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2013年8月18日
『霊的な礼拝とは』

(新約聖書 ローマ人への手紙 11章33節〜)
『ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:33〜36)

   パウロは、神の計画が何と測り知りがたいものかと述べています。パウロは、何を測り知りがたいと言ったのでしょうか。
   一つは、人の救いに関してです。人が求めているものは、どうしたら人は救われるのか、どうしたら天国に行けるのかということですが、これに対して、神は、信じるだけで救われるという道を備えてくださいました。人はみな、行いが立派になれば救われると信じ、行いに励んで生きていますが、神が備えてくださったものはそうではありませんでした。パウロはまず、そのことに対して、何と測り知りがたいものかと言っています。
   また、二つ目は、すべてのことは益とされるということに対してです。先週のメッセージの内容になりますが、パウロの同国人であるイスラエルの民は、神を信じられずに倒れてしまいました。しかし、彼らは倒れるために倒れたのではありませんでした。彼らが倒れることで、この世界には福音が広がりました。そして、彼らも、倒れたことを通してまた起き上がることができます。このことは、私たちの人生においても言えます。神は、倒れた者を倒れたままにはされず、起こしてくださいます。人は失敗したら、これで人生はお終いだと思うかもしれませんが、神はすべてをひっくり返すことができます。パウロは、この事に対して、つまり、すべてのことが益とされる、その偉大な計画に対して、何と測り知りがたいことかと述べたのです。

   パウロは、このような神の測り知りがたい計画を思うとき、すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至っていることを知ると述べています。すべてのことが私たちから発し、私たちの努力でなるのなら、それは私たちにとって大きな重荷となり、絶望にしかなりません。しかし、すべては神から発しているということには、大きな希望があるのです。

『また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:35)

   この意味は理解が難しいので、解説しておきましょう。ここの言葉を直訳すると、「誰が先に何かを与えて、それで神から返してもらおう、報いを受けようとするのか」となります。
   私たちは、すべてのことは自分から発し、それに応じて報いを得るものだと信じてきました。ですから、日々、何かを頑張って相手からほめてもらおうとか、何らかの報いを受けることを期待する生き方をしています。この生き方は、一見すると問題のない生き方のようですが、実は、自分の願望を達成するために、相手を思いのままに操り、相手を利用する生き方なのです。つまり、すべてのことが自分から発していると思うと、私たちの生き方は人や周りを支配する生き方になってしまうのです。
   こういう考え方を持っている私たちは、当然、神との関係も同様に捉えます。何か良いことをすれば、神は見返りを与えてくださると信じてしまっています。それゆえ、人は、行いに励むことで神の歓心を買い、神が頑張っている自分に、ご褒美として自分の要求を叶えてくださることを期待してしまうのです。
   しかし、聖書は、すべてのことは、神から始まると教えています。私たちから何かを発し、神がそれに応じてくださっているのではないのです。神が先に私たちに祝福を与えたいと思われるから、人は祝福を受けられるのであって、私たちから発したことは何一つないと教えています。ですから、私たちは、神に要求を突き付けられる存在ではなく、神にただ感謝する存在なのです。
   このように、すべてのことは誰から発しているのかということを考え違いしてしまうと、人は神をも支配しようとしてしまうのです。ですから、聖書は次のように教えています。

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:1)

   御言葉は、すべてのことは神から発しているから、神にゆだねなさいと教えています。あなたから何かを発して神に要求する生き方ではなく、神にゆだねる生き方をしなさい。それが霊的な礼拝だと教えています。
   私たちは、礼拝というと、賛美をし、御言葉を聞き、献金をする、この一連の儀式が礼拝だと思っていますが、聖書が教える霊的な礼拝とは、自分を神にゆだねることなのです。では、神に信頼してゆだねる霊的な礼拝をするにはどうすればいいのでしょうか。

・霊的な礼拝(神に信頼してゆだねる)をするには?

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2)

1.この世と調子を合わせない

   神を信頼して神にゆだねるには、まず第一に、この世と調子を合わせないことです。人がこの世と調子を合わせる(みんなが右と言うなら右にする)のは、良く思われたいからです。みんなと違うことをいうと変だと思われるから、調子を合わせるのです。人から良く思われたいのは、見えるもので安心を得ようとするからです。このようなこの世と調子を合わせる生き方をやめなければ、神に信頼しゆだねることはできません。

2.心(価値観)の一新によって自分を変える

   次に御言葉は、心の一新によって自分を変えるように教えています。心とは「価値観」を指します。つまり、自分が持っている価値観を変えること、それが自分を神にゆだねる霊的礼拝になります。
   では、価値観を変えるとはどういうことでしょうか。この世には、色んな価値観が存在しているようですが、この世の価値観には、共通項があります。それは、うわべ(見えるもの)に価値を置くという共通項です。人は、人の価値をうわべ(見えるもの)で判断するので、人をさばきます。さばく内容は、その人が目標にしている内容です。ある人は肩書き、ある人は行い、ある人は容貌、そのことを重んじているから、それができない人を見るとさばくのです。ですから、さばくという行為を通して、その人が、人の価値をうわべ(見えるもの)で判断していることを知ることができます。また、人はみな、なぜかお金を大切にし、お金を愛します。それは、お金という見えるものに価値を見いだしているという証拠です。
   こうしたうわべ(見えるもの)で価値を判断する肉の価値観を変えない限り、私たちは自分を神にゆだねることはできません。なぜなら、神の価値観と私たちの価値観は全く異なるからです。
   聖書は、神の価値観が書かれています。姦淫の現場で捕まった女性に対して、イエス様は何と言われたでしょうか。罪に定めないと言われました(ヨハネ8:3〜)。また、イエス様は、この世で嫌われる人たちと積極的に交わりをされました。しかし、イエス様は、彼らをうわべで判断されませんでした(マルコ2:15〜)。また、イエス様は、労働者のたとえ話で、一時間働いた人も、八時間働いた人も同じ賃金を支払うと言われました(マタイ20:1〜)。
   このように、明らかに、私たちの価値観と神の価値観は違います。神は、見えるもので人の価値を判断しないという価値観です。神は、能力や行いではなく、その人が神を愛するか信頼するかどうかだけをご覧になります。神は、私たちが神を信じるなら、その人を正しいとすると言われました。神はそれしか見ていません。神は、その人を天国に連れて行くと言われました。
   しかし、私たちは神の価値観で人を見るということをしません。この価値観を何とかしない限り、自分自身を神にゆだねることはできないのです。

