいますから、悪魔と悪霊は一心同体だと理解してかまいません。

『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理には立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:44)

   これは、罪を犯す者について語られた言葉です。この言葉から、罪は悪魔から出ており、悪魔は初めから悪魔として存在したことがわかります。つまり、悪魔は神が創造したものではありません。
   出版されている書物の中には、悪魔は、神が創造した御使いが堕落したものと解釈する説がありますが、その根拠となっているエゼキエル書やイザヤ書の御言葉は、実際の町で起こった罪について語ったものであり、これを悪魔の起源と考えるのは、近年の解釈の一つです。しかし、聖書を忠実に読む限り、悪魔は初めから偽り者であり、人を惑わすものだったと理解しなければ、矛盾が生じます。その偽りを言う悪魔がエバを惑わし、御使いを欺き、罪を犯させました。悪魔に欺かれ、悪霊の側についた御使いが悪霊の起源であることは、聖書に記されています。
   この御言葉は、悪魔は初めから存在したと教えていますが、人間には、「初め」という概念がわからないのです。なぜなら、それは人間の思考の限界を超えた概念だからです。猿や犬がいくら賢くても、人間の考えを理解することができないように、人間は神の全てを理解することができないのです。
   悪魔や悪霊について、様々なことを想像して恐怖をつのらせたり、何か悪い事が起きると「悪霊の働きだ、圧迫だ」と過敏に反応する人もいますが、今日、悪魔や悪霊は、人間に直接働きかけることはできません。それは、イエス・キリストの十字架によって、悪魔も悪霊も捕らえられ、捕虜にされている状態だからです(Uペテロの手紙およびユダの手紙参照)。

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:14)

   債務証書とは、私たちの借金すなわち罪のことです。キリストの十字架によって、債務証書は無効になり、私たちを罪人にした悪魔は捕えられたのです。悪魔と悪霊は、終わりの時に滅ぼされるために、現在捕虜となっているのです。 悪魔に対して聖書はこういっています。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14,15)


   イエス・キリストの十字架は、悪魔を滅ぼし、私たちを自由にするためのものです。悪霊と直接対決したのは、十字架が完了する前までの話です。福音書には、悪霊と直接対決したことが記されていますが、イエス様の昇天後、パウロやペテロが書いた手紙は、悪霊との対決にはまったく触れていません。十字架後は、旧約時代や福音書の時代とは異なり、悪魔と悪霊は捕虜の状態であり、直接働くことはできません。この時系列を理解しておかないと、誤った解釈に陥ってしまいます。

   では、悪魔は捕虜になり、直接働くことができないにもかかわらず、なぜ聖書は悪魔に立ち向かえと教えているのでしょうか。それは、私たちに罪を犯させるために悪魔が持ち込んだ武器が、今も働いているからなのです。それは今もウィルスのように働いて、人を病気にする力を持っています。ばら撒いた本人が逮捕され捕虜となっても、ウィルスがまだ生きているので、私たちはそのウィルスと戦わなくてはならないのです。
   戦争が、敵国の首相との直接対決ではなく相手の兵士が持つ武器との戦いであるように、悪魔との戦いは、いまだに攻撃を仕掛けてきている悪魔の武器との戦いなのです。人間を神から引き離すために、悪魔が用いた人間に罪を犯させる武器とは何でしょうか。

『罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:4)

『イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。』(新約聖書 マタイの福音書 22:37,38)

『イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:23)


   罪とは、律法に逆らうことであり、律法とは神を愛することに集約されます。そして、神を愛するとは、聖書の言葉を読み守ろうとすることなので、悪魔は私たちに罪を犯させるために、神の言葉を見えないようにふさぎます。それは、御言葉を別の意味に解釈させるということです。

   御言葉の解釈を間違えると、何を行っても神の言葉を守っていることにならず、神を愛していることになりません。そこで、悪魔は、偽りの情報を流し、神の言葉をふさぎ、正しい情報が心に入らないようにしようと考えました。これが悪魔の策略です。
   悪魔が最初に攻撃した相手はエバです。悪魔は蛇を通して嘘の情報を流し、神が「それを食べたら死ぬ。」と教えた木の実を、「食べても死なないし、食べると神のようになれるから、本当は神様も食べてほしいと望んでいるのだ。」と言葉巧みに語り、エバはそれが正しい情報だと信じてしまったのです。
   このように、悪魔は、偽りの情報を流して、神の言葉をふさぐということを確かに実行しています。イエス・キリストが宣教活動を開始する前にも、嘘の情報を流して信じさせようとする悪魔の攻撃がありました。

『さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々と栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。』(新約聖書 マタイの福音書 4:1〜11)


   悪魔は、人が欲しがりそうな嘘の情報を流します。空腹のイエス様に、パンがあれば幸せになれると思わせ、見えるものを求めさせようとしました。しかし、私たちが本当に幸せになれるのは、神の言葉を食べることによってです。イエス・キリストは、偽りの情報に対して御言葉をもって戦いました。
   次に悪魔は、聖書の言葉を使って、頂から飛び降りさせようとしましたが、イエス・キリストは、神を試みることはしないと言って拒否しました。もし、御言葉を正しく理解していなければ、だまされて罪を犯してしまいます。パリサイ人や律法学者は、神からいただいた律法を正しく理解しなかったために、救い主を十字架にかけて殺してしまいました。悪魔は、誤った解釈を持ちかけ、偽りの情報で御言葉をふさいで罪を犯させようとするのです。
   悪魔はついに、この世の全てをあげるから悪魔を拝むようにと言いました。悪魔の言葉には嘘の情報があふれています。礼拝に行くのをやめれば、有名になれるとか、お金がもうかるとか、人間関係がうまくいくとか、そんなものは、全部嘘の情報です。イエス・キリストは、この時も神の言葉で拒絶しました。

