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2013年9月29日
『弱さとは何か』
(新約聖書 ローマ人への手紙 15:1〜7)
『私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、あなたの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 15:1〜3)

   強い者は弱い者の弱さを担って助けるべきです。しかし、誤解してはならないのは、私たちは皆、例外なく誰かの助けを必要とする弱い存在だということです。それぞれ誰かを助けることのできる働きが異なり、その働きの違いによって、強い弱いという言い方をすることはありますが、すべての人は互いに助けを必要とし合う存在です。
   日本語の「弱さ」という言葉にはネガティブなイメージがあり、弱いことは恥だと思いがちです。しかし、ここで「弱さ」と訳されているギリシャ語「アスセネイヤ」は、本来の姿を失っていることから来る「無力」を表し、「病気」と訳されることもあります。福音を正しく理解するために、この言葉の理解には注意が必要です。
   聖書で「弱さ」という場合、「人はひとりでは生きられない存在である」という性質を表しています。神は私たちを地のちりから造りましたが、それだけでなく、神の命の息(霊)を吹き込まれました。つまり、人間は肉体と霊(魂)を持っており、神と結びつくことで、初めて人として生きる存在となるように造られたのです。神なしに生きることはできない、これが聖書が教える弱さです。また、ひとりでは生きられないという性質は、神ご自身の持つ性質でもあります。神ご自身も三位一体という互いに結びついて存在している方なのです。
   木の枝は、一度幹から切り離すと、どんなに手を尽くしてもやがて枯れてしまいます。枝が生きるただ一つの方法は、もう一度木に接木することです。そうすれば、元の木が生きる限り、枝も生きられます。神の命によって造られた私たちも、この世のどんなもので手入れされてもいつかは滅んでしまいます。私たちが生きるただ一つの方法は、神につながることです。これが救いです。
   アダムとエバが蛇に騙されて罪を犯し、神とのつながりを壊してしまった時に、神はアダムに、あなたがたの体はちりに帰ると言われました。これは、神との結びつきが断たれ、滅びるしかなくなったことを表しています。
   この罪の結果、人は生まれながらにして本来結びつくべき神との関わりがない状態で生まれて来ます。このことを、よく原罪という言い方をします。人は一人では生きられないこの弱さによって、人や物にしがみつこうとします。これは、いわば神の代用です。
   人にしがみつくとは、人によく思われて生きることで心の安定をはかろうとする生き方です。子どもは人に喜ばれたい、期待に応えたいと思って生きるものですが、大人になっても周りの期待に応えて生きることで、弱い自分を補おうとしているのです。また、体も神との結びつきを失って滅ぶものとなりましたから、本来生きるための人の欲が、物質的な結びつきを求めることに用いられます。これらはすべて、神との結びつきを失って、私たちの弱さがそのまま露呈しているために起きている現象なのです。

   神と結びつき、神と共に生きるのが、人間の本来の姿です。神の願いは、私たちがその本来の姿に戻ることです。そのために、まず互いに助け合い愛し合う関係を築くように、と教えられているのです。
   人間の体は、すべて脳からの指令によって動きます。体の部分が他の部分の痛みを補ったり働きを補ったりするのは、脳という一つの思いにつながっていることによるものです。私たちがキリストという一つの思いにつながって生きるようになると、互いに一つの体として愛し合う関係になります。逆に考えれば、聖書の教える通り、自分のためだけに生きることをやめ、愛し合うことを始めようとするなら、どうしてもキリストとの結びつきを強めることが必要です。クリスチャンとなり、神との関係を回復しても、神との結びつきの強さはひとりひとり異なります。片手で神にしがみつき、もう片手で富を握っているようなクリスチャンは、神との結びつきは弱いものです。ですから、神との関係を回復したクリスチャンは、次に、富につないでいる手を放し、神にしっかり結びつくことを目指すべきです。そのために、互いに愛し合うことを教えているのです。

『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:25〜27)

   人は、様々なものにしがみつくことで一時的な満足を得てもまた虚しさを感じる経験を繰り返して生きています。私たちは神とつながって初めて安定を感じるように造られているので、つながっているものが神ではないと虚しさを感じるのです。
   偽りを捨て真実を語るとは、さばき合ったり怒り合ったりしないで、隣人に対して誠実であるようにということです。私たちはつながりの中で初めて存在できる存在なので、隣人をさばいたりすると自分がつらくなります。それが悪魔の策略です。悪魔は私たちを神と逆の方向に向かせようとして、互いにさばき合って不誠実に生きるように誘導しているのです。

