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2014年月4月6日
『隔ての壁を打ち壊す』
(新約聖書 エペソ人への手紙 2章11節〜)
『ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:11〜13)

   生まれながらにクリスチャンの人は一人もいません。かつて神を信じる民族はユダヤ人だけで、神を信じない人々は、異邦人と呼ばれました。私たちも、かつてはクリスチャンではなく、異邦人だったのです。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちは神との関係を回復していただきました。このことを「救い」と言います。人が救われるのは、その人の行いによるのではありません。十字架の贖いがなければ、人は救われません。
   造り主なる神を信じない多くの人々は、進化論を信じ、この世界は偶然が重なって進化し、現在にいたっていると考えます。しかし、進化論に立って物事を見ると、将来何が起こるかは偶然によるものであり、死んだらどうなるのか望みもありません。しかし、この世は神によって造られたという前提に立つと、人生には希望があります。人間には造られた目的があり、どのように生きれば良いのか、神が聖書を通して教えてくださるのです。神を信じる生き方と信じない生き方には、大きな違いが生じます。


十字架の贖いとは何だったのか

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:14〜16)

   キリストはその十字架で、「隔ての壁を打ちこわし」「敵意を廃棄され」ました。「敵意」とは、「さまざまの規定から成り立っている戒めの律法」です。つまり、キリストは十字架で、「隔ての壁」=「敵意」=「律法」を廃棄されたのです。


1.「隔ての壁」

   『そのころのあなたがたは、キリストから離れ』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:12)とあるように、「隔ての壁」とは、私たちをキリストから離れさせる力です。それは、心を神に向けさせない力、すなわち「罪」のことです。
   「罪」は、神との関係を壊す「死」によって、もたらされました。死とは、神と私たちとの関係を壊すことです。人の中に死が入り込み、神と私達の関係を完全に断ち切り、私たちは心を神に向けられなくなってしまいました。これが罪であり、隔ての壁とは死の壁です。


2.「敵意」

   なぜ、「罪」である「隔ての壁」が、「敵意」なのでしょうか。
   多くの人は、罪というと悪い行いを考えがちですが、神と私たちを隔てている具体的な壁の実態は、人に対する敵意です。「敵意」とは、私たちが人に対して抱く「怒り」や「さばく思い」、「嫉妬」や「憎しみ」であり、一言で言うと「人を愛せない思い」です。この思いを抱いているとき、私たちの心は決して神に向いていません。神に心を向けようと思っても、どうしても「敵意」を覚える相手に向けられてしまうのです。隔ての壁とは、心を神に向けさせないことです。ですから、人を愛せないことが罪の実態なのです。
   つまり、「罪」は人に「敵意」を抱かせる働きをすることで、神との間に「隔ての壁」を築かせています。それゆえ、聖書は、『…目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:20)と教えています。私たちと神との間で、隔ての壁になっているものは、人を愛せない心なのです。
   神は、大切な二つの戒めとして、「神を愛し、人を愛せよ」と教えました。神を愛することと人を愛することは、同じことです。なぜなら、一人一人は神の命で神に似せて造られた神の作品だからです。さらに聖書は、私たちはキリストの体の一部だと教えています。それを愛さないことは、神ご自身を否定することになります。人を愛することは、神を愛することと同じです。


3.「律法」

   「敵意」が「律法」であるとは、どういう意味でしょうか。「律法」とは、「さまざまの規定から成り立っている戒め」です。つまり、人の心を拘束する「ねばならない」という思いです。
   「良く思われなければならない」、「成績が良くなければならない」、「出世しなければならない」、「美しくなければならない」、「お金がなければならない」など、世の中には、たくさんの「ねばならない」という思いがあり、それに人は拘束されています。こんなことをしたら人からどう思われるだろうかと、人の目を気にするのも、律法を気にしているということなのです。
   このように、「律法」は、人を判断したり比較したりするものさしに使われ、行いで人の価値をはかります。価値を決めつけられると腹が立つし、自分よりもすぐれた人を見ると嫉妬したり、落ち込んだりします。これらが「敵意」です。つまり「敵意」は、「律法」によって生まれるのです。
   このからくりに気づかないと、私たちは人を愛することができません。愛せないのは相手に問題があるからではなく、あなたの持っている律法が問題なのです。
   『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)とある通り、「死」によって、心を神に向けさせないという「罪」が生まれ、「罪」は「律法」を作らせて「敵意」を抱かせ、神と人の間や人と人の間に「隔ての壁」を築きました。その「隔ての壁」つまり「敵意」を、キリストは十字架で廃棄し、神と人とを和解させてくださったのです。『敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:16)とは、十字架が、敵意を生む「律法」を終わらせたということです。
   聖書は次のように述べています。『キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:4)


