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2013年11月10日
『二つのつらさ』

   患難は、神が引き起こすものではなく、神の罰でもありません。どんなに気をつけていても、人生は必ずつらい出来事に出会います。ですから、神は、私達が出会う様々な問題を逆手に取って益とし、私達を安息の地に導き、神の栄光を現してくださいます。
   そのためには、患難と逃げずに向き合うことが必要です。気晴らしをしたり、誰かに怒りをぶつけたりして患難から逃げようとしても、ただ悲しみやつらさが心に残るだけです。しかし、患難と向き合うことができれば、それは素晴らしい神の恵みに変わります。
   患難とはつらさを伴う出来事のことです。病気の痛み、大切なものを失うこと、仕事、将来への不安など、心の負担には様々ありますが、これらのつらさの他に、霊的なつらさというものがあります。
   私達が通常つらいと感じるのは、見えるものが原因で生じる「肉のつらさ」です。しかし、つらさにはもう一つ、「霊的なつらさ」があります。神が患難と向き合うように教えているのは、肉のつらさの下に霊的なつらさが隠れており、霊的なつらさに気づくことで、神の栄光が現される恵みの時となるからです。霊的なつらさに気づくとは、自分の弱さに気づくことです。自分は無力な者だと気づく時、神の栄光が現されるチャンスなのです。

『あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 7:8〜10)

   パウロは先の手紙(Tコリント)で、ある兄弟を教会から除名するように命じました。その兄弟が世の中でも良くないことをしているのを知っていながら、コリントの教会の人々はその問題を放置していたのです。
   教会は助言に従って彼を除名しましたが、それは人々にとって痛みと苦痛を伴う出来事でした。これは、神の言葉に従うことで生じる患難と言えます。自分の中に御言葉に従えない自分がいる時、神の言葉に従うことはつらさを伴います。しかし、コリントの人々は、この患難から逃げずに従いました。
   その結果、除名された兄弟は悔い改めて神のもとに戻り、また、このことを通して、彼ら自身も自分の弱さを悔い改めて平安を手にすることができました。「悔いのない救いに至る悔い改め」とは、直訳すると、「悔い改めに導いて後悔のない救いを得させる」ことです。
   悲しみには、神の御心に添った悲しみと世の悲しみの二種類があります。ここで「悲しみ」と訳されているギリシャ語は、心と体の苦痛という意味がありますから、つらさと訳したほうが本来の意味に近いでしょう。

   つまり、つらさには二種類あり、それは霊的なつらさと肉的なつらさです。霊的なつらさは、神の御心に添った悲しみであり、私達の心を神に向けさせ、救いに至る神の恵みに預からせて平安を与えることができますが、肉のつらさはただ心の傷となるだけで何も生み出しません。
   もし患難に出会っても肉のつらさの段階で逃げてしまうと、それだけで終わってしまいます。しかし、きちんと向き合えば、霊的なつらさに気づき、恵みに変わるのです。


霊的なつらさとは何か

   人間は皆、神の一部(キリストの体の一部)として、神に似せて造られました。つまり、神と結びつくことで生きるものとして造られたのです。ですから、人間はもともと、神を愛したい、人を愛したいという感情を持っています。これが、人間が本来持っている本物の感情です。
   ところが、アダムとエバが罪を犯したために、私達は神の国から死の国に移されました。この時から、親から引き離される子どもが泣き叫ぶように、私達の魂は神を求めて泣き叫んでいるのです。神との関係が断たれたことで、本来持っている神を愛したいという感情が、神と離れたくないと強く願っているのです。これが霊的なつらさです。
   このつらさに気づき、自分が本当に求めているものがわかったら、差し伸べられている神の御手をつかむことができます。ところが、今、神が御手を差し伸べておられるにも関わらず、人々はそれにしがみつこうとはしません。それは自分のつらさに気づいていないからです。これが問題なのです。

   私達は、心を満たそうと願って、人との関わりを求め、物や富を求めます。しかし、それらのものを手に入れても、心にはまた空しさが訪れます。世界で最大の富を手にしたソロモンは、結局何を手にしても虚しいと言いました。なぜなら、それらは私達の魂が本当に欲しているものではなかったからです。
   私達の本物の感情は神を愛し結びつきたいと欲しています。それが満たされないと空しさは消えません。神が肉のつらさである患難に着目するのは、そこから霊的な本当のつらさに気づかせたいからです。このつらさに気づけば、神が差し伸べている御手をつかむことができます。しかし、肉のつらさに出会うと人々はそこから逃げだそうとして、向き合うことをあきらめてしまうために、本物のつらさになかなか気づかないのです。


なぜ本物の感情がわからなくなってしまったのか

   交流分析という心理学の理論の中に、「ラケット感情」というものがあります。「ラケット」とは、「騙す・不正を働く」という意味の俗語で、マフィアのように相手を脅迫する人のことをラケッティアと呼んだりします。
   つまり、ラケット感情とは、強制的に身につけさせられた「偽物の感情」です。
   例えば、幼い子が自分の感情を表現した時に、「調子に乗るな」「泣くな」「怒るな」「意気地なし」などと本物の感情を制限されると、その子は、ほめられるため、叱られないために、本物の感情を封印し、相手の好む感情を、さも自分の感情であるかのように表現するようになります。
   この本物ではない感情が「ラケット感情」と呼ばれるもので、誰もがこの感情にだまされて生きています。そのため大人になっても偽物の感情に支配され、例えば、悲しいと感じるべきところを、怒ったり、笑ったり、別の感情で表現してしまい、本人も自分が悲しんでいることに気づきません。ところが偽物の感情を満たしても本物の感情が満たされない限り、心は空しさを感じ続けます。私達がつらいと感じる気持ちも、実はラケット感情と同じなのです。

