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2014年5月4日
『パウロの祈り』
(新約聖書 エペソ人への手紙 3章12節)
『私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 3:12)

   神は、私たちを神の子とする計画を、世界の初めから持っておられました。そこで神は、私たちに信仰を与えてくださり、私たちは、神からいただいた信仰によって、キリストを信じて救われました(エペソ2:8)。そして、その信仰は、救いの恵みにとどまらず、大胆に神に近づくことができるものなのです。


・大胆に神に近づくとはどういうことか

『信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1〜3)

   神に近づくとは、神が信頼できるようになるということです。神の約束の言葉が信頼できるようになり、祈った瞬間、すでにこの祈りはかなえられたと確信を持てる信仰を持つことです。

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:6)

   神に近づくとは、まず神がおられることを信じ、そして、神を信頼できるように進むことです。このことを知らずに、救われたことに満足して、そこにとどまってしまうとしたら、実に残念なことです。ですから私たちは、信仰を使って神を信頼できるように、まずは祈りからスタートしましょう。そして、神から確信をいただいてものごとを進めていきましょう。

『ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 3:13)

   パウロはもともとユダヤ人でありながらローマ市民権を持つ特権階級にありました。初めはその特権を生かして伝道活動をしていましたが、次第にローマ帝国のキリスト教への迫害が激しくなり、ついにパウロも捕らえられて牢獄に繋がれてしまいます。
   この苦難に対して落胆しないように、なぜなら、この苦難はあなたがたに対する素晴らしい神の恵みをもたらすものとなるから、とパウロは語っているのです。
   「患難は神の恵みをもたらすものである」と、聖書は一貫して教えています。
   当時、パウロが閉じ込められ、伝道できなくなったことは、人々にとっては落胆すべきことでした。しかし、もしもパウロが捕らえられることなく、自由に伝道することができていたなら、おそらく手紙を書く余裕はほとんどなかったことでしょう。しかし、牢獄で祈る時間を与えられ、神から学び教えられたことを手紙で伝えるようになったために、パウロのメッセージが文字で残り、それが今日の聖書の土台となりました。パウロが受けた患難によって、神の言葉が文字として残ったという素晴らしい栄光に変わったのです。
   ここに神の計り知れない知恵と思いがあります。人の目には患難に見えることも、神の素晴らしい栄光に変えられるのです。
   イエス・キリストは十字架にかかる前、次のように言われました。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。21 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:20〜22)

   イエス様は十字架に掛かる前に、これからあなたがたにとって患難があるが、一時的に悲しみに襲われても、それは喜びに変わると言われました。そして、その通り、イエス様が十字架で死なれた時、弟子たちは言葉では言い尽くせないほどの辛さを味わいましたが、イエス様の復活を通して、十字架の死は大きな喜びに変わりました。
   私たちの人生も、これとまったく同じことが言えます。私たちが辛いことに出会う時、その先には必ず神が用意しておられる素晴らしい喜び、祝福があります。つらいことに出会っても落胆することなく、その先にある喜びに目を留めましょう。


・神は患難をどのような祝福に変えるのか

   私たちは、安心を得たいと願って、いろいろなものにしがみついて生きています。患難とは、これらのしがみついているものが、役に立たなくなる状態のことです。
   たとえば、職場で左遷される、財産を失う、健康を害する、陰口を言われる等でつらいのは、今までそれらのものに頼って安心していたことを表しています。仕事で出世する、お金に不自由しない、健康、人に良く思われること等で、安心を得ていたのに、それがなくなってしまったので不安やつらさを感じるわけです。
   当時の弟子たちも、イエス様を失ってつらさを感じていたわけですが、正確には、弟子たちはイエス様ご自身にしがみついていたのではなく、イエス様にしがみつくことで自分の評判を得ようとしていました。これを聖書では罪と言います。
   人はそれぞれしがみついているものは異なりますが、それが自分の安心に役立たなくなった時、一様につらさを感じます。これが患難です。
   誤解しないでほしいことは、神が患難を作るのではないということです。失敗や予期せぬ出来事は、神が故意にそうさせているのではありません。人間が生きていく中で、患難は避けて通れないものです。むしろ、神はそれをチャンスに変えて下さるのです。
   人は患難に出会うと、解決しよう脱出しようと必死にもがくものです。その中で、自分の弱さに気づき、神が差し伸べておられる手に気づいて神にしがみつくことができるなら、誠の平安に気づくことができるのです。
   弟子たちは、イエス様の評判に頼って生きていました。その評判が失われて不安に陥った彼らは、その中で自分の弱さに気づき、イエス様が手を差し伸べてくださった時に、しっかりとそれをつかみ、今度は人からの評判とは関係なくイエス様ご自身とつながりました。
   神が患難を喜びに変えるとは、人や物にしがみついて平安を得ていた私たちが、そこから手を離し、神にしがみつくように変えることです。人は、神からの平安を手にすると、今までの苦しみを忘れてしまいます。神からの平安は、今まのでものと全く違う素晴らしい平安だからです。その平安に私たちが気づくことが、神にとっての栄光なのです。

『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:27)

   世が与える平安とは、見えるものに頼る平安です。しかし、神が与える平安は、神ご自身と結びつくことで得られる平安です。これは、患難に出会った後に与えられます。患難は神の栄光を知るチャンスです。罪から離れて、髪としっかり結びつくチャンスです。これが、聖書の一貫した法則です。


・パウロの祈り

『こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにおり、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。』(新約聖書 エペソ人への手紙 3:14〜21)

   パウロが人々のために日々祈っていたことは、次のようなことです。

1.御霊によって内なる人を強くしてくださいますように(16節)

