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2013年10月20日
『体の制約』
(新約聖書 ローマ人への手紙 16章)
・分裂とつまずきを起こす人に気をつけなさい

『兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 16:17,18)

   パウロは、教会を健全に守るために、分裂とつまずきを起こす人達を警戒し、彼らから遠ざかるように教えています。
   人はひとりで生きられません。これを聖書では「弱さ」と呼びます。「弱さ」は悪いものではなく、神と結びつくことで安定するように造られた人間の性質です。ところが、神との関係が壊れた人間は、神ではなく富や人間関係に結びつくことで、心の安定を得ようとしています。クリスチャンになっても、神ではなく人に結びついて安定しようとすると、分裂やつまずきを起こす原因を作ってしまいます。
   分派分裂とは、指導者に従わないで自分の仲間を増やそうとする行為です。彼らが分裂やつまずきを起こす理由は、自分の欲に仕えているからです。教会はキリストの体です。教会に従わないとは、キリストに結びつこうとしないことです。自分の欲に従って人と結びつこうとすると、つまずき、分派を起こし、教会を分裂させるのです。人間が仕える究極は、神か自分の欲しかありません。この件について、パウロは次のように書いています。

『・・・キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(中略)そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
私たちはキリストのからだの部分だからです。・・・』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:20〜33抜粋)


   教会はキリストのからだであり、そのかしらはキリストです。同様に、妻のかしらは夫であり、教会がキリストに従うように、妻は夫に従うように教えられています。夫と妻との関係は、キリストと教会を指しており(32節)、私達が所属する一番小さい単位である家庭で、キリストに従うことを学ぶのです。分派を作って人に結びつくことが神に結びつかないことになるのと同様に、妻が夫に従わないのは神に従わないのと同じなのです。神に結びつくために、家族の中で主に従うことを学びましょう。妻は夫に従い、夫は妻を愛し、子どもは親に従い、親は子どもをつまずかせないように愛さなくてはいけません(エペソ6章参照)。これが自分の欲に従わないことの基礎であり、教会に従うことの基礎、すなわち神に結びつくことの基礎となります。人とのつながりは、まずは神としっかりつながった上で築くことが大切です。人間関係の土台の上に神とのつながりを築こうとすると、うまくいかなくなります。
   では、具体的にはどのようにすればよいのでしょうか。

   女性は、たとえ男性より能力が優れていたとしても、夫を責めたり、批判したりしてはいけません。子どもの前でそのようなことをするのは以ての外です。そんなことをすると、やがて子どもが親の言うことを聞かなくなります。権威を無視するのは、自分の欲を満たそうとするからです。夫は、何があっても妻を責めてはなりません。子どもの前で妻を責めるなどとんでもないことです。妻を愛するとは、男性が女性の弱さを担って補うことであり、責めることではありません。子どもは親を尊敬し、親に従ってください。
   「互いに従う(5:21)」とは、素晴らしい効用があります。それは、砕かれるという効用です。人は、砕かれれば砕かれるほど平安を得ることができ、人と結びつこうとすればするほど平安を失うのです。従おうとしても従えない時やイライラする時、自分の欲を満たすことで満足しようとしている自分に気づき、悔い改め、主に心を向けてください。
   家庭は社会の基本です。分裂やつまずきを引き起こす人は、家庭においてもキリストに仕えないで、自分の欲に仕えます。神を愛し、神に仕えるとは、まずは家族を愛し、家族に仕えることです。ですから、私たちは家庭でのあり方を正し、互いに仕え合う家庭を築いていきましょう。そうすることで、自分自身の罪や弱さを知り、互いに砕かれ、それぞれが神に結びついて平安を得るようになれば、教会の中で分派が起きるようなことはなくなります。


・病について

『この手紙を筆記した私、テルテオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 16:22)

   この手紙はパウロの自筆ではありません。この時パウロは自分では字が書けないほど重い病にかかっていたのです。パウロはもともと何らかの持病を持っていたことが分かっています。このことから、「病」について聖書は何と教えているか見ていきたいと思います。

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

『神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」』(旧約聖書 創世記 2:16,17)

   人間は、地上の物質から出来た肉の体と、神のいのちから出来た魂を持っています。肉の命は地上の物質によって保てますが、神のいのちは神との結びつきを失うと生きものではいられません。幹とのつながりを失った枝がやがて枯れてしまうのと同様です。
   神は、神の命令に反する時「あなたは死ぬ」と言われました。しかし、「死」という言葉はこの時初めて使われた言葉で、二人には「死」の意味がわかりませんでした。「死」は聖書で初めて出てくる言葉であり、語源もありません。今日、私達はすでに死に対してイメージを持っているので、その知識によって理解しようとしてしまいますが、聖書が教える「死」とは何かを理解するには、この実を食べた後、二人に何が起きたかで判断するしかないのです。

