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2014年1月19日
『律法とは何か?』
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3章19節〜29節)
『私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:25)

   律法とは、戒めからなる規定、行いに対する規定を総称した言葉です。
   聖書で律法といった場合、大きく分けて2種類あります。神が作った律法と、人が作った律法です。人が作った律法は、罪の律法と呼ばれることもあります。
   神が作った律法は、文字として書き記された「聖書」と、神が私達の心に直接書き込まれた「良心」という律法の2種類があります。

『彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:15)

   また、罪の律法も2種類あり、一つは、私達が暗黙のうちにお互いの心に持っている「ねばならない」という律法です。「こうすべきだ」「こうすればうまくいく」といった、人間関係の中で作られた規定です。周りの人に何か言われると、それに沿った行動を取るのも、この「ねばならない」という律法によるものです。もう一つは、社会のルールや法律などです。このように、人が作った律法も、法律などの文字として作られた律法と、お互いが暗黙のうちに作った「ねばならない」という心に書き込まれた律法とがあります。
   聖書はそうしたものを全部まとめて律法と呼びますが、神の律法が世の中の律法と同じ使われ方をしていることを大変問題にしています。


・「死のとげは罪であり、罪の力は律法」

   罪について、聖書には様々な表現がありますが、心の向きで捉えるとすべて同じ事を言っているとわかります。それは、心が神に向いていない状態ということです。イエス・キリストを信じていない人は、神がわかりませんから、神の方を向いておらず、罪の中にいます。神を信じているクリスチャンでも、心が神に向いていない状態を、罪を犯していると言います。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   罪は「死のとげ」によるものです。「死のとげ」すなわち、死がもたらす恐怖が、神に心を向けるのを拒ませるのです。
   聖書が教える「死」とは、神との関係が断たれた状態です。本来共にいるべき神との関係が断たれたことで、人は潜在的に恐れや不安を抱いています。これが、人間が行うすべての悪の根本的な原因です。人が罪を犯すのは、人間の本性や人間の中にある何かが問題なのではなく、人の中に入り込んだ死が問題なのです。
   もし罪の問題が行いにあるならば、行いを改善すれば罪を取り除けます。しかし、心の向きが問題なら、神に心を向けるためには、死の恐怖を取り除かなければなりません。イエス・キリストが十字架にかかったのはこのためです。
   イエス様は十字架にかかり、私達をどれほど愛しているかを示してくださいました。愛されている経験をしない限り、恐れを取り除くことはできません。聖書は、「全き愛が恐れをしめ出す」と教えます。
   十字架の愛を知ることで、恐れは締め出され、心が神のほうを向くようになります。それが福音です。罪を取り除くには、十字架の愛を知るしか方法はありません。
   ですから十字架は、罪を滅ぼすための十字架であると同時に、死を滅ぼすための十字架と言われるのです。罪を滅ぼすには、死の恐怖から人を解放するために、死を滅ぼさなくてはいけないからです。
   また、「罪の力」とは、神に心を向けさせない力です。律法がその力であるとはどういうことでしょうか。
   人は、自分で価値があると思うものに心を向けますから、神に心を向けさせないためには、神以外のものに価値があると思わせれば良いわけです。そこで、見えるものこそ人を幸せにするという価値基準を作ると、その規定に合っているか合っていないかばかりに心が向いて、神に心が向かなくなります。これが律法主義です。 立派なものを持っていると立派な人だと判断するものさしはどこから来たのでしょうか。行いの規定を作り、人を判断するものさしを作り上げてしまったのは、神ではなく私達です。人が作った「ねばならない」という律法は、「そうすれば安心できる」というものです。律法主義は、基準となる律法によってお互いを判断し、幸せや安心を得ようとする働きをしています。
   この世は、行いの規定で互いの価値をはかり、さばき合う社会です。その社会で生きているために、神が与えた律法を人の律法と同様に律法主義に使い、神に心を向けさせないように用いられていることが問題なのです。イエス様が、この地上でパリサイ人と戦ったのは、人に対してではなく、その律法主義の考え方に問題があると言われたのです。

   聖書を読む時に気をつけなければいけないのは、同じ言葉が、それぞれ異なる意味で使われている場合があることです。聖書で律法という言葉を使うとき、律法全体を指して使う場合もあり、神の律法を指す場合もあり、律法主義を指して使う場合もあります。それは文脈で理解するかありません。正しく理解するには注意が必要です。



   一例を見るために、ローマ10:4とマタイ5:17を比較してみましょう。

『キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:4)

『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:17)


   ローマ10:4の「律法」とは、律法主義です。これを神の律法だと誤解すると、信じれば救われるのだからもう聖書に従わなくてもいいのだという曲解が生まれる危険があります。また、マタイ5:17の「律法」は、イエス様が成就するのですから、神の律法です。
   つまり、イエス・キリストが終わらせたのは律法主義で、成就するのが神の律法です。同じ言葉が使われているので、違いが分かっていないと混乱してしまいます。他にも、「罪」「信仰」「永遠のいのち」「救い」など、一つの言葉がいくつかの意味で使われているものがありますが、これらは文脈で理解するしかないことを知っておくと、聖書を読む時に理解しやすくなります。


