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2013年6月23日
『虚無に服する』
(新約聖書 ローマ人への手紙 8:19〜)
   心がつらくなったり、体に痛みを感じたりすることを、人は嫌がるものです。そして、多くの人は、そのようなことが起こると、自分は神の罰を受けているのではないかと疑います。果たしてそうなのでしょうか。
   神は、私達が人生の中でぶつかる問題や辛さを一切感じないようにすることもできます。しかしそれは、毎日麻薬を投与しているようなものです。麻薬は、私達が傷を負っても病気になっても痛みや辛さを感じさせません。もし、痛みを感じなければ、傷や病気に気づかないまま、治療を受けることなく死んでいくことになります。それは、私たちにとって本当に良いことと言えるのでしょうか。

『被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:19,20)

   被造物とは、神が造られた動物、植物、地球等のすべてのものを指し、それらが切実な思いで救いを待ち望んでいるといいます。
   神は本来、すべてを永遠のものとして造られたのですが、今すべてのものは、虚無、すなわち、虚しさに服しています。それは、すべてのものが滅びる運命になったということです。事実、私達が存在する宇宙ですら、寿命があり、やがて滅びます。
   なぜ世界は虚無に服することになったのか、それは神によるものであり、そこに希望があるからだと、聖書は教えています。ローマ8:20を直訳すると、「神が希望に基づいてそうした」となります。

『被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:21〜23)

   「からだが贖われる」とは、死ぬべき体が永遠のいのちを手にし、滅びない体になることです。私達人間だけでなく、この世界のすべてが、それを待ち望んでいるというのです。
   神が、ご自身が造ったものを虚無に服させた希望とは、どのようなものでしょうか。希望があるから虚無に服させたとは、いったいどういうことでしょうか。
   創世記3章を見てみましょう。ここに、永遠に生きるように造られた人間が、違反を犯したために、死ぬものとなった様子が記されています。「死」という概念を説明する言葉はありませんが、それまで滅びを体験したことのなかった世界に、初めて死が入り込んだこの出来事を理解することで、死とは何かを理解することができます。

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』(旧約聖書 創世記 3:6)

   アダムとエバが犯した違反(罪)とは、食べてはならない実を、蛇に騙されて食べたことです。神は、「この実を食べると必ず死ぬ」と言われました。つまり、死とは何かを知るためには、この実を食べた後に二人に起こった変化を知れば良いわけです。

『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(旧約聖書 創世記 3:7)

    神の言葉に違反した結果、二人に起きた変化は、第一に、目が開かれて裸であることに気づいたということです。これは何を意味するのでしょうか。
   人は、神に似せられ、神との関係の中で生きるように造られました。聖書に、私達はキリストの体の一部であり、一人一人は各器官であると書いてあります。アダムとエバはそれまで神の中で生きる自分を見ており、自分自身の姿を気にする必要はありませんでした。神だけを見上げていれば良かったのです。ところが、彼らは神との関係を壊してしまい、神の中にいる自分の姿ではなく、自分自身しか見えなくなってしまったのです。自分が裸であることに気づいたとは、そういう意味です。
   このように、死とは、神との関係を失うことです。神学的な言葉では、霊的な死と言われます。
   全ての人は、霊的な死を背負って生まれて来たわけですが、この死の恐ろしさをまったく認識していません。アダムとエバですら、自分たちに起きた変化がどれほど大変かということがわかっていません。
   今、何が人間の一番の苦しみや問題かと尋ねたら、肉体の苦しみや人間関係の問題をあげる人はいても、神との関係が一番の問題だと考える人はほとんどいないでしょう。
   しかし、神の側からすると、神との関係がないということは、大きな問題です。その人は生きているようで死んでいるのです。
   聖書の中に、イエス様が十字架にかかる直前、ゲッセマネという園で祈った記述があります。その時イエス様は、恐れ悶え、悲しみのあまり、血の汗を流したと記されています。
   これは、決してこれからかけられる十字架の死を恐れたわけではありません。神は十字架の死など恐れてはいません。歴史の中にも、この日本にも、人のために喜んで自らを犠牲にした人は大勢います。イエス様は命を与えるためにこの地上に来られたのであり、ご自身が3日目によみがえることも知っておられました。そのイエス様が恐れたものは、肉体の死ではなく、霊的な死・・・たとえ3日間といえども、神との関係が完全に断ち切られることなのです。
   繰り返しになりますが、神にとって死とは、神との関係がないことです。イエス様は十字架で死ぬことで、一時的とはいえ、父なる神と聖霊様との関係を失います。この霊的な死がいかに恐ろしいものかをイエス様ご自身が表しておられます。
   聖書に「永遠の死」という言葉がありますが、神との関係がない状態は、生きていても実は死んだ状態です。木の枝を切って花瓶にさしておけば、多少の養分が残っているから見た目は生きているように見えますが、その行き着くところは確実に滅びであり、その枝は見た目は生きているようでも実は死んでいます。
   私達もまったく同じです。見た目は何も変わらないようでも、神との関係が断たれ、もはや生きてはいません。二人は蛇に騙されて、この大変な状況を招いてしまったのです。