『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。 』(旧約聖書 創世記 3:7)

『神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」』(旧約聖書 創世記 3:9,10)


   まず、彼らは実を食べた瞬間に自分が裸であることを知り、手近にあったもので自分を隠しました。これが、二人が実を食べたことで起こった変化であり、死であると言えます。つまり、神と霊的な関係が壊れ、霊的なものが見えなくなり、神が見えなくなって肉なる姿しか見えなくなり、自分が何者なのかわからなくなり、不安になり、恐れが生まれたと考えられます。この時から人間は、神との結びつきを失い、恐れと不安が生まれ、その自分を隠すために見えるものとの結びつきを求めたのです。その人間に対して、主は次のように言われました。

『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。』(旧約聖書 創世記 3:11)

   この質問は重要です。なぜなら、今も多くの人が、死は神が与えた罰だと誤解しているからです。しかし、もし実を食べた罰として神が死を与えたのならば、このような言い方はしません。聖書は、死は罪の報酬だと書いています。「報酬」とは自動的に与えられるものであって、意図的に与えるものには「報い」という言葉が使われます。喩えるなら、自動ドアの前に立てば、扉が自動的に開くようなものです。つまり死とは、実を食べたことで自動的に神との関係が壊れてしまったことであり、神が与えた罰ではありません。
   続いて神は、神との霊的なつながりを失った人間に対して、次のように言われました。

『また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』(旧約聖書 創世記 3:16〜19)

   この地は、もともと人間が支配するものでしたが(創世記1章)、神との霊的な関係が壊れて地は呪われ、人間は地を管理することができなくなりました。災害、病気、獣等、神の保護があった時は管理できていたものが、できなくなったのです。死によって、魂は霊的な糧を失い、体は保護を失って外的な影響を受けるようになり、様々な制約を受けるようになりました。ここに病の起源があります。

『神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」』(旧約聖書 創世記 3:21,22)

   霊的ないのちを失って恐れと不安の中にあった二人に、神は皮の衣を作って着せてくださいました。これは、神の助けがなければ、失ったいのちに対して人間の力でできることは何もないことを表しています。また、神が人をエデンの園から追放したのは、自分の力でいのちを取り戻そうとするような無益なことをさせないためです。
   今、私達が背負っている病や体の制約は、罪によって死が入り込んだために生まれたものですが、神の罰ではありません。むしろ神は、苦しんでいる私達を助けるために、十字架にかかり、死を滅ぼして、私達を救おうとされました。主は病の原因について次のように言われました。

『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:3)

   今も昔も、病や障がいに対して、バチがあたったとか祟りや呪いだと考える風潮がありますが、主ははっきりと、それは神の栄光が現れるためのものだと語っています。どんなに健康な人でも必ず朽ちます。私達は皆神なくしては生きられない存在です。パウロは自分の病を癒してくださるよう3度主に祈りましたが、癒されませんでした。しかし、病を通して神と結びつくことのできる弱さに働く恵みを教えられました。弱さは悪魔に騙された罪の結果ですが、神はこの弱さを用いて私達を助けてくださること、私達は、弱さがあるがゆえに神と結びつくことができることを知ったのです。

『このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:8〜10)

   人間には、「体の命」と、神のいのちで造られた「魂」という二つのいのちがあります。病によって体の制約が大きくなると、この地上で生きる上では困難な面が多くなりますが、魂は体の制約を受けていません。よく、認知症や障がいなどで体に大きな制約を受けている人は、魂も制約を受けていて、救われることが難しいように考える人がいますが、それは正しい考えではありません。神が救われるのは、体ではなく、魂です。どんなにこの地上で体の制約を大きく受けていようとも、神のいのちで造られた魂は完全で無傷なので、神はその魂を救われます。人は誰でも年をとれば、体が衰えます。しかし、それに伴って魂までもが衰えるということはないのです。魂は完全であり、決して衰えることはありません。

『すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:15〜18)

   御言葉にあるように、体は衰えても、魂は衰えず日々新たにされます。ですから、私達は目に見える患難に惑わされず、目に見えない神と、完全なる魂に目を留め、希望を持ちましょう。患難は一時的なものですが、神が新しくする魂は永遠です。イエス様は、この当時人々が一番尊敬していたバプテスマのヨハネも、人々が取るに足らないと思う人も、天の御国では同じ価値だと言われました。

『まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。』(新約聖書 マタイの福音書 11:11)

   神は、私達を助けたいと願ってこの地上に来られ、私達を救うために自らが十字架に掛かられました。それは人間が、自分の力では自分のいのちをどうすることもできない存在だからです。信じるだけで救われる道しかないのです。神が人間に与えてくださったいのちは、永遠に生きる素晴らしいものです。体の患難は見えるうわべのことですから、騙されてはいけません。私達の魂は日々新たにされています。