   内なる人とは、私たちの魂のことです。神は、ちりで人の体を造り、神のいのちを吹き込んで魂をお造りになりました。私たちは神のいのちによって造られた魂を、見えるもので強くしようとして、肩書きや富などさまざまなもので自分を立派に見せようとしますが、そんなもので魂は強くなりませんから、心の虚しさは消えません。そのような生き方をやめて、御霊によって強くされる生き方になってほしいというのが、パウロの最初の祈りです。
   ダビデ王の息子ソロモンは、イスラエルを大帝国に築き上げ、この世の富・権力・名誉すべてを手に入れました。ところが、栄華の絶頂にあったその時、彼は、「空の空」「すべては虚しい」と言ったのです。彼が得たものは、魂に対して何の役にも立たないものだったのです。ソロモンが神に教えられたことは、旧約聖書の箴言と伝道者の書に記されています。
   植物に水を与えず、いくら他の物をあげても強くなりません。同様に、神のいのちで造られている私たちの魂は、神のいのちと関わりを持たない限り、強くならないのです。それなのに人は、神の言葉ではなく、見えるものを魂に食べさせ、安心させようとしています。そんなものは、一時的に満足したと思っても、また虚しくなります。お金がないのは不安だと言ってお金を得ても、稼げば稼ぐほど、もっとお金が欲しくなります。
   そのようなものを求めて自分を安心させようとするのではなく、神と交わることによって強くなって欲しいというのが、パウロの第一の祈りです。

2.信仰によってキリストが住んでくださいますように(17節)

   ヨハネの福音書の冒頭に、「初めに言葉があった。言葉は神であった。」とある通り、神はご自身を言葉と表しておられます。信仰によって神がその人の内に住むとは、その人が神の言葉を信じて食べることを表します。
   私たちの魂の糧は御言葉です。人は神の言葉を食べて生きるように造られ、それによって、魂は強くなるのです。
   神の言葉ではなく、人の言葉を食べて生きるのは幼子です。パウロは、私たちがそこから成長して、神の言葉を信じて食べられるように祈っています。
   自分がつらくなった時、何をしているか考えてみてください。人の励ましを求めてはいないでしょうか。人の言葉を求めることをやめ、聖書を読んで祈り、神の言葉で励まされて力をもらいましょう。人は神の言葉で強くなるのです。

3.人知を越えたキリストの愛を知ることができますように(17〜19節)

   私たちのつらさの根本的な原因は、魂が神との結びつきを失って、自分は愛されていないという不安を抱いていることにあります。この不安は恐れとなり、それを解消するために、私たちは人に愛を求めるようになりました。
   人に愛されたいと願うのは、愛されていないと思っているからです。人間は神のいのちによって造られ、神と一つに結ばれて生きるものとして造られましたが、罪によってこの結びつきを失ってしまいました。愛である神と分離した人間は、自分は愛されない、自分はダメだと思うようになり、人からの愛によってその思いを否定しようとしているのです。自分は愛されない、ダメなものだという肉の思いは、神が与えたのものではなく、死がもたらしたものです。
   しかし、どんなに人に愛を求めても、完全な愛を与えることはできません。この問題を解決するには、神に愛されていることに気づくしかないのです。人の愛を獲得しても、全く魂には響きません。神の愛は、私たちを愛する愛です。イエス様は、私たちのために十字架にかかってくださいました。十字架は、あなたの価値を表すものであり、あなたの素晴らしさを示すものです。神ご自身があなたのためにいのちを捨てるとは、この宇宙を造った方がいのちを捨てても惜しくないだけの価値があなたにあることを教えているのです。
   キリストの愛を知ることこそが問題の解決です。これ以外に解決の方法は存在しません。
   その愛を知るために、神は私たちに、自分の罪を言い表すように教えておられます。神はその罪を赦し、私たちがどんなに罪深い生き方をしていようとも帳消しにすると言っておられます。罪を言い表せば言い表すほど、神の慰め、愛を知ることができます。

4.神の身丈にまで満たされますように(19節)

   さらにパウロは、ただ神の愛を知るだけでなく、その愛に満たされるように祈っています。罪を言い表し、神に愛されていることを知り、平安を得ることができると、神のように人を愛せるようになります。これが、すべての問題の解決につながります。

5.私たちの願うところや思うところをはるかに越えた神に栄光がありますように(20,21章)

   神は私たちの思いをはるかに超えて施すことのできる方です。神が人間よりも優れた思いを持ち、豊かなのは当然のことです。ならば、私たちはすべてのことを神にゆだねるべきです。
   ゆだねるとは、自分自身で何もしないということではありません。自分自身の願い事を神に聞いていただき、実際に進むべき道・脱出の道は神にお任せするのです。神は人間よりも優れたお方ですから、あなたの進むべき道について、あなた自身よりも優れた道をご存知です。

『人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。』(旧約聖書 箴言 16:1〜3)

   自分が描くその道がいいのか悪いのか、神にゆだねて祈りましょう。神にゆだねることのできない人は、祈っても自分の思い通りに進まないとつぶやいてしまいます。神に祈ったのにどうしてうまくいかないのか、と考えるのではなく、神に祈ってゆだねたからうまくいかなかったのだと考えるべきです。あなた自身が描いている計画よりも、もっと良い計画を神は知っておられるので、あなたの計画を止めてくださったのです。ですから、うまくいかないということは、本当に感謝なことなのです。
   「私はこう考えますけど、あなたに委ねます。考えて努力して進みますが、結果はあなたにゆだねます。」ゆだねるとはそういうことです。
   また、計画がうまく進まないだけでなく、心に平安がなくなるというのも、神が止めておられるサインです。感謝して別の道を求めてみましょう。主は私たちを導いてくださいます。