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2013年9月8日
『さばいてはならない』
 (新約聖書 ローマ人への手紙 13章11節〜)
   神の救いは、神の恵みによるものです。人間の努力によって救われることはありません。すべてのことは神から発し、神によって成り、神にいたります。ですから、すべてのことを神にゆだねて生きましょう。
   神にゆだねる具体的な生き方の第一は、権威に従うことです。見せかけではなく、真心から権威に従うためには、神は必ず良い方に導いてくださるという神への信頼が必要です。それは、自分がどれほど神に愛されているかを知るところから始まります。   では、さらに、神にゆだねる具体的な生き方の続きを学んでいきましょう。

・「死に備えた生き方」

『あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 13:11〜14)

   イエス・キリストを着るとは、主を信じ受け入れることと、主を信頼して信仰を増し加えることの二つの意味があります。
   人間は、いつ死が訪れるかわかりません。私たちは、それに備えた生き方をしているでしょうか。
   イエス・キリストを受け入れる決心が出来ていない人は、先延ばしにせず、イエス・キリストを信じる決心をしましょう。行いで救われる人はいません。死後、天国に入るためには、造り主なる神イエス・キリストを信じる道しかないのです。
   クリスチャンにとって死の備えとは、主への信頼を増し加えることです。主はタラントのたとえ(マタイ25:14)によって、ひとりひとりに与えたタラント(信仰)を増やすことを教えています。
   「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)とあるように、正しい方向を向き信仰を育てることが、クリスチャンの生き方であり、死への備えとなります。

『そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:28)

・「さばかない」

   続くローマ14章のテーマはシンプルです。それは、さばくなということです。なぜ人をさばくことは良くないのでしょうか。

『あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:1〜5)

   「食べる」とは、単なる事例であって、要するに、その人の行いをさばいてはならないということです。
   それは、すべての人が主によって受け入れられているからです。自分の主人が受け入れているというのに、しもべである私達に人をさばく権利などあるでしょうか。神は、すべての人を造り、愛しておられます。本人が主を受け入れないために救われていない人もいますが、神がその人を拒否しているわけではありません。
   ここでの事例は「日」と「食物」についてですが、例えば、クリスチャンになっても、以前の習慣によって友引や大安を気にする人がいても、さばいてはなりません。クリスチャンでなくても、全ての人は神が造った神のしもべですから、さばいてはなりません。さばくとは、自分は神よりも偉いとする行為です。


『日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 14:6)

   重要なことは、神に感謝する心があるかどうかということです。人の信仰はそれぞれ成長するものであり、信仰の幼い時は、行いに縛られて「神に喜ばれるためには○○をしてはいけない」などと考えがちですが、信仰が成長すると、神の愛がより深くわかるようになり、行いではないことがわかってきます。けれど、いずれの場合も、心が神に向いていることに変わりありませんから、どちらも信仰で行っているのです。私達は、それぞれの人が信仰で行っていることをさばいてはいけません。大切なことは何をするかではなく、その人の心が神に向いているかどうかです。
   神にゆだねるとは、判断のものさしを変えることです。行いで判断する生き方をやめ、信仰のはかり(ローマ12章)を用い、神に感謝する心を持ちましょう。行いに気を取られると、本質を見失う危険性があります。神に感謝する心があれば良いのです。

・「何のために召されたのか」

『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:15)

   神は何のために私たちに命を与え、何のために救ったのでしょうか。私たちは、何のために生きているのでしょうか。これが理解できないとクリスチャン生活は先に進むことができません。
   私達が救われた第一の理由は、キリストの平和が心を支配するためです。
   キリストを知る前まで、私達の心は見えるものに支配され、見えるもので満足してきました。見えるものとは、人との関わりや富のことです。人との関わりで心地よい言葉を得ようと、人から良く思われるにはどうすればよいかに気を遣って生きてきました。これが世の心づかいというものです。
   私たちが世の心づかいや富で心を満たそうとする背景には、死の恐怖から生まれる不安があります。死とは、命である神から断絶した状態であり、その不安から人は何かにしがみつかないと生きていけないのです。こうして、見えるもので心を満たそうとすることを、聖書は肉の思いと呼んでいます。
   この肉の思いによって、私達は人をさばくのです。人をさばくのは肉の思いに支配されている結果です。頑張っても一生懸命やっても心地よい言葉が得られない時、期待した物が手に入らないために、私たちは人をさばきます。また、心が飢え乾いている時、人をさばいて人の上に自分を立たせることで、自分は偉いんだと、自分の言葉で自分を満たそうとしているのです。さばくとは、人の言葉を食べることであり、見えるもので心を満たそうとする行為です。
   しかし、見える物は一時的な満足をもたらすことはできますが、不安・つらさという副作用を伴います。いつも周りが気になったり、望むものが手に入らないと怒ったりするのです。人は快楽によってこの不安や怒りを紛らわそうとしますが、快楽は一時的に痛みや不安を忘れさせ、ごまかすだけで解決にはなりません。
   キリストの平和があなたを支配するとは、この生き方をやめることです。これまでの生き方をやめ、神との関わり・キリストの言葉を通して満たされるために、あなたは召されたのです。それなのに、救われたあとも、以前と同じ食事、人の言葉を求めて生きていないでしょうか。そのような生き方は、もうやめる決心をしましょう。

   第二に、私たちが召されたのは感謝する人になるためです。感謝する心は、神を信頼する心です。そのために神の言葉を食べ、行いではなく、感謝する心を手にすることがどれほど大切かを体験しましょう。
   聖書は、どんなに立派な行いも、神を愛する心がなければ、何の役にも立たないと教えています。また、イエス様は、どのような人に対してでも、同じように愛されました。神の恵みの中に生きることを本当に理解するなら、さばくことはできません。神にゆだねるとは神の言葉を食べることであり、さばくことをやめることです。
   では、どのようにしたら感謝する心を持つことができるのでしょうか。聖書はさらにそのことを具体的に教えています。

『あなたがたのすることは、ことばによる行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:17)

『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:23)


   さばく心と感謝する心は、心の中に同時に存在することはできません。感謝する心を大きく育てていけば、自動的にさばく心は消えていきます。感謝する心を育てるための秘訣は、すべてのことを神に対してするようにするということです。
   私たちは、神に対する態度と人に対する態度を変えてはいないでしょうか。態度を変えることをやめると、人をさばくことはなくなります。
   イエス様も、あなたが小さな者の一人にしたことは、私にしたことと同じだと言われました。人に対してすることと、神に対してすることは同じです。神をさばくことは良くないことです。感謝の心を目指しましょう。あなたはそのために召されたのです。

『互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:13)

   第三に、私たちが召されたのは、互いに赦しあうためです。さばくためではありません。あなたは神に赦されたのですから、他の人のことを赦しましょう。
   私たちは主に対して悪いことをしてきましたが、十字架によって、過去の過ちはすべて不問に付されました。主は私たちを一切さばかず、自分の命と引き換えに、罪を赦してくださいました。神があなたを救ってくださったのだから、人があなたに対してする罪も赦しなさいと主は言われました。

   神が私たちを召した目的は、平和に支配され、感謝の心を持ち、他の人を赦すためです。このことを一言で表すと、「さばかない」ということになります。さばくことは神の目的をことごとく潰すのです。
   なぜさばいてはいけないのか、それは神の召しに逆行するからです。神が私たちを幸せにしたいと願っても、木が実をならすたびに、自分でその実をつんで捨てるようなものです。
   そして、忘れてはいけないことは、自分自身をさばいてもいけないということです。神はあなたを良き者として受け入れているのです。私達も、互いに良き者として受け入れ合いましょう。