   アダムとエバは、悪魔に騙されて食べてはいけない木の実を食べたために、神との信頼関係が壊れ、死が入り込み、二人は神の国から死の国に移されました。この時、二人から取り上げられたものが、神を愛したいという思いです。外国から日本に持ち込んではいけないものを税関で取り上げるように、神の国から死の国に持ち込めないものとして、神を愛する思いが取り上げられました。死は私たちが受ける脅迫の中でも、最も大きな力を持っています。死の国に神はいない、神を愛する思いなど持っていても無駄だと、死は私達を脅し、神を求める思いを恐れと不安に変え、この世界に神は存在しない、人かお金しか頼れないと人間に信じさせ、人や物に結びつくようにさせました。

   私達はつらい時、見えるものを失ったからつらいのだと思っています。しかし、本当はそんなものを求めていたわけではなかったのです。本当に欲しかったものは神の愛であったにも関わらず、そんなものは存在しないと「死」に脅迫され、自分が欲しいのは人や物なのだと信じ込んでしまいました。そのため、見えるものを失うとつらさを感じます。しかし、いくら見えるものを追い求め続けても、私達が本当に欲しいものではありませんから、空しさを感じるのです。
   ですから、肉のつらさは、私達が本当のつらさに気づくチャンスです。つらさに向き合い、自分は本当は何を求めているのか、なぜつらいのか考えるならば、あなたが本当に欲しているものに、神が気づかせてくれます。これが神の恵みです。
   例えば、悪口を言われるとつらくなります。すると通常は、自分がつらいのは悪口を言われたせいだと考え、相手を攻撃し、恨みを持ちます。しかし、その本当の叫びは、神と結びつきたいという願いなのです。神と結びつきたいという願いを、人に置き換えさせられ、人との関わりを求めていたのです。

   このように、仕事、富、人間関係、すべてのつらさの本当の原因は、見えるものにあるのではなく、神と結びついていないところにあります。人はそのことに気づかず、表面的なつらさを解決しようとしてもがきますが、つらさはかえって増し加わります。これがサタンの罠なのです。
   私達が本当につらい理由はそこにはありません。つらさを感じた時、これは自分のいのちが神と結びつきたいと叫んでいるのだと気づくことができれば幸いです。


本当のつらさ(霊的なつらさ)に気づく

   イエス・キリストは、初めて公の場の説教された時、次のように言われました。

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。』(新約聖書 マタイの福音書 5:3,4)

   心につらさを感じる時、あなたがたは幸いだと主は言われます。それは、神の国が待っているからです。本当のつらさに出会うことで、本当の祝福に預かることができるのです。
   神は、私達を造った時に与えた本物の感情、すなわち、神を愛し人を愛する心を思い出し、取り戻してほしいと願っておられます。心がつらくなったときはそのチャンスとなります。だから幸いなのです。
   神と結びついていないつらさは、実は、私達が想像もできないほどのつらさで、私達はそれをまったく理解していないのですが、イエス様ご自身がそのつらさがどのようなものなのかを、教えてくださっています。それはゲッセマネの祈りです。
   イエス様は十字架で処刑される前、3人の弟子たちを連れてゲッセマネに祈りに行き、ご自身が祈る様子を見せました。そこには、霊的なつらさを教えようという、深い神のお考えがあったのです。
   十字架の死は、私達の罪を背負い、私達が罪を犯したために報酬として受けたとった死を滅ぼすためのものです。そのためにイエス様ご自身が死を背負い、十字架で殺されなければならなかったのです。
   死には、肉体の死と霊的な死があります。イエス様が恐れたのは、肉体の死の苦しみではなく、アダムとエバが体験した霊的な死の苦しみ、すなわち、霊的に神との関係が強制的に切り離される死の苦しみです。イエス様は、この苦しみに対して、ひとり祈る姿を、弟子達に見せました。

『そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」』(新約聖書 マルコの福音書 14:33〜36)

   「悲しみのあまり死ぬほど」とは、最大限のつらさの表現です。この時、イエス様と神様との関係は、まだ断ち切られていません。しかし、もし断ち切られたらどうなるのか、神であるイエス様は一番よくご存知でした。そのイエス様が、悲しみのあまり死ぬほどだと言い、もしできることなら取り除いてほしいけれど、どうか神の御心のままに、と地面にひれ伏して叫んでおられます。これが霊的なつらさの叫びです。
   私達の霊的ないのちも、自分で気づいていないだけで、この死ぬほどのつらさを味わっており、「神よ、どうか私を助けてほしい。見捨てないでほしい」と、同じ叫びをしているのです。神から離れて生きるとはどういうことか、そのことを、イエス様ご自身が、ゲッセマネの祈りを通して、教えておられます。私達はそのつらさのすべてを今知ることはできませんが、自分の弱さを垣間見るだけでも、その一部を感じ取ることができます。
   そして、イエス様は十字架に掛かり、私達が負うべき死を背負って死なれました。今、イエス・キリストは24時間、ひとりひとりに手を差し伸べておられます。しかし、私達が霊的なつらさに気づかなければ、その手にしがみつこうとしません。
   肉のつらさは、うわべの偽物の感情です。本当のつらさは、神との結びつきがないことであって、私達の本物の感情は神を求めて叫び続けています。そのことに気づいたら、あとはイエス・キリストが差し伸べておられる手にしがみつくだけです。患難から逃げないで本当のつらさに気づき、キリストの御手をつかんで平安を受け取りなさいと、主はあなたに語りかけておられます。