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2013年10月6日
『望みの神』
(新約聖書 ローマ人への手紙 15章8〜13節)
『私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。それは、父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。』(新約聖書 ローマ人への手紙 15:8〜12)

   当時、神の言葉はイスラエル人のためだけのものだと思われていました。ですから弟子達の多くは、全世界に福音を伝えるとは、世界中に散らされているイスラエル人にイエス・キリストを伝えることだと考えていたのです。しかし、イスラエル人以外の人々が多く救われるようになり、弟子達の間に論争が起きました。そこで、ペテロが神に示されて福音はすべての人のものだと説き、パウロも旧約聖書を引用して、福音が異邦人に伝えられることは神の初めからの計画であることを説明しました。
   今日は、神を信じ、神に望みをかけるとはどのような生き方かを学んでいきましょう。

『どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。』(新約聖書 ローマ人への手紙 15:13)

1.望みの神

   私達の神は、私達に希望を与えてくれる神です。多くの人は、神とは罪を裁く怖い方だと思い込み、神に裁かれないように良い生き方を目指そうと頑張っていますが、神はそのような方ではありません。聖書は、神は裁くためにこの世に来たのではない、希望を持たせるために来られたのだと教えています。

『キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、あなたの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 15:3〜4)

   神が与える希望とは、人間がどんなに努力しても得ることができない超自然的な希望という意味があります。つまり、それは救いを意味します。聖書は、死は終わりではなく、新しい体をいただいて出発する希望の時であることを教えています。これこそ、超自然的な希望です。
   イエス・キリストは、死は終わりではないことを示すために、皆の目の前で殺され、皆の前に復活してくださいました。この永遠のいのちという救いにあずかるための条件はただ一つ、イエス・キリストを信じることです。キリストを信じるならその人の行いに関係なく救いを受けることができる、これが望みの神が与える希望です。他にも希望はありますが、最大の希望は、人間の力ではどうすることもできない死という問題を解決してくださったことなのです。
   神を信じる者にとって、この世は主と共に生きる訓練の時であり、死は、いよいよ神とお会いする時が来たことを意味します。これは人間が考えつくような希望ではありません。神によって与えられなければ、誰もこのような希望を持つことはできません。

2.信仰による喜び

   信仰による喜びとは、この世の見えるものを手にする喜びではなく、神を信頼することのできる喜びです。
   この世の宗教は、人が欲するものを与え、願いを叶えるというご利益をうたいます。人々がそれを喜びだと思っているからです。クリスチャンになっても、人間関係や富を得ることが平安を得る方法だと思い込み、得たものを神に感謝することが神との関係だと考えているとしたら、それは大きな間違いです。そのような信仰は、祈りが聞かれると感謝し、聞かれないとつぶやき、果てには、この神様はご利益がないと言って他の宗教に移っていくことになりかねません。結局のところ、それは自分の欲のために神を利用しているだけなのです。
   人間関係の解決を祈ることも、成功を収められるように祈ることも正しいことです。しかし、それによって自分の平安や安心を増し加えようとしているならば虚しいことです。それは、神よりも人の言葉や富を愛しているに過ぎません。本当の平安は、見えるものとは関係なく、神を愛し信頼することで得られるものなのです。
   Tコリント3章に、肉に属するクリスチャンと御霊に属するクリスチャンについて書かれています。肉に属するクリスチャンとは、見えるものを手にすることで安心を確保しようとするクリスチャンであり、御霊に属するクリスチャンとは、神を信頼することで平安を手にするクリスチャンです。

