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2013年7月14日
『事は人間の願いによるのではなく、 あわれんでくださる神によるのです』
(新約聖書 ローマ人への手紙 9章)

『私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:1〜5)

   パウロの悲しみと心の痛み、それは、同国人であるユダヤ人がイエス・キリストを受け入れなかったという悲しみです。
    神は、アブラハムの子孫を祝福し、神の律法を与え、この子孫から救い主が生まれると契約を結びました。この約束のもと、イエス・キリストが現れたのですが、彼らはイエス・キリストを受け入れませんでした。
   アブラハムの子がイサクであり、イサクにヤコブとエサウという双子が生まれ、ヤコブは後にイスラエルという名を与えられて、ヤコブの息子からイスラエル12部族ができました。しかし、12部族のうち11部族は消滅し、残ったのがユダヤ人です。パウロはこのユダヤ人でした。
   神ご自身が、ご自身を啓示し、律法まで与え、神がおられることを教えてくれたにも関わらず、同胞のユダヤ人の多くはキリストを迫害し、受け入れませんでした。パウロにとっての一番の苦しみは、同胞が救われていないことです。
   クリスチャンにとっての一番の悲しみは、同胞が救われていないことです。キリストを信じなければ、神の国には入れません。本当にイエス・キリストを信じて神の国に行けると信じているなら、一番に家族・友達が救われて欲しいと願うものです。私達は様々な問題に悩みますが、一番心を痛めるべき問題とは、家族・同胞が救われていないという悲しみです。

『しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:6〜8)

   ユダヤ人はキリストを受け入れませんでしたが、神がイスラエルに約束した約束が無効になったわけではありません。神の子どもとは、血肉によるものではなく、イエス・キリストを信じる者が神の子どもだからです。神の約束を信じる者が皆アブラハムの子孫であり、信じる者にその約束が適用されるのです。

『約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:9〜13)

   神はイサクが生まれる前、アブラハムの妻サラに男の子を与えると約束されました。また、イサクに子どもが生まれる時も、神は約束をして、双子の弟であるヤコブが長子の権利を得ると語り、その通りになりました。
   神は、生まれた人の中から、行いの立派な人を選んでいるのではなく、生まれる前からその人を選んでおられます。私達は、血肉によらず、行いによらず、神に選ばれて、救いに至っているのです。
   当時、ユダヤ人は割礼という儀式によって、神の律法を守る者だけが救われると考えていました。しかし、救いは、その人が生まれてから何をしたかという行いによるのではありません。血肉とは、血筋という意味と、生まれてからの行いという意味があり、私達は血肉によって神を知るわけではなく、神を知らないうちから救いに預かっているのです。神が初めからあなたを救いたいと願ったから、救われたのです。神の約束は無効になってはいません。

『それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:14〜18)

『というのは、全てのことが、神から発し、神によってなり、神に至るからです。道歌、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。』(新約聖書 ローマ人への手紙 11:36)


   神が私達を選び、救ってくださいました。すべてのことは、神が働いてくださったことによるのです。このことを3つの視点から考えてみましょう。

1.救いは神のされることです

   私達は、自分の行いや知識や勉強によって神を知るわけではなく、神が私たちを捕らえて信仰を与えてくださったから、神を信じることができたのです。私達の行いとは関係なく、神が捕らえてくださったのですから、救われた者を神が離すことはありません。
   自分の行いに自信が持てず、なぜ私が救われたのか、こんな自分が本当に救われたと言えるのか、と不安になる時も、この原点に立ち返るならば、心配する必要はありません。

『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」』(新約聖書 マタイの福音書 16:13〜17)

   「人の子」とは、イエス様がご自身を指すときによく使われる言葉です。ペテロはイエス様がキリストだと信じていましたが、それを明らかにしたのは神です。イエス様を信じられるのは、当たり前のことではなく、神があなたに教えてくれたことです。神が信仰を与えてあなたの心をつかみ、その人を決して離さないと約束しておられます。

2.神はあなたに計画・目的があります

『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:3〜6)

