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2013年7月7日
『彼の愛から誰も引き離せない』
(新約聖書 ローマ人への手紙 8章31節〜)
   信仰とは、まだ現実に見ていないことを信じることです。ですから、どんな人でも大丈夫だろうかと不安になります。この不安に打ち勝つには忍耐が必要です。
   神は、そんな私達をただ傍観しているわけではなく、祈りを通して忍耐できるように助けてくださいます。忍耐を邪魔するものを取り除いて、祈りが妨げられないようにとりなし、すべてのことを益とすると約束して、励ましてくださっているのです。
   私たちが救われるという信仰を持つことに不安を感じるのは、救われるためには徳(良い行い)を積まなくてはいけないという思い込みがあるためです。この世の中は、徳を積まなければ褒美がもらえず、人から認めてもらえません。そのため、神は行いとは関係なく救うと言われると、本当に信じるだけで救われるのだろうかと、不安になってしまうのです。

『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:31)

   不安を抱く私たちに、神が私達を助けると言うのだから、誰も敵対することはできないのだと、神は語りかけます。
   私達は幼い頃から、親に怒られるではないかと不安を抱き、人との交わりに不安と恐れを抱いて生きています。
   しかし、神を信じる私達には、神が味方になってくださるので、誰も敵対できないし、失敗しても神が修復してくださるから大丈夫、何も心配する必要はないのです。なんと安心なことでしょうか。なんと私たちの心を楽にしてくれることでしょうか。
   旧約聖書の中に、多くの敵を前にして不安になった若者に対して、エリシャが彼の目が開かれるように祈ると、若者に多くの天の軍勢が自分を守っているのが見えたという記述があります。
   このように、私たちを造った神が保証人となって私たちを守ってくださっているのです。見えないものを信じようとする時、私達は必ず不安と恐れを抱きます。そのような時には祈りましょう。神は必ず助けてくださいます。助けを受けることを繰り返して、祈ることを覚え、恐れと不安に打ち勝つことを覚えていきましょう。

『私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:32)

   私たちを助けるために、神は最も大切なご自分の御子イエス・キリストさえ十字架につけて、本来私たちが受けるべき死を代わりに受けてくださったのですから、他の物をケチることなどありえません。
   イエス様の十字架が本当にわかれば、神がいつも守ってくれることがわかるようになります。自分の子どもを助けるために命を捧げる人が、他のことをケチってダメだと言うはずがありません。
   神は私たちを愛し、助ける方です。ですから、どのようなことでも祈りましょう。あなたが追い込まれることがないように、神は必ず助けてくださいます。

『神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:33,34)

   神に選ばれた人々とは、神がいのちを与えた人々、すなわちクリスチャンのことです。神が私達にいのちを与え、信仰を与えてくださいました。神は義なる方です。義なる神が永遠のいのちを与えるとは、義と認めるということです。これは、行いとは関係なく神が一方的に与えてくださるものなのです。いのちを与えて救うのは、神です。変更も取り消しもありません。しかし、多くのクリスチャンが自分の行いに目を留めては、この確信がゆらぎ、自分は天国に行けるのか不安になってしまっています。
   死とは神との関係が壊れることで、永遠のいのちの反対です。罪に定めるとは、神との関係が壊れたままで、関係がないことです。

『罪から来る報酬は死です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:23)

   自分の行いを見て、これでもクリスチャンと言えるのかとさばいてしまう時も、私たちが心配しなくても、キリストがとりなしておられるのです。
   確かに私達は、見た目はとても義人には見えません。罪があるのは事実でも、キリストがとりなしておられるのですから、心配する必要はありません。救いは永遠なのです。


なぜ救いは永遠なのか?

1.私たちの行いで手にしたものではないから

   救いとは、神の側からつかんでくださったことなので、私たちの側からどうすることもできません。ですから、私たちの行いで取り消すことなどできないのです。

『あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たのではなく、神からの賜物です。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8)

   イエス・キリストを信じるならば救われます。信仰は自分から出たものではなく、神から頂いたものです。自分から出たものは信念です。知識や経験によらず、信じられるのは、自分から出たものではなく神からの賜物だからです。

2.イエス様がそう言われるから

『父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:37〜40)

   神がいのちを与えて救った者、すなわち、神が信仰を与えた者は、イエス・キリストを信じるようになり、教会に集うようになります。私達は自分の側からではなく、神の側から助けられたのです。
   キリストがこの世に来られた目的は、神から命を与えられた者を一人も失うことなく、神の国まで導くことです。
   キリストを信じる人は永遠のいのちを持ち、神はその人々をひとり残らずよみがえらせ、朽ちない体にして天の御国に入れてくださいます。一人として見捨てることはなさいません。

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:35〜38)

   私達が出会う様々な患難や危険は、私達の中に死があるために起きています。死が入り込んだために、人間関係・自然との関係も変わってしまい、そのために、ほふられた羊のようになっているのです。
   しかし、見えるところでは、死ぬべき体を持ち様々な困難にぶつかる私達ですが、その中でも圧倒的な勝利者となり、希望を持つことができるのです。

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1,2)

   「原理」と訳されている言語はロゴスと言い、この世の法律・律法・原理・原則・自然界の法則などを表す言葉です。つまり、罪を犯すと死ぬという法則があり、神との関係が壊れるという法則によって死が入ったわけですが、神はそれに対して、まったく新しい原理を造られました。それは、イエスを信じればいのちが与えられるという法則です。この救いの法則によって、もともとあった原理が適用されなくなったのです。イエスを信じれば救われるという原理が、罪と死の原理から私達を開放したのです。
   世の中のものの見方で聖書を読み、神との関係を捉えてしまうと、間違った理解になってしまいます。自分は救われているのだろうかと不安になるのは、行いによって救われる、褒められるというこの世の原理で見ているからです。
   私達はこの世の原理によってではなく、いのちと御霊の原理によって神によって拾い上げられたのです。ですから、何も心配する必要はありません。すでに神との関係は回復しているのですから、救われるため、ほめられるために良い行いをするのではなく、救われた者にふさわしい行いをしようではないか、と聖書は教えているのです。それは、神のご計画に従い、神からいただいた賜物を生かし、神のために生きる生き方をすることです。