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2014年月5月18日
怒りについて
(新約聖書 エペソ人への手紙 4:14〜)
『それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:14,15)

   人は一人で成長したり、神の愛を学んだりすることはできません。人は人と交わることで成長します。人間が一人一人違うのは、愛を学ぶためです。キリストに達するとは、愛に達するということであり、私たちがお互いを補ってひとつになろうとすることによって、成長して神の愛を学ぶことができるのです。そのために様々な人が必要で、それぞれ異なった役割を持っています。役割の違いは、神が定めたものであり、人間の価値の違いではありません。

『そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:17)

   「むなしい心」とは、見えるものに価値を見出すことです。富や肩書きや美貌などは、いつか役に立たなくなる時が来ます。それなのに、人はそれらのものを手に入れれば平安になれると思って頑張ります。それがむなしい心です。いくらそんなものに頼っても、いつかは滅んでしまいます。

『彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:18)

   この世界では、製品があれば製造者がいると考えるのが当然です。ところが、人間は神によって造られ、神がおられることは被造物を通して明らかにされているにもかかわらず、むなしいものを追い求める心によって、人は神を認めようとしません。それが「無知」です。    自分はどこにいるのか、どこから来たのか、どこに向かっているのか、人は知っているようで何も知りません。宇宙がどのようにできたのか、人間はなぜ生まれたのか等について、人は様々な理論を考え出してきましたが、完全な理論は存在せず、矛盾を追求しては、新たな矛盾が生まれることを繰り返しています。それでもなお、神の存在を無視し続け、受け入れようとしないのが、「かたくなな心」です。

『道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:19〜21)

   自分が何もわかっていないということを認めない結果、人は快楽に身を任せるしかなくなってしまいました。何もわかっていないことを認めないことはストレスが溜まります。このストレスを発散させ、不安を転嫁して紛らわせるために、人間は様々な娯楽や快楽に目を向けるようになったということです。    娯楽や快楽は一時的には楽しいものですが、そこに永遠の喜びや平安はありませんから、ストレスや不安を繰り返し、むなしさを消すことはできません。では、私たちはいったい何に目を向けなければいけないのでしょうか。

『その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:22)

   古い人とは、古い生き方のことです。神の真の愛に気づく前の私たちは、自分の快楽を求め、人を愛せない生き方をしていました。この生き方を脱ぎ捨てるとは、うわべを変えることではなく、心の中の原因を取り除くことです。
   つまり、クリスチャンだから良い行いをしなければならないと考えるのは間違っています。私たちが人を愛せない原因は、自分の心の中にある敵意です。『敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法』(エペソ2:15)のことです。この律法こそが、「古い人」の正体です。自分の中にある「ねばならない」という思い込みによって、人を愛することができなくなり、自分の心を怒りや快楽に向けさせているのです。
   たとえば、この社会には、成績に応じて報酬を与えるというシステムがあり、「成績が良くなければならない」という律法があります。ノルマや基準を達成すれば評価され、達成しなければ、評価が下がったり、叱責されたりします。すると心の中に、悔しさ、腹立ち、落ち込みなどの敵意が生まれます。
   また、自分自身も人を見るときに「○○でなければならない」「○○であるべきだ」という律法を持っているので、それに違反する人を見ると腹立ちを覚えます。
   このような不満が、日常的に私たちの中にあり、私たちに罪を犯させているのです。
   私たちが学ぶべきものは、キリストの愛です。ところが、律法が敵意を生み出し、それを邪魔します。律法を捨てない限り、私たちは人を欺いたり腹を立てたりすることを繰り返してしまいます。律法による物の見方こそ、「古い人」の正体であり、この物の見方を変えない限り、キリストの愛に到達することができません。

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16,17)

   大切なことは、行いという外見を変えることではなく、内側を変えることです。それに気づかなければ、間違った方向を目指すクリスチャンになってしまいます。物の見方を変えると、それに伴って、人を愛せるようになり、行いも変わってきます。

『またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:23,24)

   物の見方を変えるためには、私たちの心の内に住んでおられる聖霊様によって新しくされ、古い人を脱ぎ捨てて、新しい物の見方を身につけるように教えられています。つまり、神の愛と力によって神の愛を知り、律法というメガネを外すのです。
   聖書は、この律法のメガネのことを、「顔の覆い」とも呼んでいます。(Uコリント3:16)神の言葉がわからなくなり、人に対する理解を間違えさせているのは、覆いのせいであり、これを取り除けさえすれば、人は神に似せて造られた本来の姿に戻ることができ、互いに愛することができるようになるのです。この覆いが罪であり、神はこれを取り除くためにこの世に来られたのです。
   人間の中にもともと愛があることは、日常生活でも知ることが出来ます。いざという時、自分の危険を顧みずに、見ず知らずの人のいのちを助けようという行動を取ってしまうのは、進化論や自己防衛本能では説明できません。それは、人は本来、神によって人を愛するように造られたものだからであり、今、互いを愛することができないのは、律法のメガネに塞がれて愛が機能していないからなのです。

『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:25)

