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2014年月4月13日
『宮を建て上げる』
(新約聖書 エペソ人への手紙 2章17節〜)
   私たちと神とを結びつけるものは、知識や経験ではなく、私たち自身の弱さです。知識や経験でつながろうとするならば、経験を超えたことに出会うと、つぶやいてしまいます。しかし、神なしでは生きられないという自分の弱さに気づくなら、それは知識を超えたものとなり、神へのつぶやきがなくなります。弱さは恥ではなく、神と私たちを結びつける重要な宝です。

『それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:17〜22)

   イエス・キリストは、十字架で「隔ての壁」を取り除き、神と私たちがひとつになれるようにしてくださいました。それが「平和」です。「隔ての壁」とは、実際的には「敵意」です。敵意が、私たちと神との隔てとなり、人との隔てとなっていまましたが、キリストによってこの壁が取り除かれ、私たちは、お互いに愛し合うことができるようになりました。神のご計画は、私たちを神の家族としてひとつにし、神の宮として建て上げることです。

『神の宮として立て上げられていくキリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:16)

   神はひとりひとりに目的があって、人を造りました。あなたは何のために生きているのか、その目的を見出しているでしょうか。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:10)

   私たちは、ひとりひとりが神の作品です。作品は、一つ一つ目的があり、一つ一つ違うものです。それは、顔かたちだけでなく、それぞれの性質も働きも違うということです。神はあらかじめ目的をもってひとりひとりにそれらを備えておられます。神の宮を建てるとは、あなたが何のために生まれたのかを明確にするということです。

『確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官からなっています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。・・・神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。・・・こういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。・・・それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:14〜27抜粋)

   私たちの能力や顔かたちが異なるのは、神がそれぞれ必要な器官として造ったからです。それなのに、人は、神の計画を無視して、お互いを比較して価値を決めようとしがちです。
   イエス様は、エルサレムに入城されるとき、馬ではなく、誰も乗ったことのないろばに乗られました。誰も乗ったことがないろばとは、誰も見向きもしないようなろば、役に立たないと思われていたものという意味です。しかし、見劣りして、自分はダメだと思っているものほど、神から見ると必要なものなのです。 神は、ひとりひとりを大切に思い、賜物を備えてお造りになりました。あなたのキリストの体の働きは何でしょうか。それを自覚して実行できるように導くことが、神の宮を建て上げるということです。
   聖書に登場するマルタとマリヤという姉妹も、イエス様との関わりを通して、自分の役割に気づいていきます。マルタはイエス様のために食事を整え、マリヤは、イエス様が十字架にかかる前、埋葬の準備に香油を塗りました。この働きに優劣はありません。このような一人一人の働きが積み上げられて、キリストの体として働きをなしていくのです。

   神はどのように私たちを建て上げられるのか、ペテロの例から学んでいきましょう。


・神はどのようにペテロを神の宮として建て上げたのか

1.神との関係を回復する(救い)

『ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。』(新約聖書 マルコの福音書 1:16〜18)

   シモンとはペテロの本名です。この時、先に声をかけたのは、イエス様のほうからでした。神を知らずにいた私たちは、神の側から声をかけていただかなければ、神を知ることはできません。もし、ある人物を知識として知っていても、出会った時にそのことを明らかにしてもらわなければ、その人物に気づかないのと同じです。私たちが神を知るためには、神に声をかけていただかなければならないのです。神が関係を回復してくださること、これが救いです。

2.隔ての壁に気づかせる

   せっかく神を知っても、罪が隔ての壁となって、神との結びつきを邪魔し、平安を妨げます。世の中の楽しみを握り締めたまま、富にも使え、神にも仕えることはできないと、主は言われました。この壁に気づかせることが、重要なポイントです。

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   種まきのたとえは、神と私たちの間の隔ての壁を、「いばら」と表しています。その正体は、この世の心づかいと富の惑わしです。
   通常、相手に対する気遣いは良いものです。しかしそれが、相手のためではなく、自分が人から良く思われるためにやっているなら、それは、神との隔ての壁となって、御言葉を食べる邪魔をします。それが世の心づかいです。もし、本当に相手のために行うならば、相手が自分の望む反応をしてくれなくても腹は立ちません。自分の行いが人に良く思われないと気分が悪いのは、世の心づかいという間違った動機によるものだからです。
   神は、私たちを成長させ、神の宮を建て上げるために、罪に気づかせるという作業をなさいます。イエス様は、ペテロに対してどのようになさったでしょうか。

『その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(新約聖書 マタイの福音書 16:21〜23)

