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2014年月6月1日
相続について
(新約聖書 エペソ人への手紙 5:1〜6)
『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:1)

   多くの人が、神に愛されていることに気づかず、神に愛される者になるためには何か頑張らなくてはいけないに違いないと考えます。しかし、神が行いに応じて人を愛するようなことはありません。神は最初から最高の愛であなたを愛しています。イエス・キリストが示された十字架の愛以上に愛を示すものはありません。

『また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:2〜4)

   神があなたを愛するように、愛のうちを歩みましょう。愛するとは、相手を裁かないで赦すことです。この心を持つために、言葉が自分をコントロールすることを知りましょう。否定的な言葉を語ると否定的な方向に向かい、肯定的な言葉・信仰を語ると心はそちらを向きます。つぶやかないで、感謝することが大切です。(先週のメッセージ参照)

『あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です、―こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:5)

   神は偶像礼拝を嫌いますから、偶像礼拝は、ユダヤ人にとって最もしてはいけない罪の一つです。パウロは、「偶像礼拝とは、偶像を作って拝むだけではなく、神以外のものを頼って安心しようとすることである」と、定義しました。これは、偶像礼拝を字義通り像を拝むことだけに限定して考えていたユダヤ人にとって、大きな衝撃でした。しかし、このパウロの定義こそ、偶像礼拝の本質をとらえたものです。
   私たちは、何事もすぐに外枠でとらえようとしますが、神は常にその本質を問題にされます。当時パリサイ人は、目に見える行いを問題にし、イエス様の弟子たちが安息日に食べ物を集めたと言ってはさばき、イエス様が安息日に病を癒したと言ってはさばきました。しかし、イエス様は、行いを問題にするのではなく、本質をわきまえるように厳しく教えました。パウロも、イエス様に倣い、偶像礼拝を行いではなく本質でとらえたのです。


・キリストと神との御国を相続するとは

   では、「偶像礼拝をする者は、キリストと神との御国を相続できない」とは、どういう意味でしょうか。救いは神の恵みであり、私たちの行いによって取り消されることはありませんから、天国に入れないという意味ではありません。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8,9)

   エペソ人への手紙の概略はこうです。神は私たちを神の子とする計画を持ち、そのためにイエス・キリストが十字架にかかって、神との関係を回復する恵みを用意してくださったこと、救いとは、私たちの行いに関係なく神が与えるものであり、取り消されることがないこと、救われた者は神にならう者となり、神とひとつになることを目指すようにということです。
   このような全体像を理解しないで、聖書の中の一部分だけを理解しようとすると、間違った解釈をしてしまう危険性がありますから、気をつけなければなりません。エペソ人への手紙全体を通して見ると、救われた私たちが目指す目標として次のことを教えられています。

『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:13)

   これが、「キリストと神との御国を相続する」ことです。私たちが神とひとつになり、神の愛に満ちた者となることを、聖書は、「神に近づく」とも表現します。神に近づくことによって、神への信頼を増し加えることができると、心に平安が増し加わります。つまり、「偶像礼拝をする者は、キリストと神との御国を相続できない」とは、神以外のものを頼ろうとする偶像礼拝者は、この平安を手にすることができないという意味なのです。

   このように考えると、私たちが神から相続するものは、2つあることがわかります。
   1つ目は、神との関係を回復するという相続です。神は、私たちの行いとは関係なく、信仰によって私たちを救ってくださり、神と関係を回復することを受け継がせてくださいます。
   2つ目が、「神に近づく」という相続です。「キリストと神の御国を相続する」「キリストとの共同相続」などとも言われます。キリストによって罪が取り除かれることで手にする相続だからです。「神に近づく」とは、神を信頼できるようになることです。「神に近づく」ことを相続し、神を信頼できるようになると、神からの平安を受け継ぐことができます。
   この平安を妨げるものが罪です。クリスチャンは神を愛したいと願っていますが、名誉やお金を愛することをなかなか手放せず、両方愛そうとしてしまいます。しかし、これを取り除かなければ、神に近づくことができません。そのために、罪が赦されるという恵みがあります。この恵みによって、神に近づき、平安を手にするという2つ目の相続を得ることができるのです。