・では、価値観を変えるにはどうすれば良いのでしょうか?

   人の価値はうわべ(見えるもの)にはないと分かっても、そう簡単に価値観は変えられません。なぜなら、私たちの価値観を支えている土台は、死の恐怖だからです。死の恐怖がある限り、うわべ(見えるもの)の何に価値を置くかという価値観を変えることはできても、うわべ(見えるもの)に価値を置くという根本的な価値観を変えることはできません。これは、死の恐怖を取り除かなければ、変わらないのです。
   では、死の恐怖はどうすれば取り除くことができるでしょう。それは、十字架の愛を経験することです。その愛が恐れを締め出してくれます(Tヨハネ4:18)。
   では、どうすれば十字架の愛を経験できるのでしょうか。それは、自分の罪を認め、神にそれを言い表すことです(Tヨハネ1:9)。そうすれば、十字架の愛を経験でき、自然と価値観は変えられます。
   しかし、人はみな、自分はそんなに悪い人間だと思っていないため、神にあわれみを求めません。神は人に自由な意志を与えられましたから、人は自分の意志で神にあわれみを求める必要があります。そこで、神は、何とか人が神にあわれみを求められるように、聖書という助けを用意されました。聖書は、すべての人を「罪人」として定めます。なぜなら、聖書の教えは「愛する」ことに集約されますが、その愛は実に崇高で、とても人には行えるようなものではないからです(Tコリント13章)。ですから、御言葉に従えば従うほど、人は愛のなさに気づき、罪を意識するようになります。こうして、神は、人が自らの意志で神にあわれみを乞い、間違った価値観から解放されるように導いてくださいます。

   私たちは、誰でも、十字架の愛を受け取ることができます。自分がいかに罪深いかに気づけばその愛を受け取れるのです。自分がいかに罪深い人間かと知れば、そのような者に対して、神が高価で尊いと言ってくださる言葉が、どんなに愛に満ちたものかを受け止めることができるようになります。こうしたキリストの十字架の愛に触れるとき、うわべ(見えるもの)に価値を置いていた価値観は変えられます。聖書は、価値観が変わる方法を、これしか教えていません。心理学的にもそれしかあり得ません。このように、死を滅ぼした十字架の愛を経験しない限り、価値観は変わらないのです。

   イエス様は、パリサイ人と取税人の祈りのたとえ(ルカ18:9〜)で、わたしが正しい人と認めるのは、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈った取税人の祈りだと言われました。神の目で見る正しい人というのは、神に心を向け、あわれみを求める人のことを言います。これが、神にゆだねるということです。すべてのことは神から発し、神によってなり、神に至るから、神にゆだね、神にあわれみを求める人を神は認められるのです。

3.信仰の量りで見る

『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:3)

   霊的な礼拝(神に信頼しゆだねる)をするための三番目は、思い上がらないようにすることです。思い上がらないというと、上から目線とかそういったことを想像しますが、聖書が言っている思い上がりとは、信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしないことを指します。
   信仰という量りで物を見ないとどうなるでしょう。例えば、私たちは、うわべを見て、人を批判したり、裁いたりします。それは信仰で見ていないからです。聖書は、私たちを良き者だと教えているにもかかわらず、それを信仰で信じようとしないから、人をさばいたり、自分をさばいたりしてしまうのです。信仰の量りで見るということは、聖書の言うとおりだと100%信じられることをいうのではなく、御言葉に照らし合せて自分を見ることをいいます。ですから、神が良き者だと言われることを信じられなければ、信じられないということを素直に祈ればいいのです。信じられないということを神の前に告白すればいいのです。信じられない私をあわれんでください、実行できない私をあわれんでください、そう素直に認めることです。これが、信仰の量りに応じて見るということです。
   このように、思い上がらない生き方とは、信仰の量りを使って、自分はどうなのかということを正直に認め、神に祈る生き方です。私たちは、困難や試練にぶつかると、多くの場合、あきらめてしまいます。今まで自分が経験してきた事柄と照らし合せて、こんなのはやめた方がいいと、勝手に判断してしまいます。これも思い上がりです。なぜなら、聖書は試練にあったら喜べと言っているからです。何もあきらめたりすることはありません。とかく、思い上がりというと、ただ見た目傲慢な人のことを言っているようですが、聖書がいう思い上がりとは、このように信仰の量りに応じたものの見方をしないことをいうのです。
   私たちは、聖書が教えるこうした三つのことを通して、霊的な礼拝をささげることを目指していきましょう。