   多くの人が弱い自分を恥じ、弱さは罪だと思っています。しかし、「弱さ」とは人間の性質であって罪ではありません。罪とは、弱さの結果、何を選んだかによるものです。
   例えば、お腹がすくことは人間として当然のことで罪ではありませんが、それを満たすために、盗んだものを食べれば罪になります。体に対して間違ったものを食べれば病気になります。つまり、罪とは弱さそのものではなく、間違ったものを選択することです。正しいものを選択するためには正しい基準が必要です。判断の基準が狂ってしまうと、罪を罪だと思わなくなります。
   聖書は私たちの弱さに神以外のものをあてがうことを罪、あるいは偶像礼拝と呼んでいます。心を満たすために神以外のものを選び、これさえ持っていれば幸せと思うことが罪なのです。
   繰り返しますが、弱さは罪ではありません。むしろ弱さは、正しい選択をしさえすれば、神の恵みが働くところだと聖書は教えています。パウロは、私が弱い時にこそ私は強いから、私は自分の弱さを誇ると言いました。弱さがなければ私たちは神と結びつくことができません。ですから、弱さは恵みなのです。しかし、何かにしがみつこうとする弱い人間はダメな人間だと思っています。しがみつくことが問題なのではなく、間違ったものにしがみついていることが問題なのです。

『昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 15:4〜7)

   昔書かれたものとは、旧約聖書のことです。新約聖書は、旧約聖書を土台とし、その理解の延長上に存在します。ともすると、新約の神は愛の神で、旧約の神は怖い神と誤解されがちですが、旧約においても新約においても、神は同じ神であり、同じ愛によって関わってくださいます。
   神は、私たちが一つとなって本来の姿を回復し、父なる神を褒めたたえることを望んでおられます。神の戒めは、神を愛することと人を愛することの二つに要約されますが、それによって本来の姿を取り戻していくからです。旧約聖書が私たちに与えようと教えている希望とはどのようなものかを学んでいきましょう。


「ノアの箱舟」

『昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 3:20〜21)

   ノアの箱舟の出来事を通して、「神は言うことを聞かない者を滅ぼす怖い方」という姿を想像される方がいますが、それは、聖書が本当に教えている神の姿とは真逆な姿です。ノアの箱舟は、何があっても神は助けてくださることを示している恵みの型なのです。
    ノアの箱舟は、私たちがどんなに罪深く汚れていようとも、神を信じる信仰があるなら、神は救ってくださるという神の愛を示しています。ノアの家族は、大洪水の中、舟に乗り、助かりますが、それは、希望を示した型なのです。罪の汚れを取り除き人を滅ぼすということを教えているのではなく、神は信仰によって人を救われるという、希望を示した型なのです。
   親に叱られる経験が多かった人は、自分の親と同じように、神を怖い方だと思ってしまいます。しかし、神が人と関わる関わり方と、人が人と関わる関わり方とは全く違うことを示すため、神はご自分の関わりを一方的な愛をもって関わる「アガペー」という言葉を用いて説明されました。人が愛だと思っているギブアンドテイクの愛、「フィリア」という言葉は使われませんでした。神は何があっても助けることを描いた出来事なのです。ノアの出来事は、その「アガペー」の愛を示す出来事なのです。


「アブラハム」

『アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:6〜8)

   アブラハムのように、立派な行いができなければ救われないと思った人たちがたくさんいました。しかし、そうではありません。アブラハムの生涯は、信仰によって救われることを示した型です。これは、私たちに希望を持たせるために書かれた出来事です。


「モーセ」

『そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。』(新約聖書 コリント人への手紙 10:1〜4)

   イスラエルの民が、エジプトの奴隷となっていた時、神はモーセを遣わし、彼を通して、イスラエルの民をエジプトから脱出させました。その際、彼らは、紅海が真っ二つに裂け、その中を通って、救われました。これは、今日のバプテスマを象徴した出来事です。これは、今日、罪の奴隷として生きている私たちに示された、救いの型なのです。神は、罪の奴隷となっている私たちを、イエス・キリストを信じる信仰によって解放してくださいます。


「いけにえ」

『この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行って咎を覚えるようになる、どのことについても赦される。』(旧約聖書 レビ記 6:6,7)

   「いけにえ」を通して罪が赦されるという考え方は、今も昔も全く変わりがありません。旧約時代、罪を犯した人は、祭司の所に羊を持っていき、それを神に捧げることで、その人の罪は赦されました。これは、私たちに罪が赦されるという希望を持たせるためでした。
   今日、私たちは、罪が赦されるために、動物のいけにえを捧げるようなことはしません。なぜなら、イエス・キリストが、十字架に掛かり、ご自分をいけにえとしていのちを捧げられたからです。イエス・キリストといういけにえは、ただ一度で、永遠に有効な捧げ物として捧げられました。それにより、私たちの罪は全て赦されました。だから、あなたがたの罪は何であっても赦されるから、その赦しを受け取りなさいと主は語っておられます。
   旧約時代に捧げられていた「いけにえ」は、イエス・キリストが十字架に掛かり、私たちのためにいけにえとなってくださることを示した型でした。

『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 9:11,12)


   このように、聖書は、私たちに希望を持たせるために書かれました。旧約の時代から、神は変わらぬ愛を示し続けられました。人々がどんなに罪を犯そうと、何をしようと、神は誠実を尽くし続けたという事実を旧約聖書を通して知る時、私達の主を信頼する信仰が励まされます。

『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。』(旧約聖書 エレミヤ書 31:3,4)

   神は私たちをさばくために来られたのではなく、救うために来られたのです。私たちは、神との結びつきを失うと、弱い者です。ですから、神との結びつきを強めることで、心の平安を取り戻し、歩んでいきましょう。

『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:17)