・イエス・キリストの山上の垂訓より

『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:13,14)

   イエス・キリストが、初めて会衆に語った説教が「山上の垂訓」です。イエス・キリストのメッセージは、中身の詳細には触れず、全体の大枠を語るという特徴があります。そこで、後にパウロやペテロやヨハネが、その中身を具体的に解説しているのです。
   「山上の垂訓」の締めくくりで、イエス様は「狭い門から入りなさい」と言われました(マタイ5〜7章)。「私は門です」(ヨハネ10:9)と語られた通り、「狭い門」とは、キリストご自身を指します。イエス様を信じるという門を通過することで、私たちは救われ、いのちに至るのです。山上の垂訓のまとめの第一は、「イエス・キリストを信じて救いを得なさい。」ということです。つまり、1つ目の相続です。
   この箇所は、ルカの福音書では、「努力して狭い門から入りなさい」となっています。「努力」とは「戦う」という意味のギリシャ語が使われ、続く御言葉も様々な惑わしとの戦いについて述べられていることから、「誘惑や惑わしと戦ってイエス・キリストを信じなさい」という意味だとわかります。努力して良い行いを積むことで救わるという意味ではありません。

『わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』』(新約聖書 マタイの福音書 7:21〜23)

   では、神の御心を行う者しか天の御国に入れないとは、どういう意味でしょうか。この「天の御国」は、神に近づくという第2の相続を意味します。多くのクリスチャンが、自分は神様のためにこれだけのことをやったと言って、行いによって神に近づこうとしますが、イエス様はそんなことではまったく近づいていないと教えておられるのです。イエス・キリストを信じても、行いが悪ければ天国に入れないという意味ではありません。私たちが救いを受けたのは、神の恵みです。それなのに、努力や行いで神に近づくことはできません。

『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。』(新約聖書 マタイの福音書 7:24〜27)

   このたとえが、山上の垂訓の総仕上げです。イエス様は、多くの教えを語ったまとめとして、今聞いたことを実行しなさいと言われたのです。これが神に近づく唯一の道です。
   神の言葉を実行すれば神に近づくなら、結局、行いが必要だということになるのでしょうか。そんなことはありません。パウロが解説しているのは、このことです。

   それは、神の言葉にはからくりがあり、もし本気で御言葉を実行しようとすれば、絶対に実行できないことに気づくというものです。
   たとえば、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。(マタイ6:1)」という御言葉も「さばいてはいけません。さばかれないためです。(マタイ7:1)」という御言葉も、いざ実行しようとすると、とてもできないことがわかります。怒りから遠ざかりなさいと言われて、いったいどれくらい続くでしょうか。隣人を自分自身のように愛そうと決めて、いったいどれくらい続くでしょうか。ずっと続けるなどとても不可能です。このことに気づくこと、そこに神の意図があるのです。
   神の言葉に従えない自分が見えてくると、私たちは、神に助けを求めるしかありません。ここが重要です。「什一献金ができません」、「人を愛せません」、「伝道できません」と神の前に正直に告白し、「だから助けて!」と神に求めることが大切なのです。そうすると、十字架のまったき愛が見えてくるのです。
   パウロは、御言葉を実行できない自分を知り、自分の罪深さ、みじめさを思い知りました。もし、行いを基準にするならば、こんな自分は神に愛されないと思うものです。ところが、その弱さに気づいたとき、十字架の愛が見えたのです。
   イエス・キリストは、一度も罪人を責めたことがありません。イエス様は、ただその罪を赦してくださいました。御言葉に従えない自分の弱さに気づくと、この十字架の愛が見えてくるのです。自分の罪が赦されていることに気づき、神を愛したいという願いが起こります。この時、御霊の力が働いて、できなかった御言葉が少しずつできるようになります。こうして神に近づくことができるようになるのです。
   私たちが神に近づく唯一の道は、自分の行いや努力ではなく、弱さに気づいてあわれみを求めることです。これが、パウロが教えるからくりです。ところが、多くのクリスチャンが、救われた後、もとの価値基準に戻り、自分の罪、弱さを隠して、良い行いを頑張ったことを誇ろうとしますが、これではパリサイ人と同じです。
   つまり、神の御心を行う者が天の御国に入る(マタイ7:21)とは、神の御心を行うことで、自分の罪に気づき、罪が赦される恵みを通して神に近づくことができるという意味です。神に近づくとは、神を信頼し、愛する者になるということです。こうして、平安がもたらされることが2つ目の相続です。それは、自分の弱さに気づかない限り受け取ることは不可能です。
   病人が医者を信頼し愛するようになるのは、自分の病気に気づいた時です。健康な人は、医者を愛したり、信頼関係を結ぶほど近づいたりできません。「もし、自分に罪がないと言うなら、私とあなたは関係ない」とイエス様は言われました。御言葉を実行することによって、自分の罪という病気に気づくことが、神に近づく唯一の道なのです。
   このように、すでに救いを受けたクリスチャンに対して、天の御国に入れないとかキリストとの共同相続人になれない、などと言われる場合は、神との間に距離を置き、罪を差し出して赦しの恵みを受け取ろうとしていないために、神が与えたい平安をまだ受け取っていないということなのです。
   相続するものが2つあることを知らずに、これらの御言葉を読むと、意味を勘違いして、救われても行いが悪いと天国に行けないのだという間違った意味にとらえてしまうことがあるので注意が必要です。


