ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2013年10月27日
『患難』

   皆さんは、何か良いことが起きると、「日頃の行いがいいから」と言ったり聞いたりしたことはありませんか。反対に、悪いことが起きると、「○○の行いが悪いから」「バチが当たった」などと言われることもあります。人は出来事を何かのせいにしたがり、特につらいことが起きると、これは誰かが悪いことをしたせいではないかと否定的に考えるものです。
   つらい出来事のことを、聖書は「患難」と呼びます。患難とは、ちょっとやそっとの悪い出来事ではなく、相当つらい出来事というイメージがありますが、聖書は患難に出遭うことはチャンスだから喜びなさいと教えています。いったいどのように喜べというのでしょうか。

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3,4)


・人はなぜつらさを感じるか

   人間は、アダムとエバが罪を犯したことにより、神との関係が壊れた状態で生まれてきました。そのため、何のために生まれてきたのか、何のために生きるのか、自分が何者なのかがわかりません。また、神とつながっている時には永遠のいのちを持っていたのですが、神との関係が壊れたことによって、やがて死んで朽ちる体になってしまいました。神との関わりがないことが人の死であり、人間は生まれながらに死の恐怖を背負っています。
   この恐怖から逃れるために、人間は安心を求めて生きています。その安心を、人からの「評判」に見出そうとします。人から良く思われると、自分の価値が上がったような気がして、安心するからです。それゆえ、能力を磨き、美しさを保ち、出世し、賞賛を得ようと頑張ります。これらの評価を一つでも多く手に入れることが、自分の価値を守ってくれる鎧だと信じているのです。
   また、人は皆死にたくないという欲求を持っています。死を遠ざけるため、回避するために、何はともあれ「お金」があれば安心だと考えます。人がお金を愛するのは、肉体の死の恐怖を和らげるためです。
   こうして、人は人からの「評判」や「お金」を、自分を守る鎧にしているのです。しかし、このような鎧が役に立たなくなる出来事があります。それが「患難」です。これまで安心を与えてくれていた鎧が壊れ、つらくなる出来事のことです。大切な物が奪われる体験や、自分よりも秀でているものを他の人が持っている体験、人から悪口を言われる体験など、自分の価値が奪われたように感じて、がっかりしてつらく感じます。人からの「評判」という鎧が、壊れて役に立たなくなったからです。
   しかし患難とは、鎧が壊れただけで、あなた自身の価値が奪われたわけではありません。鎧は必ず壊れるもの、患難は起こるべくして起こるものなのです。


・患難が起きる原因

1.時間

   美しさや健康などは必ず衰える日が来ます。築き上げた肩書きは必ず失う日が来ます。見えるものは必ず滅びるのです。

2.失敗

   私達は様々な罪を犯し、いろいろな失敗をするものです。誰かの過ちによって、一瞬で評判を失ったり、人から後ろ指をさされたりすることがあるかもしれません。評判という鎧が一気に崩れ去り、役に立たなくなる時、その鎧にしっかりしがみついていればいるだけ、患難は大きなものとなるでしょう。

3.予期せぬ出来事

   災害・事故・病気などの予期せぬつらい出来事もあります。また、それらによって自分が大切にしていた財産や愛する人を失うこともあります。お金にしがみついていればいるだけ、それを失った時のつらさは大きく、人に安心を抱いていればいるだけ、その人を失ったつらさは大きくなります。

   しかし、これらの出来事には必ず原因があります。時間の経過は必ず起こるものであり、失敗する危険性はいつでもあります。予期せぬ出来事についても、人間の不注意が原因の場合もありますし、土砂災害などには事前の要因があり、地震や台風の発生にもメカニズムがあります。
   いずれにしても間違えてはいけないのは、これらの患難は神が引き起こしているわけではなく、起こるべくして起こったものだということです。人はよくバチが当たったという言い方をしますが、イエス・キリストは私達を救うために、私達の負債をすべて背負って十字架にかかったお方です。その方が私達にわざわざ新たな負債を負わせて苦しめるなどということはあり得ません。神は私達を救う方であり、災いを与える方ではありません。
   患難も病も神からの罰ではなく、むしろ神は、起こるべくして起こった患難から私達を救い出し、それを栄光に変えたいと願っておられます。神はどのように患難を栄光に変え、どのように希望を生み出すのでしょうか。

『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:1〜3)