『神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』(旧約聖書 創世記 3:9〜13)

   この出来事に、神は大変なショックを受け、人に入り込んだ死に対して対応を始めました。多くの人は、死は神の罰だと考えています。しかし、これは罰ではなく、神はむしろ、とんでもない事態に陥った人を救おうとしておられます。
   神は、人が永遠の死に至り、滅びることがわかっていました。そこで、彼らがその状況を正しく認識し、つらさを感じ、痛みを覚えて、助けを求めることができるように、見えるものがすべて滅びることを止められませんでした。それが、希望に基づいてすべてを虚無に服させたということです。
   神は、この悲惨な状況を改善し、助けることができるのは、神しかいないことを知っておられました。しかし、人間は神のロボットではなく、人格が与えられており、自分の意志で助けを求めない限り、どうすることもできません。虚無は希望に基づいているとは、神が助けるという希望に気づくための虚しさを与えられたということです。
   私達は痛みを覚えなければ医者に行きません。神は、人が自分の置かれている状況に気づかなければならないと考え、このような対応を取ったのです。

『それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:20)

   では、神が用意している希望とは、具体的にはどのようなものでしょうか。
   それは、第一に、永遠に生きる希望です。第二には、誠の平安を得る希望です。さらに、永遠の命を得て、心に住み着く罪が赦され、心がいやされるという希望もあります。これらは決して人の力では得られないものです。神はそれを与えたいのです。
   しかし、アダムとエバは、神との関係を失った結果、見えるものにしがみついて自分をよく見せようとするように変化しました。そこから、人からよく見られようとするつらさが生まれ、今も私達の中に様々な問題を引き起こしています。
   神は、私達の中に平安な義の実を結ばせるために、愛する者を懲らしめると聖書にあります。(ヘブル12章)懲らしめというと、私達は罰のように思いがちですが、そうではなく、むしろ教育・しつけという意味があります。私達に、自分に何が必要かを考えさせ、助けるという深い愛によるものです。
   ですから、私達がつらさ、虚しさを感じるのは、神の恵みに至る入口です。

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:9)

   イエス様を信じれば救われます。この告白こそ、希望を手にするため、永遠のいのちを手にするための入口です。何も立派なことをする必要はありません。イエス様に希望があり、イエス様にしか希望はありません。
   そして、救われた私達は、心の中がいろいろなもので傷ついているので、癒される必要があります。それが次のステップ、罪の赦しです。
   自分のしたことを自分で何とかしようとしても、どうすることもできません。しかし、神に助けを求めれば、神は助けてくださいます。共に生きておられる神を知るとき、必ず平安を得ます。試練にであったら、とにかく神様を信頼して戦いましょう。

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2〜4)

   神を信頼する戦いとは、信仰を働かせることです。神はあなたに平安を与えるために、この世界を虚無に服させたのです。いろいろな問題に出会うのは、この世が虚無に服しているため、つまりあなたに平安を与えるためです。試練を通して、希望を与えようとしておられるのですから、神を信頼しようと戦ってください。つらい時こそ、神が恵みを与えたいと待っている時なのです。
   もし人生になんの試練もなければ、私達は神を頼りません。何も気づかないまま永遠の死を迎えます。なんと悲惨でしょうか。
   この世の富を得ても、神の前に富まない人は虚しいと聖書は教えています。見えるものにごまかされて現状に気づかないからです。イエス様が、一番初めのメッセージで人々に語られたのは、心の貧しい者は幸いということです。神との関係が断ち切られている霊的なつらさを感じ、乾きを覚える人は、なんと幸いなことでしょうか。
   神との関係を回復しない限り、何を手に入れてもすべてが虚しいのです。問題やつらさに対して、なぜとつぶやくのではなく、神が待っておられる素晴らしい恵みのチャンスであることを信じて、神を信頼するために戦い、誠の平安を手に入れましょう。