   イエス様が、自分は十字架にかかって死に、3日目によみがえるという話を始めた時、ペテロはそれを止めました。人間的な感覚では、突拍子もないことを話し始めた主人をかばう美しい行為に思えます。しかし、イエス様は「あなたは、神のことを思わないで、人のことを思っている」と指摘なさいました。
   これが、御言葉をふさぐ世の心づかいです。「こんなこと言ったら人に馬鹿にされる。」「イエス様が馬鹿にされたら、自分はどう思われるか、恥ずかしい。」そんなペテロの気持ちを、イエス様は見抜いたのです。
   主は、私たちが罪に気づくために、御言葉を実行するように教えています。神の御言葉に従うと、自分の世の心づかいに気づかされます。御言葉は、「神を愛し、人を愛すること」に集約され、具体的には、福音を伝えることにつながります。ところが、実際にこれを実行しようとすると、神を愛する以上に人のことを思ってしまう自分に気づくものです。
   人からよく思われたいという思いが優先するために、クリスチャンであることすら言い出せない人もいます。福音を語ろうとしても、相手が喜ぶようなことしか言えず、福音の確信が語れない自分に気づきます。それは、神の愛ではなく、人から愛されようとしてしまうことが問題なのです。

3.罪を取り除く【隔ての壁を壊す】

『彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。』(新約聖書 ルカの福音書 22:54〜62)

   それまで、人々にほめたたえられていたイエス様が、ペテロの目の前で突然兵士に捕らえられ、連行されていきました。ペテロにとって、予想もしなかったつらい出来事です。どうすればいいかわからず、とりあえず遠く離れてついて行きましたが、人々からイエスの弟子だと指摘されると、あわてて否定してしまいます。自分が弟子だとわかると何をされるか身の危険を感じたからです。人々に愛されたいという思いがこう言わせたのです。
   ペテロはかつて、イエス様のために命を捨てると言った男です。ところが、いざ患難にぶつかると、即座にイエス様を否定しました。この時のペテロの心境は、どのようなものだったでしょうか。情けない思いでいっぱいだったことでしょう。
   私たちも、礼拝で主を賛美し信仰を告白しても、いざ日常生活で人に福音を語ろうとした時、人によく思われたいという世の心づかいにかられ、自分の情けなさ、罪深さに気づくことがあるでしょう。
   ペテロは患難を通して、自分の罪に気づきました。その時、主が振り向いて、ペテロを見つめたのです。主はどのような目で、ペテロを見つめたのでしょうか。イエス・キリストは、ペテロを見つめることで、「それでも私はあなたを愛している」というメッセージを伝えられました。これが、彼の中の罪を取り除く手術だったのです。ペテロが激しく泣いたのは、イエス様に愛されていることを知ったからです。イエス様はペテロの弱さを見て、責めるのではなく、私はあなたを愛していると教えてくれたのです。
   私たちは、自分の弱さに気づき、初めて神の愛を知り、神と結びつくことができます。自分の弱さに気づく最もよいチャンスが患難です。ですから聖書は、患難を喜び、患難から逃げるなと教えているのです。

   人は、神のいのちの息によって生き物となり、神との関わりがなければ生きられないように造られました。しかし、この関わりが悪魔によって断ち切られてしまい、神なしでは生きられない弱さによる不安を、神ではなく見えるものにしがみつくことでごまかし、人からの愛という鎧に隠して生きてきました。しかし、患難によってこの鎧が役に立たなくなり、弱さを目の当たりにするとき、人は砕かれ、神と結びつくことができるのです。
   自分の弱さを目の当たりにしたペテロは、初めて自分は本当に愛されていることに気づきました。ペテロは、3年間の訓練によって、イエス様に対する知識は誰よりも持っていましたが、しっかり結びついていなかったために、裏切ってしまいました。ところが、弱さによって主と結びついてからのペテロは、イエス様を裏切る行動はとっておらず、むしろイエスを大々的に伝道し、最後は十字架にかかって殺されたと言われています。
   私たちの弱さは神と結びつくためにあるのです。それを、別のものに結びつけてしまっていることが、罪です。この世の心づかいです。罪をさらけ出す時、主はそれを受け入れてくださいます。

4.成すべき事を示す

『彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 21:15)

   イエス様は復活した後、かつて「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と指摘したペテロに「あなたは人のことを思うよりも神のことを愛するか」と聞きました。この時、弱さによってしっかり神に結びついたペテロは、はっきり「はい」と答えました。
   すると、イエス様は、「私の小羊を飼いなさい」と、ペテロがなすべきことを明確に示しました。キリストの体の器官としての役割を示すこと、これが、神の宮として組み合わされ、建て上げられるということです。
   イエス・キリストは、私たちを愛し、隔ての壁を取り除いて、ひとりひとりに神があなたを造った目的を明確にして、神の宮を建て上げたいと願っておられます。ひとりひとりの働きは違いますが、重要なことは、神によって自分のなすべきことに気づかされるということです。自分が何のために造られたのかを知るには、まず自分の弱さに気づき、弱さを通して神に結びつくことです。弱さは神に結びつくためにあります。他の物で自分を守ろうとすることをやめましょう。その時、神はあなたに願いを起こさせ、実現に至らせます。こうして、神の宮が建て上げられていくのです。