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2013年6月2日
『罪は病気』
(新約聖書 ローマ人への手紙 7:15〜)
『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:15〜17)

   良くないと分かっているのに、ついやってしまうという経験が、皆さんにもあるでしょう。パウロも同様に、自分は自分が憎むことを行っているが、それでいいと思っているわけではないと告白しています。この状態をパウロは、自分の中に勝手に住み着いている罪が私を支配し、私が同意しないことを実行していると言っています。
   パウロは神の律法を実行しようとしましたが、むしろ自分の罪に気づきました。律法とは、自分の罪に気づくためのものなのです。パウロは、罪に同意しているのではなく、律法に同意し、律法は良いものだと認めているのですが、それでもなお自分でしたくないことを行ってしまうのは、もはや自分自身ではなく、自分の中に住み着いている罪が勝手に行っているからだと言います。

『私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:18〜21)

   悪い行いをするのは、自分ではなく、自分の中に住み着いている罪だということは、罪は人間の本性ではないということです。つまり、もともと人間の中に備わっていたものではなく、勝手に住み着いて悪さをする病原菌のような存在です。
   ですから、悪いことをする自分はダメな人間だと責めても意味はなく、むしろその病原菌を取り除き、癒すことが大切です。
   もし、罪の性質が人に備わっている本性ならば、その罪を取り除くには、その人自身を取り除かなければなりません。しかし、イエス・キリストの十字架は、あなた自身が滅びることのないようにあなたを救い出し、あなたの罪を取り除くものです。それがキリスト教の福音です。
   ですからイエス様は、人間が罪を犯してもその人自身に腹を立てることなく、その罪を癒そうと言われるのです。主が「裁くな、赦せ」と教えているのは、悪い行いは人の本性に起因するものではなく、病原菌のせいだからです。病原菌を取り除けば、その人は癒されるのです。

『すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:22,23)

   本来律法は自分の罪に気づくためのもので、それを差し出して罪の癒しという恵みに預かるために使うものです。ところが、律法を通して何が正しいことかを知ったクリスチャンは、律法を守ることで、自分をよく見せようとしてしまう傾向があります。罪の律法の虜とは、人を裁くものさしや自分の誇りのために、律法を使うことです。表面的な行いの○×を判断するために律法を用いて生きることです。


罪とは何でしょう?

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   罪とは神に心を向けないことです。すなわち、神を愛さないことです。愛さないとは、信頼しないということです。
   私達の中に死が入り、罪が私達を支配するようになった時から、神に心を向けずに生きるようになりました。死とは神との関係が断たれることです。神と離れたことで心の糧を得られなくなった人間は、神を愛する心(御霊の思い)が分割して、人の愛や富を求める心(肉の思い)が誕生しました。これが、「ねばならない」という律法を作り出しました。人の愛や富を求める心は、神の方向には向いていません。クリスチャンになって神の方向に心を向けるようになっても、人の愛や富を求める心から生まれた「ねばならない」という律法が残っているため、神に心を向けることができなくさせられているのです。

『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:23)

   罪は死という報酬を招き、死はさらに罪を招きます。すべては死によってもたらされた結果です。

『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)

   このように、罪は人間がもともと持っていたものではなく、後から入り込んだ病原菌のようなものです。このことは、何を意味するのでしょうか。それは、人間の本性に罪があったのではなく、人はもともと良き者として造られているということを意味します。良い者として造られた人間が、罪という病気になったというただそれだけのことです。
   人は、自分をダメだと思う時、もともとダメなものを良いものに変えようと頑張ってしまいます。しかし、もともと良い者だから元の健康な自分を取り戻せばいいだけです。聖書は、私達はもともと良い者であり、住み着いた罪が私達を醜くし、その罪が癒されると、本来の良い者の姿が現れると教えています。キリストの十字架がそれをしてくださったのです。


『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:24,25)

   自分は本当にみじめな人間だが感謝だ、と言えるのはなぜでしょうか?今までは自分の罪深い姿を見ると、自分はダメだと思っていたけれど、そこにキリストが介在することで、罪の癒しというこれ以上はない大きな恵みを得ることができたので、感謝だと思えるようになったのです。
   キリストと私達は、医者と病人の関係です。頑張ったらほめてもらう関係ではありません。自分ではどうすることもできない病気を癒してもらい、その愛に対して感謝と信頼でつながる関係です。ですから、病気でなければ、神と関係を築くことができません。そのため、病気であること、罪人であることは感謝なのです。
   罪に気づいて赦されることで、神を愛する者となります。愛する心は癒されたと気づくことで育ちます。癒されることで、神を愛する心を取り戻すことができるのです。これが罪の赦しの恵みです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   神の言葉を実行すれば、必ず自分の罪に気づくことができます。その罪を言い表すなら、神は罪を取り除いてくださいます。神の赦しは、完全な赦しです。罪を言い表すだけで、無条件にあとかたもなく完全に取り去ってくださるのです。

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1,2)

   神は、一度救われた者と神との関係を断ち切ることなどしません。それは行いではなく、信仰によって救われたからです。
   多くのクリスチャンが、自分の行いを見て、自分をさばき、自分はクリスチャンになったのにこれでいいのか、救われたと言えるのか、天国に入れてもらえないのではないかと不安を持っています。聖書は行いによって救いは取り消されないと教えているのに、この世の中で培った「罪には罰がある」という経験によって、御言葉が惑わされています。神は、あなたの罪の病がどれほど重くても、医者であるイエス様は決してあなたを見捨てないと言っておられます。

『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 5:15,16)

   信仰による祈りとは、心を神に向けることです。心を神に向けた時、あなたは癒されています。イエス様が十字架にかかられたのは、あなたの罪を癒すためです。神に自分の罪を言い表しましょう。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

   罪が取り除かれること、赦されることは、癒されることです。イエス様は、私達が良き者として造られたことを知っているので、罪は病気だと知っておられます。だから、自分で罪の重荷を背負うのはやめて、早く私のところに来て癒されなさいと、あなたの心のドアを叩いて待っておられます。
   もしあなたがそのドアを開き、罪を言い表して悔い改めるなら、神はあなたに罰を与えるどころか、共に食事をすると言われます。共に食事をするとは、共に生きるという意味です。自分の罪を見て、愛されるはずがないと思っていた私たちですが、神はあなたを愛していることを教えたいのです。罪を言い表すことを通して、愛されていることにもう一度気づきましょう。愛されていることに気づくことによって、神を愛する者となれるのです。これが癒しです。

『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(新約聖書 黙示録 3:19,20)


   肉の律法によって神の恵みを勘違いして、裁かれるのではないか、罰を受けるのではないかと、今まで罪を隠す生き方をしてきた人も、もう罪を背負って生きるのはやめましょう。あなたの罪を言い表すなら、神がそれをなんとかしてくださるのです。
   神はあなたを裁かず、罰を与えることもなく、あなたがドアを開ければ、罪を取り除き、共に食事をしてくださいます。そのことを通して私たちは癒されるのです。罪が自分自身なのではなく、勝手に住み着いているものです。それを知ることで、また、人を裁くこともなくなります。愛する心を取り戻すことができるようになるのです。