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2013年6月9日
『肉の思いと戦う』
(新約聖書 ローマ人への手紙 8:3〜)
   イエス・キリストの十字架は、私達を罪から贖い出し、つらさ、苦しさから助け出して平安を与えます。それはどのようになされるのでしょうか。

『肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:3〜4)

   「肉によって無力になった」とは、「死ぬべき体によって神を愛することができなくなった」ということです。人間はもともと神を愛するように造られたのですが、アダムの違反によって、神との関係が壊れる死が入り込み、心の糧も体の保護も失いました。その不安によって、人は見えるものにしがみつき、本来の心が力を失って肉なる心に支配され、人や神を愛することができなくなったのです。
   律法は神を愛し人を愛することを要求します。ところが、死ぬべきものとなった人間は、神を愛する心も死んだ状態になり、見えるものにしがみつく心が生まれ、神を愛したいのに実行できないのです。パウロはそのことを、『肉によって、自分がしたいと思うことができなくなっている』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:15)と言っています。人はみな、神を愛するよりも、人から愛されることや、見えるものにしがみついて安心を得ることを求めてむさぼる惨めな状態にあり、律法の求を全うすることができないのです。

   キリストは、律法の要求を全うできなくなった私達が、「神を愛する心」を取り戻せるように、私達と同じ死ぬべき体を背負ってこの地上に来られ、十字架にかかり、肉において肉なるものを滅ぼしてくださいました。それにより、人は律法の要求を全うすることができるのです。


「どのように律法の要求を全うするのか」

   律法の要求を全うするには、人間が本来持っていた神を愛する心を取り戻せば良いのです。
   私達の中には、肉の思いと御霊の思いの両方があり、どちらに従うのか選ぶことができます。『肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:5)肉的な人は、人からどう思われるかどうしたら見えるところの幸せを手に入れられるのかということがいつも優先されますが、御霊の心を活かそうとする人は、どうすれば神をもっと信頼できるかということに心を向けます。
   どちらのクリスチャンも天国には行けますが、肉に属する人が築き上げたものは何も残りません。他方、御霊に属するクリスチャンはいのちと平安の実を結び、神を信頼する心を豊かに持って天国に行くことができるのです。聖書はそのことを、『肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:6)と言っています。

   神は、この神を愛し信頼する心=平安の実を、私達の中に育てたいのですが、この世の心遣いと富の惑わしという肉の心がそれを邪魔しているのです。肉の思いと御霊の思いは相反するので、両方に仕えることはできません。『というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:7)目指すところが全く違うのです。肉の思いで手に入れた平安は一時的なもので、むしろそれを失う不安や恐怖が生まれて、かえってつらくなります。そのつらさから逃避するために快楽に走りますが、決して楽にはなれません。それは、内側に住んでおられる神が喜ばれないからです。『肉にある者は神を喜ばせることができません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:8)クリスチャンは、そこから逃れるために神に助けを求めたはずなのに、再び同じことを繰り返してしまうのです。


『けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:9)

   キリストは、十字架で私達の罪を滅ぼし、神と私達の関係を回復してくださいました。それは、神ご自身が私達の中に、共に住まわれるためです。それにより、神が共に住まわれるようになったので、肉なる思いで死んでいた私達の霊は、生きるようになりました。

『もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:10〜12)

   神が共に住むことによって、キリストをよみがえらせたように、神ご自身が私達の間違った肉の心を取り除き、神を愛するようにさせ、私達を生き返らせます。
   神が私達の中に住んで働いておられるのですから、私達はもう肉に従って生きる必要はなく、見えるもので心を満たす必要もありません。ですから聖書は、肉の思いと戦いなさいと教えているのです。もし戦わず、そのまま肉の思いで生きても、私達がこの世で築き上げるものは何一つ残らず、平安を手にすることはありません。天国に行けないわけではありませんが、神が与えようと願っている恵みを受けることができないのです。

   十字架は、神が共に住むという意味があります。自分のつらさを自分の力でなんとかしようとしても、肉によって無力な私達は何もできませんでした。自分でしたいと思うことができない、自分の惨めさに打ちひしがれる私達に、その無力さゆえに神がしてくださるのだと、神の恵みを知ることができるのです。なぜなら、主が十字架によって私の中に住まわれたので、イエス・キリストをよみがえらせたように、私を助け出してくれることに気づくことができたのです。
   イエス様は、肉の思いに支配されていてどうすることもできない私達の中に入って、その罪の治療を開始されました。罪は病気です。神は私達に、神を信頼し、肉なる生き方をやめ、平安を手にすることを願っているのです。