   旧約聖書に登場するヨブは、神を心から信頼する人でした。ある時悪魔は、彼に目を留め、ヨブは多くの財産と家族に恵まれているから神を愛しているに過ぎないのだと言って、彼から財産や家族を奪いました。すべてを失った上に重い病気になったヨブは、それでも最後まで神を信頼しようとしますが、最終的につぶやいてしまいます。しかしそのことを通してヨブは、自分は見えるものを通して神を愛そうとしていたことに気づき、自分の罪を悔い改めました。その結果、ヨブは本物の信頼を手にし、神は以前よりも多くのもので彼を祝福しました。神への真の信頼を持っている人は、どれほど多くの財産を持っていても、それによって平安を得ようとはしなくなるのです。
   ヘブル人への手紙には、信仰に生きた人々は、祈ったことがかなえられなくてもはるかにそれを見て喜んだとあります。必要なのは神としっかり結びつくことです。そうすることで、私達は真の安心を手にし、本当の意味で人を愛せるように変わります。
   神は隣人を愛するように教えておられます。しかし、人との関わりで安心を得ようとする生き方を手放さなければ、愛そうとしても妬みや怒りが生まれます。人は、自分の思い通りになると自分に価値があるように思えて安心し、人の期待に応えても評価を受けないと腹が立ち、自分よりも評価されている人を見ると嫉妬してしまうものです。これは人を愛している姿ではありません。人を利用して安心を得ようとしているのです。
   あなたが欲している安心を、神と結びつくことで手にしましょう。神との信頼関係はあなたを100%満たします。そこで初めて人に対して寛容や親切な心を持てるのです。人を利用することをやめて、神から平安を手にするようにしなければなりません。これが信仰による喜びです。
   あなたは何をもって喜びとしているでしょうか。見えるものを手にすることでも、問題が解決することでもなく、神を信頼することのできる喜びを手にするよう、神は私達を導いておられます。

3.聖霊の力によって望みにあふれる

   ところで、現実の私達の心には、今望みがあふれているでしょうか。もしそうでないなら、その理由は一つしかありません。私達が、自分の弱さに気づいていないからです。神の力は私達の弱さのうちに現れます(Uコリント12章)。人は、「自分は弱くない」「まだ大丈夫」と思っているうちは神に頼ろうとしませんが、本当に自分の弱さに気づくと必死に神にしがみつきます。すると、神の力がその人の弱さに働き、望みをあふれさせてくれるのです。そのことを旧約聖書のエステル記から学んでみましょう。

   イスラエルが国を失いペルシャの捕虜となっていた時、エステルという女性がユダヤ人でありながらペルシャの王妃となりました。しかし、ペルシャの大臣はユダヤ人が偶像礼拝をしないことを快く思わず、ユダヤ人を滅ぼす計画を企てました。その計画を知ったエステルの養父はエステルに、王にユダヤ人を守ってくれるよう懇願するように言いますが、王に呼ばれてもいないのに謁見に行くことは王妃といえども死罪になる可能性があります。怯えるエステルは、自分の弱さを目の当たりにしますが、王の前に出ることを決心し、どうか自分のために祈って欲しいと全イスラエルに頼みます。その結果、エステルは神からの力によって王に近づき、ユダヤ人は虐殺の危機から救われ、逆に虐殺を企てていた大臣が死刑になるという結末を迎えます。

   重要なことは、エステルは自分の弱さに気づいた時、神様に必死にすがって助けを求めたということです。それによって、神から力をもらい、望みにあふれて大胆に王に近づき、ユダヤ人の命を救うことができたのです。私達は皆、現実の問題にぶつかると恐れおののく弱い存在です。それが人間の本来の姿です。なぜなら、神は人間を単独では何もできない存在として造られたからです。その自分の姿に気づく時が、神様に助けを求めるチャンスです。神に助けを求める時、聖霊の力が働いて望みがあふれるのです。

   もし今望みにあふれていないなら、神を信頼していない自分を認めましょう。どこかで自分の力により頼もうとしていることを認めましょう。もちろん、自分がなすべきことはきちんと行わなければなりませんが、心は神を信頼しましょう。自分は神なしではどうすることもできないと気づき、神により頼むならば、必ず神の力にあふれ、望みがあふれるようになります。あきらめず、心を神に向け続けましょう。