   このように、悪魔の攻撃パターンは、偽りの情報を流して、御言葉をふさぎ、罪を犯させることです。ですから、悪魔との戦いは、偽りの情報との戦いになります。なぜなら、悪魔も悪霊も、私たちの意思をコントロールすることはできないのです。それは、私たちの人格、意思というもの、選択する能力は、すべて魂に依存するからです。私たちの魂は、神の命で造られ、神の人格をいただいています。神はご自身に似せて人を造り、ご自身のいのちを私たちの中に吹き込み、人を神の一部としてお造りになりました。

   悪魔は、神の人格を操ることも、神の命に手を触れることもできません。ですから、私たちの魂が十字架によって神の命を回復したゆえに、悪魔は何もできないのです。悪魔が蛇や豚を操ることができたのは、動物は神の命を持っていないからです。
   つまり、悪魔は、嘘の情報を流して選択させようとする働きかけまでしかできません。私たちが、自らの意思でそれを選択するようにしているのです。そして人は、それを選択したら、自分で責任を負わなくてはならないのです。

   では、悪魔が、私たちに嘘の情報を信じさせるために使っている武器とは何でしょうか。それはいったいどのようなウィルスなのでしょうか。イエス様は、悪魔の武器についてあるたとえをお話になり、後にそれを詳しく解説しておられます。イエス様が解説を加えたたとえ話は多くなく、毒麦のたとえと種まきのたとえだけであり、この二つはともに悪魔について語った話であることは興味深いことです。

『種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩場に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。』(新約聖書 マルコの福音書 4:3〜8)

   このたとえ話について、イエス様は次のように説明なさいました。

『種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです―みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです―みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです―みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。』(新約聖書 マルコの福音書 4:14〜20)


   悪魔の働きは、御言葉を取り去ることです。神は、御言葉を蒔いて人間を正しい方向に導こうとしますから、悪魔は、その御言葉をふさぐことで、人間に罪を犯させようとします。そのために、悪魔は困難や迫害を利用します。確かに、福音を聞いてクリスチャンになりたいと思っても、家族や友達からの迫害を受けてやめる人が大勢います。
   困難や迫害が起きるのは、私たちの中に肉の思いがあるからです。肉の思いとは、この世の心遣いや、富の惑わし、いろいろな欲望だとありますが、つまり、家族や友達から良く思われたいために、イエス様を信じるのをやめてしまうのです。周りからどう思われるだろうか、神を第一にするよりもお金の方が幸せにしてくれるのではないだろうか、出世のためには教会に行く時間がもったいないのではないか、などという思いによって、御言葉の真理に立つことをやめてしまいます。
   悪魔は、このようにこの世の心遣いと富の惑わしという肉の思いを武器に使って、御言葉をふさいで食べさせないようにします。そして嘘の情報を食べさせ、罪を犯させるのです。
   このような肉の思いが私たちの中にあるのは、神との関係が壊れるという死が原因です。
   悪魔がエバを欺いた結果、人間に死が入り込み、死によって肉の思いが生まれました。つまり、悪魔がばら撒いたウィルスとは、死なのです。

   人はもともと神に似せて造られました。しかし、エバが悪魔にだまされて罪を犯したために、神との関係が壊れ、死が入り込みました。神との関係が断ち切られ、突然神の愛が見えなくなった人間は、不安や恐れでいっぱいになります。これが死の恐怖です。神との関係が断ち切られたことで、神の愛が見えなくなって不安になり、愛されないのは自分のせいだ、自分がいけないのだ、どうすれば愛されるだろうかと必死になります。神が見えなくなった人間がしがみつくものは、人の愛です。人によく思われるために世の心遣いにしばられるようになります。さらに、命である神との関係が壊れたために、人間は滅びるものとなり、肉体の死が入り込みました。この死の恐怖が、人間を見えるものにしっかりしがみつかせるようになりました。これが富の惑わしです。
   悪魔は、神との関係を断ち切るという死をばら蒔き、世の心遣いや富の惑わしという情報で御言葉をふさぎました。今も人は、いつ死ぬかわからない恐怖によって保険やお金にしがみつき、神との関係が見えなくなった不安から、人と結びついて人に愛されようと、本音を隠して嘘の自分を装って生きています。
   悪魔はこのように、死というウィルスをばら撒いて、嘘の情報に飛びつくシステムを作ったのです。ですから、悪魔が捕らえられても、私たちは嘘の情報と戦わなくてはいけないのです。今の時代、悪魔・悪霊と戦うとは、偽りの情報と戦うことなのです。

   偽りの情報と戦うことができる唯一の武器は聖書です。御言葉は過去も未来も変わらないものです。偽りの情報と戦うとは、惑わされないように真実を見極めていくことです。
   この世には、○○したら幸せになれるなどという情報がたくさんありますが、イエス・キリストを信じることで初めて真の幸せを手にすることができるのです。また、問題に立ち向かう時、神の言葉は、あなたの価値を教え、あなたを励まし、あなたに希望を与えますが、偽りの情報を信じると気落ちします。人からの情報を信じるのではなく、真理を見極め、偽りの情報と戦わなければなりません。