   体は互いにだまし合う関係ではなく、いたわりあう関係です。私たちはキリストのからだとしてひとつにつながっている関係ですから、お互いに真実を語らなければなりません。

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:26)

   この御言葉は、怒りと罪は別物だと言っているのではありません。怒りは、罪の行為を引き起こすものだから、怒って互いにさばきあったり傷つけ合ったりしないように警戒しなさいと教えているのです。


・怒りとは何か

   怒りとは、自分の価値が奪われたと感じたとき、その価値を取り戻そうとする感情です。表現を変えると、つらいと感じたとき、つらさを補おうとする感情のことです。
   私たちは、どんな時につらいと感じるでしょうか。それは、自分の価値が否定された時です。
   人間はもともと神のいのちによって造られた価値ある存在です。その価値を否定されると、事実とは異なるのでつらさを感じ、もとに戻そうとする感情が働きます。ちょうど、間違ったものを食べると、体がもとに戻ろうとして、吐いたり下痢をしたりして、つらくなるのと似ています。
   私たちの価値を奪うものは、律法というものさしです。律法のものさしは、正しい価値をはかるものではありません。間違ったものを食べるとお腹が痛くなるように、間違った価値を食べると魂は怒りを感じます。
   人は、律法というものさしで価値を奪われると、律法でその価値を取り戻そうとしてしまいます。さらに、自分の価値を奪った相手に敵意を抱きます。これが人間の怒りのパターンです。
   律法で価値を取り戻そうとすることも、人に敵意を抱くことも、間違った思いであり、心が神に向いていません。仕返しをしよう、見返してやろうという思いは、見えるものに心がしがみついている状態です。このように心が神に向いていない状態を罪と言い、心を神に向けさせないものの中で一番強い力を持っているものが怒りなのです。怒りを発生させないためには、律法のメガネを取り外さなければなりません。


・神の怒りは罪ではないのか

   神の怒りは、人の怒りとは根本的に異なるものです。
   怒りとは、価値を奪われたと感じた時に価値を取り戻そうとする感情であり、つらさを補おうとする感情です。これ自体は間違いではありませんが、人は、律法を使って価値を取り戻そうとし、人に敵意を持つために罪になってしまうのです。しかし、神は律法のメガネを持っておらず、愛しか持っておられません。まずこの点が人と異なる点です。
   そして、神が「価値が奪われた」「つらい」と感じるのは、ご自分の体の一部である私たちが苦しんでいる時です。もし体の一部がケガをしてうまく機能しないとき、自分自身に対して、なまけものだから罰を与えようとするでしょうか。そうではなく、すべての部分が痛みを感じ、怪我をした部分を補って、痛みを軽減させようとするものです。これが愛です。つまり、人が苦しむとき、神ご自身が痛みを覚えて、なんとか元に戻そうとされるのが、「神の怒り」なのです。

『それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:25〜27)

   神は、私たちの苦しみの原因が、罪にあることをご存知でした。罪という間違った価値観によってあなたが苦しむ時、神は共に苦しみ、つらさを感じておられます。それゆえ、神は人に罰を与えたりはせず、人を苦しめる罪を取り除き、元の状態に戻そうとされるのです。これが神の怒りです。

『彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自分の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。』(旧約聖書 イザヤ書 63:9)

   この苦しみこそ神の怒りであり、神は、私たちをもとの状態に贖い助け出すために、この世に来られました。私たちを苦しめている罪と、それをもたらした死と、死をもたらした悪魔とを滅ぼすために、イエス・キリストは十字架にかかられたのです。神の怒りとは、罪に対して向けられた怒りです。
   このことがわかると、旧約聖書の神が理解できます。自分の経験の感覚で聖書を理解しようとすると、旧約の神は怖い神で、新約の神は優しい神だなどというとんでもない間違いを犯してしまいます。そうではなく、神は、旧約の時代も新約の時代もまったく同じように、人間の罪を取り除こうとしておられるのです。
    エジプトを脱出したイスラエルが、彼らの罪のために40年間も荒野をさまよったのは、神が彼らの罪を怒って荒野で訓練したのではなく、40年の間に、罪を赦す祭司のシステムを用意し、彼らの罪を取り除こうとされたのです。

『これらの一つについて咎を覚えるときは、犯した罪を告白しなさい。自分が犯した罪のために、償いとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。・・・祭司はその人のために、その人が犯したこれらの一つの罪の贖いをしなさい。その人は赦される。』(旧約聖書 レビ記 5:5〜13)

   これは、罪を取り除くイエス・キリストの十字架の雛形でもあります。動物ではなく、神ご自身がいけにえとなって、罪をあがなってくださいました。ここに神の愛があるのです。神の怒りは人の怒りとはまったく違うもので、私たちを助け出す愛なのです。
   神は私たちを愛して罪に怒りを覚え、私たちに住み着いた罪を取り除きたいと願っておられます。これが福音です。
   人の怒りと神の怒りは違うことを正しく理解しましょう。神は、人に対して怒るのではなく、人を苦しめる罪に対して怒ります。神がこの世に来られたのは、さばくためでなく救うためです。あなたが苦しむときに、神はつらさを感じます。これが神の怒りであることを忘れないでください。