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2013年11月24日
『患難と試練』

   患難とは、人生において避けることができないつらい出来事です。世の中では、つらいことがあると、行いが悪かったのか、バチが当たったのかなどと考えがちですが、聖書は繰り返して、患難は恵みの時であると教えています。なぜなら、時の流れや失敗や予期せぬ出来事によって、誰でも必ずつらい思いを抱くことがあります。その時、主は、私達がただつらいだけで終わることなく、つらさを通して神に結びつくことができるように、患難を用いてくださるのです。
   そのためには、患難から逃げないでとどまるように聖書は教えています。人は、つらいことがあると反射的に目を背けて逃げようとするものですが、逃げずにつらさに向き合うと、私達は自分の中に神を求める思いがあることに気づきます。そして、神に助けを求めると、この思いが確信に変わります。これが忍耐によって得られる、「練られた品性」と言われるものです。練られた品性とは、直訳すると「本物であることを確信する」ことです。自分の中に本当は神を愛したいという感情があるという確信に至ると、希望が見えてきます。この希望は神に結びつくことで生じる希望なので、決して失われることがありません。
   ところで、神に助けを求めても、答えをいただくまでに時間がかかることがあります。それは、神が私達の信仰が本物かどうかを試しておられるからです。これが試練です。
   神に助けを求めることが信仰です。しかし、もしその信仰が本物でなければ、人はすぐに別のものを求めます。ですから、本当に自分の弱さに気づいて神を求めている信仰なのか、それとも口先だけなのか、神は試されるのです。神は災いを起こしたり、罰を与えて試したりするようなことはなさいません。神が試練のために用いるのは時間です。すぐに答えを出さずに、信仰が本物かどうかを試すのです。試練とは、この時間のことです。
   よく患難と試練を混同する方がいますが、患難そのものが試練ではなく、患難とは、つらい出来事であり、試練とは、信仰が本物かどうか、神が私達を試すことです。この二つは異なるものです。

『それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊にとりつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言った。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。』(新約聖書 マタイの福音書 15:21〜28)

   この女性はカナン人で、イスラエルにとっては、いわば異端者です。彼女は、娘の癒しを求めてイエス様のもとにやってきましたが、イエス様は何もお答えになりませんでした。そればかりか、「あなたは関係ないから帰りなさい」とまで言われたのです。これが試練です。
   もし彼女が本気でイエス様を信じていたのでなければ、「私はダメなんだ」と諦めて、帰ってしまったことでしょう。しかし、この女性は、かえってひれ伏して頼みました。それでもなお、彼女を拒むイエス様に対して、さらに食い下がって、助けてくださいと願い求めました。
   これこそ、イエス様が望んでおられる信仰でした。イエス様は、決して意地悪していたわけではなく、彼女の信仰が本物かどうかを試し、彼女が必死にしがみつく信仰を持てるように育てておられたのです。
   神は私達を愛しておられますから、私達の信仰を本物にしたいと願っておられます。本物の信仰とは、主は必ず答えをくださると信じ、答えが出るまであきらめないでしがみつき続ける信仰です。答えを求めて神にしがみつき続けるなら、私達の信仰は、気がつかないうちに本物に変わっていきます。神を見上げているうちに、私には神が必要だという確信が育ち、信仰が本物になるのです。
   もし私達が、祈ったことはすぐに答えられるはずだと思っていたら、なぜ祈っても答えられないのかと、つぶやくかもしれません。神の答えをいただかないうちにあきらめてしまって、患難の先にある恵みを体験できなくなってしまうかもしれません。
   神の試練は、あなたの信仰が本物かどうか、あなたが本気かどうかを確認するためのものです。溺れる人が空気を求めるように、主が答えてくださらなければ死ぬほどつらいと思うなら、私達は答えを得るまで必死にしがみつきます。自分の虚しさ、つらさの本当の原因がわかれば、イエス様にしがみつくしかありません。