・神の怒り

『むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:6)

   神の怒りと人の怒りはまったく違います。
   怒りとは、奪われたものを取り戻そうとする時の感情です。人は、ひとりひとりが持っている「○○であるべきだ」という律法に違反するものに出会うと、自分の価値が奪われたと感じて怒りを覚え、相手を自分の思い通りに行動させようという思いが働きます。これが人の怒りです。
   しかし、神の物差しは律法ではなく愛です。神は、愛する者が傷つく時に怒りを覚え、愛する者を傷つけている罪に対して怒り、その罪を取り除こうとします。「神の怒り」は「神の愛」と置き換えることもできます。

『ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15,16)

   人の怒りは律法による敵意です。神の怒りは、愛から発生する怒りであり、私たちを苦しめている罪と、罪をもたらす悪魔と、悪魔がもたらした死に対して向けられるものです。イエス・キリストは、この怒りによって、敵意を廃棄するために十字架にかかりました。

『このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 5:5)

   イエス・キリストが、罪を繰り返す者をサタンに引き渡すのは、彼の罪が取り除かれ、いのちが救われるためです。サタンに引き渡すとは、除名することですが、その目的は、悔い改めをうながし、いのちが回復されることなのです。

『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47,48)

   人間は皆霊的に死んでいる状態で生まれてくるため、天国に入れません。すでに死んでいますから、これ以上死を受けることもありません。私たちが受けることができるものは、救いしかありません。イエス・キリストは人を救いたいのです。もし、イエス・キリストの言葉を信じて救われなければ、さばかれたままの状態が続くだけで、天国に行くことはできません。そして、信じて救われたものは、罪を悔い改めて、神に近づき、平安という実を結ぶようにと主は言われます。

『わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:1,2)

   人が神に近づくと、平安という実を結びます。実を結ばない者に対しては、神はその罪を取り除き、実を結ぶようにされます。「取り除く」と訳されている「アイロー」というギリシャ語は、本来「支える・持ち上げる」という意味です。農夫はせっかく育てたぶどうの木が実を結ばないからといって切り倒したりせず、実を結ぶように枝を支え、持ち上げます。これが神の愛です。

『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:1)

   あなたは愛されている者です。あなたを苦しめているのは、あなたの中にある罪であり、神はそれを取り除きたいと願っておられます。イエス・キリストの十字架は、誰のための十字架だったのかを思い起こしましょう。それは、あなたのための十字架です。御言葉に従って罪に気づき、罪の赦しを受けて神に近づき、平安を受け取りましょう。