・「律法とは何なのか」

『では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜る神は唯一者です。とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、逆に、すべての人の罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:19〜22)

   ここでの「律法」は、神の律法のことで、22節では、「聖書」とも言い換えられています。また、「この子孫」とは、イエス・キリストのことで、「仲介者」とは、モーセなどの預言者のことです。(ガラテヤ3:16参照)
   神の律法の目的は、人を裁くためでなく、違反を示すため、すなわちすべての人に自分の罪を気づかせるためのものです。それを「すべての人を罪の下に閉じ込めた」と表現しているのです。
   これは、すべての人は罪という病気になったと考えると、理解しやすくなります。聖書は、罪を取り除く十字架を「いやされるため」と表現するなど、罪を病気にたとえて教えています。(Tペテロ2:24)つまり、死という病原菌が人に入り込み、罪という病気が発病したということです。
   人の体が病気になると、熱や痛みというサインがあるように、人間の心も、神に書き込まれた良心の痛みによって、ある程度の罪は知ることができます。しかし、体の病気を正しく知るために医学書が必要なように、痛みの原因である病を知り、いやされるためには、医学書である聖書が必要です。聖書は、あなたの苦しみの原因は、罪という病気にあることに気づかせるためのものです。ところが、人間は神の律法を人の価値を判断するものさしに使ってしまっています。聖書を正しく読まなければいけません。
   私達が回復するための第一ステップは御言葉を実行することです。ところが、本気で実行しようとすると、とてもできないことに気づきます。なぜ実行できないのか、病のサインによって精密検査を受けるように、御言葉を実行できない原因を、聖書を通してつき止めるならば、見えるものを見て恐れ、神の言葉を信じようとしない不信仰が問題であると気づきます。
   神の言葉を信じないことも、不信仰も、つぶやきも、この世の感覚では罪ではありません。しかし、聖書を正しく読み、神の言葉に聞き従おうとすることで、自分を苦しめている本当の罪の原因が見え、自分ではどうすることもできないことに気づきます。行いなら自分の努力でなんとかできますが、恐れや動揺は、自分の力ではどうすることもできません。
   もし体が病気になって、自分でどうすることもできない状態であることがわかったら、医者に任せるしかありません。同様に、自分の罪を自分でどうすることもできないと気づいたら、「神様、私を助けてください、憐れんでください」と神にすがるしか方法がないのです。
   聖書はそのことに気づかせるために存在します。そして、律法によって自分の罪に気づき、神に助けを求める人々に約束を与えています。(ガラテヤ3:22)
   その約束は大きく分けて二つあります。永遠のいのちを与える救いの約束と、安息つまり平安を与える約束です。救いはゴールではなく、その先には平安が約束されています。これらはすべてイエス様を信じることでしか手に入らないものです。神の律法は、そのことに気づかせるために与えられたのです。
   律法に従って生きるようになると、初めのうちは調子よく物事が進むように感じますが、だんだんどうしようもない自分が見えてくるようになります。すると、私達は「神様助けてください」と祈るしかありません。その時に神の約束が成就し、私達はまことの平安を手にするのです。

『信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:23〜27)

   「義」という言葉にも、イエス・キリストを信じて救われるという意味と、平安を手にするという二つの意味があります。律法はすべて、私達を、神を信頼する信仰に導くためにあるのです。
   以上のように、神の律法を正しく使うならば、律法によってキリストに導かれて救われるのです。律法の行いによって救われるのではない以上、行いによって救いが取り消されることはありません。クリスチャンの多くが、自分の行いが悪いと地獄に行くのではないかと不安に思うようですが、決してそんなことはありません。自分を行いで判断するから、そのような思いにかられるのです。私達は、あくまで自分の罪に気づき、信仰によって救われました。もうすでに神の子どもとされたのですから、それが律法によって取り消されるなどということはあり得ません。

『ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:28,29)

   神の律法は、私達に罪を気づかせて救いに導き神の子とし、さらに私達の心を一つにして平安をもたらします。一つにするとは、私達が互いに信頼し合うことです。罪は神への信頼を妨げ、人を愛する心を妨げます。神の律法は神への信頼を育て、私達をキリストと一つにします。聖書は、私達の神との関係と人との関係は同期していると教えています。兄弟を愛せない者は神を愛せないし、神を愛するならば兄弟を愛せよと教えています。律法によって罪に気づかされると、私たちはその罪を神に言い表す機会を得ます。そのとき、その罪を言い表し、神に助けを乞うなら、神が罪を赦してくださるという全き愛に包まれます。そのような経験をすると、人は、人にも寛容になり、人との関係においても平和を築いていくことができるようになります。こうして、神と人が一つになると、人は人とも一つになっていきます。
   このように、律法は私達の中の罪に気づかせ、神を信頼する信仰を育てていくものです。それなのに、この世では律法を使って互いにさばき合い、自分を責めるという間違った使い方をしています。ですから、私達は、律法の目的に気づかなければなりません。