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2013年8月25日
『私たちは一つのからだ』

(新約聖書 ローマ人への手紙 12章4節〜)
『というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:36)

   人間が救われて天国に行くために必要なのは良い行いではなく、神を信じる信仰です。その信仰は神が与えてくださるものであり、一度救われた人の救いは取り消されることはありません。つまり、人間が何かを行うことで救われるのではなく、ただ神の恵みによって救いは成し遂げられるのです。ですから人間は、救いを目指して生きるのではなく、救いを受け入れ、神を信頼し愛することを目指して生きるものなのです。

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:1)

   霊的な礼拝とは、神にゆだねる生き方です。ゆだねるとは、何が起ころうとも、神なら益にしてくださると信じ、神に対して期待し続けることです。何か否定的なことが起きた時に、これが神の意思なのだろうと、期待せずにあきらめるのは、神にゆだねているのではなく、否定的な自分の肉の思いにゆだねているに過ぎません。
   神はすべてのことを働かせて益とし、神に至らせると約束しているのですから、どんな時も神は助けてくださるという希望を持つことが、神にゆだねるということです。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

   自分が期待しない結果になった時、ゆだねたのだから仕方がないと思うか、神はこれを益に変えてくださると感謝するかの違いです。ゆだねる生き方には感謝が伴います。
   私たちは、神にゆだねるしかない存在です。ゆだねるとは具体的にどのようなことか学んでいきましょう。

『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:4,5)

   人間は一人一人バラバラに生きているように見えますが、実はそれぞれが神の体の器官として何らかの役割を担っています。ゆだねるとは、そのことに気づくことです。自分はキリストにあって他の人々と一つの体を共有している一部分だと気づくことで、神にゆだねられるようになるのです。

『私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:6,7)

   人はそれぞれ役割が違いますが、それは働きの違いであって、価値の違いではありません。体には、大きな働きを支える小さなパーツが無数にあり、それぞれが協力し合って一つの体として生きています。そのことに気づかず、「自分はダメだ、いてもいなくても同じ、価値がない」と思ってしまうと、心が神から離れてしまうのです。なぜなら、神はそのような見方をなさらないからです。
   私たちは、自分と隣人くらいしか見えない狭い範囲の中で、人の行いや裏側ばかり見ては、価値がないとか醜いとか思ってしまいがちですが、神にはすべての面が見えており、信仰の量りだけで人をご覧になります。神の目には私たちは高価で尊い、私たちは神の作品だと聖書に書かれています。神にとって私たちは美しい最高の作品なのです。
   私たちがキリストの体の一部であることに気づき、一人一人自分の賜物に気づくことが、それぞれが自分の役割を果たして感謝できる生き方につながり、神を信頼してゆだねることにつながっていくのです。

『愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:9)

   キリストの体のパーツである私たちを結ぶのは信頼関係です。もし互いに偽り合う関係で結ばれていたら体は機能しなくなります。私たちは、ひとつ体なのですから、愛に偽りがあってはなりません。愛することがゆだねることのスタートです。

『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:10)

   愛とは、互いに尊敬し合うところから始まります。この人はなくてはならない大変重要な人だと認識することです。それがないために、自分にとって気に入らないと人を裁き、自分が気に入らないと自分を裁くのです。

『勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:11)

   愛とは、私たちが生きている世界で、すべきことをきちんと行い、神に仕えることです。聖書は、目に見える兄弟を愛せない者は神を愛することができず、目に見える権威に従えない者は神に従えないと教えています。ですから、まず目に見えるこの世の中でやるべきことをやり、そして神に奉仕しなさいと教えているのです。

『望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:12)

   愛とは、どんな状況にあっても神に対して期待することです。愛とは信頼することです。信頼とは、神がすべてを益とするということを期待することです。どんな過去であろうと私たちが神に期待するならば神はそれを益としてくださいます。これが愛であり、ゆだねるということです。過去を振り返ったり、現実を見て失望したりするのではなく、神に対して信頼し期待する信仰を持ち続けることです。

『聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきでああって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:13〜15)

   愛とは、お互いに困っていることがあれば助け合い、たとえ敵であっても祝福することです。そして、お互いに問題を共有し合って、祈り合って助け合いましょう。

『互いに一つ心となり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:16)

   身分の低い人とは、目立たない人という意味です。人間は、目立つ者に心奪われて交わりを持ちやすいものですが。むしろ目立たない人を大切にしなさいと聖書は教えます。神は99匹の羊をその場に置いても、1匹を探しに行く方です。目立たない人こそ大切にし、友達になって共に生きていく、それが社会全体にとっても大切なことです。
   歴史を見ても、例えば第二次世界大戦の折、能力の高い人を優遇し、弱い立場の人々が虐殺された国が実際にあります。しかし、そのような国づくりは結局うまくいかなかったのです。反対に、目立たない人・立場の弱い人を守ろうと国づくりをして成功した例は多くあります。歴史を人間の心理の面から見るとこのように捉えることもできるのです。

『だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:17,18)

   すべての人に対して良いことを行うとは、誰に対しても愛を持って接し、差別してはならないということです。みんなが望んでいることをあなたがやりなさいという意味ではありません。みんなが望んでいるからといって間違った方向に進んではなりません。

『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:19)

   私たちは最終的にすべてのことを神にゆだねなくてはなりません。その中でも、私たちが最もゆだねることが難しいのは復讐です。復讐する思いを神に委ねるのはなかなかできることではありません。その復讐すらゆだねなさいと教えられているのですから、これだけはゆだねることができない、というものを残しておいてはなりません。

「復讐について 3ステップ」

1.負けて悔しい

   まず人生において、勝ち負けという発想がナンセンスです。私たちには役割の違いがあるだけで、勝ち負けはないからです。それなのに、単純に能力を比較し、負けていると思うと悔しい・・・それが怒りです。復讐の火種です。
   旧約聖書にカインとアベルという兄弟の話があります。アベルの捧げ物だけが主に受け入れられた時、カインはアベルに負けたと勝手に思い込んで、アベルを殺してしまいました。このように復讐の始まりは比較です。
   比較は、切磋琢磨のために必要だと考える人もいますが、そうではなく、むしろ怒りを育てているのです。

2.傷つけられる経験

   言葉で傷つけられたり虐待を受けたりすることで、相手を傷つけてやろう、同じ目に合わせてやろうという思いがわきます。

3.奪われる経験

   愛する者、大切にしているものを奪われる経験は、許せないという思いを生みます。この最たるものが戦争です。イスラエルとアラブの戦いは、アブラハムにまで遡ります。お互いに兄弟の命を奪った相手を許すことができないために、今も中東諸国は緊張の中にあります。

   しかし、このような復讐の思いすら、神にゆだねなさいと主は言われます。キリスト教の教えで最も衝撃を与えたのが、あなたの敵を愛しなさいという教えです。互いに愛し合い、赦し合うことにこそ、答えがあるのです。もし、復讐の思いに囚われたら、神にゆだねましょう。あなたが怒りを爆発させ、あなたが実行してはなりません。それは悲劇を生むだけです。むしろ、すべてを益としてくださる神にゆだねてください。
   このように、復讐という最もゆだねることが難しいものさえ、ゆだねるように教えられているのですから、人生の何事においても神にゆだねるしかありません。神はすべてを益としてくださるからです。
   ゆだねることを実行しましょう。もしできなくても、自分を責めるのではなく、できるように助けてくださいと祈りましょう。そうすれば、私たちはイエス・キリストの十字架の愛に触れることができます。キリストの愛に触れれば、私たちは人を愛するように変わっていきます。私たちはキリストの愛に触れることで、愛する者に変えられていくのです。