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2013年7月28日
『律法の義と信仰の義』
(新約聖書 ローマ人への手紙 10章1節〜)
『兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:1〜4)

   パウロは、同胞であるユダヤ人の救いを切に願っています。ユダヤ人は、神に対して熱心でしたが、正しい知識に基づくものではなかったので、見当違いな熱心でした。彼らはこの世の常識で神の律法を理解してしまったために、律法の行いを達成しなければ救われない、と誤解してしまったのです。
   この世では、人に認めてもらうためには、自分が価値ある人間であることを証明しなくてはなりません。そこでユダヤ人も、神の国に入るために、それにふさわしい人間であることを証明しなくてはならないと考え、律法の行いを頑張って実行することで、神に認めてもらおうとしました。それが、自分自身の義を立てるということです。
   神は確かに、救いに導くために、イスラエルに律法をお与えになりましたが、それは、律法を通して自分の罪に気づき、神を信じることで救われることを教えるためです。聖書は一貫して、行いによって義と認められるのではなく、信じる人が皆義と認められる、と教えています。イエス・キリストは、自らが十字架にかかって私達の罪を赦し、律法の行いを通してご利益を得ようとする間違った理解を終わらせてくださいました。

『モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:5〜7)

   この世の考え方を使って聖書を理解しようとすると、行いによって義を得ようという考え方になり、行いが人生の目標になります。それは、常に自分の行いに一喜一憂し、不安の中で生きていくことを意味します。どこまで頑張れば認められるのか分からず、悪い自分・ダメな自分は価値がないように思い、不安になります。
   しかし神は、私達の行いを認めて救ってくださったわけではなく、神の一方的な憐れみによって救ってくださったので、心配は不要です。これが信仰による義です。信仰による救いには不安がありません。
   聖書は旧約時代から一貫して、義は神によって与えられるものだと教えています。神がアダムとエバをエデンの園から追放した理由は、「自分の手でいのちの木から取って食べないように」、つまり、失ったいのちを自分の力で取り戻さないように、という意味です。
   神は、エデンの園を追放する前に、二人に着物を作って着せています。これは十字架の贖いを意味しています。救いを得るために、自分自身の力ではどうにもできず、神の憐れみにすがるしかありません。神が私たちを救うのです。神を信じるしか、人が救われる道はありません。
   ユダヤ人はその正しい知識がなかったために行いを頑張りましたが、何も手に入れることができませんでした。しかし、イエス・キリストを信じて救われた人は平安を手に入れることができます。

『では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:8〜10)

   「イエスは主」とは、イエスは救い主なる神だと信じることです。イエスを神であり救い主だと信じることであなたは救われ、救い主と信じるならば、十字架にかかってよみがえったことを信じる告白ができる、と言われています。これがキリスト教の信仰告白と言われるもので、それを信じて告白するならば、あなたは救われており、何も心配いりません。

『聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:11〜13)

   このように、行いではなく信仰によって救われること、すなわち、神が私たちを救ってくださることを、神の義といいます。それに対して、自分の力で救いを手にしようとすることを、律法の義・行いの義という言い方をします。
   救いとは、自分の手で勝ち取るものではなく、信じさえすれば救われるのです。神が私たちを救ってくれるという、神の義は、キリスト教の重要な教えです。この救いの意味がわかると、「すべてのことを感謝しなさい」という聖書の教えを理解することができます。
   反対に、救われた意味がわからないと、神への感謝がわからないことになります。聖書が教える救いとは、どういうことでしょうか。


「聖書が教える救いとは」

1.御霊なる神が私たちの中に住まわれる

『けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:9)

   永遠のいのちとは、神のいのちです。御霊が私達のうちに住まわれるので、私達は永遠のいのちを持つようになったのです。つまり、救われるとは神が私たちの中に住まわれることです。
   聖書に、私達は神の神殿であると書いてあります。神を信じていなかった時は、本来住むべき方が住んでいなかったために、何をしても虚しく感じます。私達のうちに神が住まわれ、神と共に生きるようになると、どんなことも喜びになります。 時々、信じて救われたけど虚しいと言う方がいらっしゃいますが、それはうちに住んでおられる神様と交わりを持っていないからです。神と共に住んでいても、交わらなければ虚しいのです。

2.土台が据えられる

『というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:11)

   信じる者には、イエス・キリストという土台が心の中に据えられました。私たちはこの上に、自分の人生という建物を建てていきます。救われるとは、この土台が据えられることです。建物には必ず土台があります。神が据えた土台は誰も変えられません。他の物に差し替えることはできないのです。
   そこで、土台が変わったのだから、その土台にふさわしい正しい建物を建てなさいと、神は言われます。多くの人が、正しい土台になっても、間違ったものを建てていますが、それでは意味がありません。
   土台にふさわしい建物とは、神の言葉を食べて、神への信頼を深めていく建物のことです。そこから私たちは多くの平安の義の実をならすようになるのです。 あなたは、キリストという土台をいただいたのに、いまだに昔と同じ間違った建物を建てていないでしょうか。人からの評判を得ることや、富を通して平安を得ようとしてはいないでしょうか。
   たとえそのような建物を建てていたとしても、一度据えられた土台は誰も変えることはできません。つまり、救いは永遠であり、決して取り消されることはありません。神は一時的に共におられるのではなく、永遠に共に住んでおられます。この関係は誰も壊すことができません。

『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:28)

   あなたに土台があるかどうかを確認する唯一の方法は、イエスが主だと告白できるかどうかです。それを信じられるなら、あなたの救いは完全に保証されており、誰もそれを取り消すことはできません。
   この世は、どこまで頑張れば救われるのか、保証がありません。世の常識に立って救いを考えると多くのクリスチャンが不安を持ちますが、何も心配することはありません。御言葉に立つことが大切です。

3.神の国は私たちのただ中にある

『さて、神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』(新約聖書 ルカの福音書 17:20〜21)

   「神の国はあなたがたのただ中にある」とは、私達のうちに神が住んでいるのだから、私達の魂はすでに神の国に入っているということです。
   ヨハネの黙示録を読んで、終わりの時について心配するクリスチャンがいますが、何も心配する必要はありません。すでに私たちは死んで、神によってよみがえり、生かされているのです。
   私たちの中に神がおられるとは、もう何も心配しなくても良いということです。今は、肉体があるために、神はまだ見えませんが、終わりの時には朽ちない体になります。しかし、私達は、その時初めて神の国に入るのではありません。神と共に生きて神と共に暮らす魂が、今すでに私達の中にあるのです。
   私達は、イエスを信じた時点ですでに、魂が救われて、神によって義とされ、神の国に入れられて、神が共におられます。ですから、何があっても心配することはありません。この素晴らしい救いが、イエスを信じさえすれば、誰でも得られます。行いに左右されはしません。
   神の愛は私達が考えるよりも、はるかに強い愛です。何があっても、誰もあなたの魂に手出しすることはできません。この救いの意味がわかると、感謝して生きることができるようになります。
   私達が感謝できない時、腹を立ててしまう時、救われて神と共にいることがどれほど素晴らしいか、まだ気づいていないのです。
   神がすべてのことについて感謝しなさいと教えているのは、救いの素晴らしさ、神の恵み、神の愛の大きさを、もっと深く味わってほしいと願っているからです。それに気づけばすべてが感謝できるようになるのです。