「どうやって肉の思いと戦うのか」

   私達の中には、肉の思いと御霊の思いが混在しています。私達を苦しめ、つらくしているのは肉の思いです。神は、肉の思いを十字架で倒し、本来の心に回復させ、平安を得させたいと願っておられます。

1.表の罪と戦う

   肉の思いは、表の罪となって現れます。罪には、表の罪と裏の罪があります。表の罪とは、見えるところの悪い行いで、裏の罪とは心を神に向けない肉の思いです。全ての表の罪は、裏の罪がある結果です。ですから、聖書は裏の罪があることを指摘しますが、裏の罪に取り組むためには、まずは表の罪である自分の悪い行いと戦う必要があります。行いの罪を放置していると、肉の思いがますます強くなり、神に心が向かなくなります。まずは、聖書が教える「隣人を愛しなさい」、「父と母を敬え」、「嘘をついてはいけない」など、それに従えない行いの罪との戦いに取り組まなければ、その原因である肉の思いとの戦いに取り組むことはできないのです。

2.怒りと戦う

   心を神に向けない肉の思いのエネルギーは「怒り」です。怒りとは、カッカすることとか、イライラすることとかそうした表面的なことしか認識されませんが、怒りとは不安そのものを指します。人は、不安だから怒るのです。怒りと不安は表裏一体なのです。
   表の罪と戦うことに取り組み始めたなら、次に、それを邪魔している「怒り」に気づき、それを治める戦いをすることです。怒りを治めることは、神が人間に最初に指導された内容です。創世記に、神がアベルを憎むカインに対して、その怒りを治めるように教えられた場面が記されています(創世記4:1〜7)。

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:26)

   怒りは様々な表の罪を引き起こします。怒りを放置せず、その日のうちに処理しなければなりません。自分の中にある怒りを認め、神に助けを求めるのです。
   多くの人は怒りをエネルギーにして、相手を変えようとしたり、自分の価値を見出して相手を見返してやろうとします。しかし、怒りをそのまま放置しておくと、それは憎しみに変わり、相手を許せないという思いに変わります。許せないと思う時、心を神に向けることなどできません。許せないその先は、相手を殺すか自分が死ぬかしかありません。これが人のつらさの頂点です。
    怒りを放置すると、悪魔に機会を与えることになります。私達の心を見えるものに縛り付け、虜にすること、これを聖書ではサタンの罠と言っています。

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10〜11)

   怒りや不安がこみ上げてきたら、「イエス様、私はいま怒っています。助けてください。あわれんでください。」と神に祈りましょう。

3.不信仰と戦う

   心を神に向けない肉の思いの実体は、「不信仰」です。不信仰とは、神の言葉を否定することです。ですから、これと戦わなければ、いくら表の罪や怒りと戦ったところで意味がありません。しかし、表の罪や怒りと戦うからこそ、不信仰が見えてくるのです。
   不信仰は、つぶやいたり、つまずいたり、傷ついたと言って相手を責めたりという姿になって現れます。つぶやくのは、神の言葉を否定し、従わないからです。また、傷つくのは、神の言葉よりも、人が言ったことを信じるからです。神は、私達のことを高価で尊いと言っておられます。助けるとも約束してくださっています。しかし、人は、それを信じようとしないから、つぶやくのです。これが不信仰であり、肉なる思い、御霊に逆らう思いなのです。

『なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:6〜8)

   キリストを信頼する人は失望しません。失望するというのは、神を信頼していないのです。信頼しない人にとっては、イエス・キリストがつまずきになってしまうのですが、それはキリストという石のせいではなく、彼らがみことばに従わないからです。神がいるならなぜこんなことになるんだ、と神のせいにし文句を言うのは、それは神の言葉を信頼しようとしないからです。私達は、こうしたつまずき、つぶやきと戦う必要があります。
   困難になったら、神に祈ることです。つぶやく思いと戦うことです。神に感謝する言葉を発して、肉なる思いと戦うとき、背後で神はそれを助けくださいます。

『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:8,9)

   肉の思いに気づいたならば、それを神に言い表して差し出せば、神がそれを取り除いてくださる、これが神の福音です。こうして、神を愛する心が回復し、平安が戻ってきて、本来の姿を取り戻すことができるのです。