   生まれつき目が見えないという状況は、本人にとっても両親にとっても患難です。このような予期せぬ出来事に襲われた人について、弟子達は誰かの罪のせいだと考えましたが、イエス様は、そうではなく、神のわざがこの人に現れるためだと言われました。患難を罪のせいにしたがる弟子達の発想は、非常に人間的です。患難は災いではなく、人が神の栄光に預かることのできるチャンスなのです。
   イエス様はこの盲人を癒し、彼は見えるようになりました。しかし、神のわざはそれだけで終わったのではありません。この人は、患難を通して神を信じ救われたのです。『彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:38)この人が心から神を信頼し愛するようになったということ、これこそが神のわざです。

   盲人が見えるようになったのを知り、人々は大変驚きましたが、その日が安息日であったため、神のわざだと信じようとはしませんでした。彼らは癒された人に対して、イエスが神の子であることを否定させようと迫害しましたが、この人は誰になんと言われようとゆずらず、ついに追放されてしまいました。それを知ったイエス様は、再び彼のところに来て話をされました。この時、彼ははっきりと、「あなたを生ける神だと信じます。」と告白したのです。これが神のわざです。
   何を信頼して生きればよいのか、何が真実なのかが、彼はこの時はっきりとわかり、イエスから目を離さない人生に変わりました。このように、真実がわからず右往左往する私たちの心を、しっかり神に結びつけようとすることが神のわざです。人の出遭う患難は、神としっかり結びつくチャンスです。だから、患難さえも喜ぶことができるのです。

『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:16,17)

   確かに患難は私達の外側を衰えさせます。しかし内側の魂は、患難によってむしろ日々新たにされて、神様への信頼を増し加えていくことができます。患難を通して、私達は神の栄光を受けているのです。なぜ患難を喜ぶのか、それは、患難は私達の心を神に向けさせるものだからです。
   その意味が分かっていないと、患難に遭ったときに間違った選択をしてしまいます。


・間違った選択の例

1.さばく

   悪口を言われると、その相手を攻撃して人をさばきます。相手を責めることで、自分は正しい、自分は価値があると訴えているのです。そうやって、壊れた鎧を修復し、新たな鎧を築こうとしているのです。

2.快楽に逃げる

つらいことがあると、楽しいことを見つけて、そのつらさを忘れようとすることです。壊れた鎧を見ないようにして、快楽という鎧で安心しようとしているのです。

3.別な鎧を探す

   色々な宗教を信じては、つらくなると他の宗教にすがってみたり、仕事がつらくなると辞めて別の仕事を探すことを繰り返したり、結婚相手が気に入らなくなると離婚して別の相手を探したりと、別の鎧に変えればうまくいくという考え方です。今まで自分がしがみついていた鎧は間違いだった、もっと別の鎧なら安心できるはずだと、新しい鎧につけ替えて安心を求めるのです。

   楽しいことを見つけたり、新しいことを始めたりすることがいけないのではなく、つらさをそのままにして、神に心を向けようとしないことが問題なのです。いくら新しい鎧に付け替えても、神に心を向けなければ、つらかった記憶はそのまま残り、ますます大きくなって心の傷となります。しかし、正しい選択をすれば、患難は喜びに変えることができます。
   神との関係が壊れた人間は、平安を得るために何かと結びつきたいと願っています。自分を結びつけていた鎧は自分を守って安心させてくれるものではなかったと気づいたら、神が差しのべておられる手をつかめばよいのです。神は脱出の道を用意し、あなたを助けようと手をさしのべておられます。その手をつかみ、神と結びついたその時、神の助けを受けて、私達は神を信頼できるようになり、患難は栄光に変わります。ですから、つらいと感じたら、理屈抜きでただ神様と呼べばよいのです。
   私達は見えるものにしがみついて生きていますから、それを手放すことをとても恐れています。鎧を握っていた手を離し、神の手をつかんだほうが平安だと言われても、怖くてとてもできません。この自分ではどうすることもできないものを、患難が壊してくれるのです。患難は神が引き起こすものではありませんが、どうやっても手放すことができなかった鎧が強制的に失われるチャンスです。鎧が壊れ、つかむものがなくなったその時、私達は、神の手を握り、まことの平安をつかむことができるチャンスを得たのです。
   患難に出遭わない人生などありません。せっかく患難に出遭ったのですから、快楽に身を投じて安心しようとしたり、見えるものという鎧に再び手を出したりするのではなく、神様を呼びましょう。その時、患難は喜びに変わります。
   患難はいつ来るかわかりません。けれど、それは災いではなく、チャンスです。つらい出来事に出遭ったなら、それは栄光に変えられる時だと期待しましょう。再び見えるものにしがみつくのをやめ、神のわざが現れる時としましょう。握っていたものを手放し、神に目を向けて、神の手をつかむならば、あなたは神からの平安を体験し、神への信頼を増し加えることができます。これこそが、神のわざであり、神の栄光なのです。