どうやって十字架は隔ての壁を壊したのか

   キリストの十字架が、「敵意」を葬り、「律法」を終わらせることができるのは、どうしてでしょうか。
   「敵意」を生む「律法」は、「死」によって誕生しました。「死」が、神と人との結びつきを壊したことで、人は神の「いのち」との結びつきを失い、自分は愛される価値がなくなったと「不安」と「恐れ」を抱きました。この「死の恐怖」を払拭しようと、どうすれば愛されるか、人は愛されるための価値を求めるようになりました。それが、「律法」です。「律法」をクリアすることで、人からほめられ、認められ、愛されていることを体験できます。結局私たちは、自分のために人を利用して生きているのです。
   この「律法」を終わらせ、「敵意」を葬るためには、「行い」に関係なく愛される価値があることを知るしか方法はありません。無条件で愛されることがわからなければ、「敵意」を葬ることはできないのです。そのために、キリストは十字架に掛かり、私たちを無条件で愛していることを示されたのです。

   神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9〜10)

   これは十字架のことです。「愛されなくなった」という恐れから生まれた律法を取り除いて廃棄するには、「愛されている」ことを知らなければならないのです。イエス様の十字架が敵意を廃棄することができたのは、イエス様の十字架が愛を示したからです。イエス・キリストは、友のために命を捨てることに勝る愛はないと言い、「私はあなたを愛している、あなたのために命さえ惜しまない」と教えるために、十字架に掛かったのです。キリストの十字架は、愛を示すための十字架なのです。この十字架の愛に気づくと、自分が素晴らしいものだということに気づき、私たちの中から死の恐怖が締め出されるのです。

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

   十字架の愛が、愛されていないという不安、死の恐怖を締め出します。すると、私たちは自由になります。十字架が敵意を廃棄し、律法を終わらせることができるのは、律法を作っていた原因である恐れが締め出されるからです。
   人は、恐れが締め出されない限り、見えるものにしがみついて生きていきます。そういう人生を正すためには、愛されていることを知るしかありません。イエス・キリストは、私たちの罪を背負って十字架にかかりました。十字架は罪の罰ではありません。聖書は、「罪の罰」を背負ったとは一言も教えておらず、ただ「罪を背負った」と教えています。つまり、死の恐怖という罪の根本原因を背負って、それを廃棄するために十字架に掛かり、愛されていない恐怖を打ち壊してくださったのです。
   そして、その愛を、私たちが実際に体験できるように主が教えてくださったことが、「罪を言い表して赦される」という恵みです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   この世の中では、罪を犯す人は嫌われます。しかし神は、あなたが罪を告白しても、嫌いになったりさばいたりしないどころか、あなたを赦し、助けてくださいます。これが神の愛です。
   イエス様は、姦淫の現場で捕らえられた女性に対しても、人々から不正にお金を取り立てていたザアカイに対しても、イエス様を裏切り見捨てた弟子たちに対しても、ご自分を十字架に打ち付けて殺そうとした人たちに対してすら、一言も責めたり裁いたりせずにお赦しになりました。イエス様の愛は、その人の行いにまったく左右されないのです。
   イエス・キリストは、あなたの行いに関係なく、あなたを愛しておられます。この愛に気づくなら、人生が変わります。見えるものにしがみつき、悪いことをしてきたその生き方から解放されるのです。
   神に愛されていることを知り、自分には愛される価値があることに気づくことこそ、私たちを「律法」から解放し、自由にするただ一つの道です。この愛に気づくことで、「隔ての壁」が壊し、神への信頼を増し加えて、神と人を愛せるようになっていくことを神は望んでおられます。