   神は、アブラハム、イサク、ヤコブそれぞれに計画を持っていらっしゃいました。神は私達一人一人に、生まれる前から計画があるのです。
   自分は何のために生きていくのか、この世は人生の目標があるようでないものです。大概の人は仕事が人生の目標だと思っています。しかし、神は一人一人に目的と計画を持ち、必要があって、私達を造っておられます。
   神は一人一人に計画があります。自分が何のために造られ、何のために生きるのかわかれば、人生迷うことなく生きることができ、誠の生きがいを見出すことができるのです。何と幸いなことでしょうか。

3.神にゆだねなさい

   事は人の願いによるのではなく、神によるのだから、神にゆだねましょう。私達は自分の命をのばすことなどできないのだから、そのような心配はやめて神にゆだねなさいと、山上の垂訓で主は語られました。私たちがなすべきことは、神を信頼することだけです。

『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 5:6,7)

   人間にとっての最大の敵は、自分の中に住んでいる強情な心です。自分の考えだけを正しいとする強情な心が、私達が神の前にへりくだることを妨げ、悔い改めを邪魔します。そんなことどうでもいいと言って、初めから聞き従おうとしない、かたくなな心を何とかしなければ、神の前に悔い改めることはできません。
   日本語で、悔い改めるというと、反省するという意味に捉えられがちですが、実は聖書には、罪を悔い改めるという言葉はありません。旧約聖書ではよく、神に立ち返るという言葉が使われますが、聖書で言う悔い改めとは、罪を反省することではなく、神に立ち返ることであり、神の前にへりくだることです。罪に気づくことで神に立ち返ることが目的であり、反省したり後悔したりすることが目的なのではありません。ユダはイエス様を売ったことを後悔しましたが、悔い改めず、首をつってしまいました。後悔ではなく、心を神に向けることが大切なのです。
   本当の悔い改めとは、神に心を近づけることであり、心に平安が与えられます。これが、神の前にへりくだり、思い煩いをいっさい神にゆだねるということです。
   ヤコブは、父イサクをだまし、双子の兄エサウのものであった長子の権利を横取りして祝福の祈りを受けました。その後、ヤコブは怒ったエサウから逃れて、おじの家に身を寄せ、結婚もし、豊かな財産を築きました。いよいよ故郷に帰るその時、ヤコブは、召使いを先頭に、次に家族を歩かせ、もし兄が襲ってきても自分は逃げられるように一番後ろに並びました。
   これは、ヤコブの心の不安を表しています。ヤコブはそれまでも神に祈っていましたが、どちらかと言うと、自分のために神を利用し、神に助けを求めて祈っていただけでした。どうしたら自分が幸せになるか、どうすればいいかを祈っていただけで、神に心を向けていたわけではなかったのです。しかし、ついに不安に行き詰まり、神に心を向けて祈りました。
   ヤコブは、自分を祝福してくれるまで離さないと神にしがみついた時、彼の腰のつがいがはずれ、砕かれました。ヤコブは初めて神の前に立ち返り、悔い改め、初めて神の顔を見たとあります。初めて心が神に向き、誠の平安を手にしたのです。その後、彼は列の先頭を歩き、兄と和解しました。
   砕かれる機会は人生にそう何度もあるわけではありません。それは、患難に襲われた時、辛い出来事に出会った時だと、聖書ははっきり教えています。この時、口先だけで祈るのではなく、かたくなな心と戦って心を神に向けなければ、平安を得ることはできません。砕かれる体験によって、真の平安をつかみ、人生が変えられます。
   ヤコブは神に立ち返り、自分は何のために生きるのかを示されました。それまで自分のためにしか生きてこなかった彼が、何のために生きるのかを神に示され、誠の平安が訪れました。
   自分の罪にぶつかる時、心を神に向けることができるようになるのです。それは、自分の中に強情に住み着いてきたかたくなな心を壊し、へりくだるチャンスです。この体験をした人だけが、苦しみにあったことは幸いだったと言えるようになるのです。
   ぜひ、上辺だけで礼拝したり、上辺だけで神と付き合うことをやめ、顔を付き合わせて神と出会ってください。人生の中で、一度でもそのような体験ができれば幸いです。