神が用意する答え

   神は、私達の信仰を確認し、必ず答えをくださいます。もし願い通りに解決することがあなたにとってプラスにならないとお考えになる場合は、別の形で答えてくださいます。望んでいた形と異なる場合もありますが、いずれにしても神は問題を解決してくださいます。
   なかなか答えが与えられなくても、あきらめずに祈り続けるなら、必ず神は答えてくださいます。その上、神は問題解決の他に、もう一つ答えを用意してくださっています。実は、これこそが神が与えたい本当の答えなのです。

『イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。(中略)それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(新約聖書 マタイの福音書 8:5〜13)

   百人隊長とは、文字通り100人の部下のリーダーです。その部下の一人が病気になり、彼はリーダーとして苦しんでいました。そこで、イエス様のもとに来て、部下を直して欲しいと懇願するのです。
   この時、イエス様はすぐに癒してあげようとおっしゃいました。百人隊長の心を読み、彼の信仰は本物だとわかったからです。このように、神様はすぐ問題に答えてくださる場合もあります。
   ところが、百人隊長は、イエス様に来ていただかなくてもいいと断ります。なぜなら彼は、神の言葉さえいただければ、十分満足して平安だったからです。
   この信仰に対してイエス様は、「こんな信仰は見たことがない」と言い、百人隊長が正しいものを求めていることを知って感動なさいました。主はこのような信仰が見たかったのです。
   神は、私達に、奇跡を手にして感謝するのではなく、神の言葉を信じて平安を手にする信仰を望んでいらっしゃいます。
   すなわち、神が用意している二つ目の答えは、あなたが神の言葉を信頼できるようになり、神の言葉を通して平安を得られるようになることです。人は出来事が解決することで平安を手にしよう、そして喜ぼうと思っています。しかし、そうではなく、神の言葉を食べて、それを信じることで平安になる道があるのです。

『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:27)

   私達が御言葉を食べ、神を信頼する信仰を育てることができるように、神はこの地上に御霊を送って下さいました。御霊の働きによって神の言葉を信じ、神を信頼する信仰をいただいて、神からの平安を得ることができます。この平安は、この世が与えるものとは全く違います。この世の平安は見えるものによって得られる平安ですが、見えるものとは関係なく神の言葉を信じることで得られる平安を、神は与えたいのです。この平安こそ、神が私達に一番受け取って欲しい答えなのです。
   この平安を受け取るには信仰が必要です。ですから、神は、患難を通して信仰を訓練するのです。すぐに答えを出さないで、その信仰が本物かどうかを確かめ、もし本物でなければ本物になるように時間をかけて訓練してくださいます。これが試練と呼ばれるものです。
   ですから、神が与える試練とは、苦しみを与えることではありません。私達の信仰を育てるために、すぐに答えを出さないということです。
   そして、試練について、神は二つのことを約束してくださっています。
   一つは、その人が耐えられないような試練は決して与えないということです。いきなり、アブラハムやイサクのような試練に会うことはありません。神は、ひとりひとりの信仰をよくご存知なので、その人に合った試練しか与えませんから、心配する必要はありません。
   もう一つは、必ず脱出の道を用意しているということです。神は、ちゃんと答えを用意しておられますから、あきらめずにしっかりと試練に立ち向かって欲しいのです。試されていることに対して、信仰を働かせて欲しいのです。

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:13)

   あなたが試練に必ず耐えられるように、試練と同時に神は脱出の道も必ず用意してくださっています。試練の先に進めば、必ず希望をつかむことができるので、試練に出会ったら希望をもらったのだと思って喜びなさいと主は教えます。

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2〜4)

   試練は、ただ信仰がテストされているだけです。試練を過ぎた時、私達は二つの答えをいただくことができます。一つは、問題の解決であり、もう一つは平安です。試練を通して、神の言葉が信じられるようになり、見えるものに左右されることのない、いつも変わらない心の平安を手にすることができるようになるのです。これを覚えて、しっかりと神に目を向け続けましょう。