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2013年5月26日
『律法について』
(新約聖書 ローマ人への手紙 7:1〜)
   私達は、幼い時からの社会の習慣によって、良いことをすれば良い報酬を得ることができると無意識のうちに理解しています。そして、死んだらどうなるのだろうかという不安に対しても、無意識のうちに、良いことをすれば報酬として天国に行くことができ、天国で生きることができると信じています。
   しかし、神の福音は、天国は良いことをした報酬として与えられるものではない、と教えています。

『それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか―私は律法を知っている人々に言っているのです。―
夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:1〜4)


   1〜3節は、死んだ人に対して律法は効力を持っていないことを確認しています。例えば、夫のある女性が他の人と結婚することはできませんが、夫が亡くなれば他の人と結婚しても姦淫ではありません。
   律法とは行いを定めた規定であり、それに違反することが罪です。そして、罪に対する報酬は死、すなわち神との関係が断ち切られることです。
   律法に対して死んでいるとは、神との関係が回復した者には、死という報酬はもうないということです。罪を犯したら死ななければならないという律法は、神との関係を回復した者には無効です。
   律法とは、自分の罪に気づき、救いを求めるために必要なものであって、救いを受けた私達を再び死に定めるものではありません。
   罪は神との関係が壊れるという報酬をもたらしましたが、福音はその壊れた関係を回復しました。つまり、救われた者には、もう死はありません。それが律法に対しては死んだということです。

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1)

『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:38〜39)


   なぜ神との関係を回復した者は罪に定められないのでしょうか。それは、律法の規定を守ることによってではなく、神からの賜物である信仰によって救われたからです。信仰によって救われたのに、行いによって救いが取り消されることはありません。神との関係が回復した者は、罪に対して死んでおり、罪に定める律法は有効ではないのです。
   一度神との関係が回復したら、二度と罪に定められることはなく、その点に関して律法は死んだも同然です。神との関係の回復は、完全な回復です。
   ところが多くのクリスチャンが、救われているにもかかわらず、自分の行いを見て自分はダメな人間だ、本当に救われていると言えるのだろうかと不安になります。そこで、聖書が教えているような良い人間になろうと頑張り、達成できると安心します。これは、行いに頼って自分の義を明らかにしようとする行為です。そうではなく、行いが達成できたことを神に感謝して誇るのではなく、神を信頼することで安心を得なさい、と主は教えています。

『私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:5)

   神のために結ぶ実(4節)があり、死のために結ぶ実(5節)があると言われています。それは、どのような実でしょうか。
   救われる以前は、律法の規定に従うことで少しでも安心を得ようと、罪の欲情(肉の思い)が、私達の中に働きました。肉の思いとは、わかりやすく言うと、1.よく思われたい・愛されたいという欲求、2.富を得たいという欲求、3.体の欲求ということになります。
   肉の思いは、律法によって目覚めます。つまり、規定があることで、それをクリアして、人よりも多くの賞賛や富を手に入れようと頑張る気が起きます。人から良く思われる名誉や富や肉体の満足を手に入れて、見えるところの実を手に入れても、それは死のために結ぶ実です。

『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。』(新約聖書 マタイの福音書 6:1〜2)


   律法とは人の行いを判断する規定です。その規定を神との関係が回復していない人は、人から良く思われるために使ってきました。しかし、神との関係が回復した者は、同じ律法を通して罪に気づきます。そして、悔い改め、癒されて、神への信頼を増し加えて、平安の義の実を結ぶのです。これが神のために結ぶ実です。
   神が種を蒔いたのは実を収穫するためです。その実とは、神を愛する心、神を信頼する心です。それは、私たちにとっても平安を与えます。

『しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:6)

   神との関係を回復したのは御霊の働きです。だから、私達は御霊によって生かされています。律法によって生かされているのではありません。
   律法は私を罪に定めることがないのならば、律法は何のためにあるのでしょうか。律法はもう不要なのでしょうか。

『それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:7,8)



   律法は私達を罪に定めるためではなく、神との関係を回復するために必要です。律法がなければ、私達は何が罪かわからず、罪の中にあってもまったく罪に気づくことはできませんでした。
   律法がなければ罪は隠れたままなのです。悪い行いは罪だと気づきますが、それは聖書が教える罪のほんの表面です。悪い行いに至る根本原因は、神を信頼しない不信仰です。もし聖書がなければ、神を愛さず信頼しないことが罪だと知ることはできません。

『私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:9〜11)

   パウロはこう証ししています。かつては聖書の言葉を知らずに生きてきたけれど、神の律法を知り戒めを守ることで救われると教えられ、それを実行した結果、自分の中に罪があることがわかり、自分は救われないということがわかってしまったと。パウロは、頑張れば頑張るほど自分が偽善的で罪深い者だということが分かり、絶望しました。そして、救いに導くと思っていた律法が自分を救うのではなく、神ご自身が救ってくださるのだと知ったのです。律法を守ることに希望があるのではなく、かえって希望を失わせるものであり、神ご自身の救いに希望を見出すように導くものだったのです。

『ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:12,13)

   律法は罪を明らかにし、行いによっては救われないことを教え、神の救いを教えてくれたのだから、聖なるものです。律法が罪を生み出したのではなく、私の中にある罪が自分自身を苦しめていることを、律法が気づかせてくれたのです。

『こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:24)

   これが律法の本来の役割です。

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(新約聖書 ルカの福音書 18:9〜14)


   このパリサイ人は、律法を自分の義を証しするために使っています。一方の取税人は、律法を全く守ることができない自分を自分でもどうすることもできないと、ただ神に憐れみを求めました。
   完全に神を愛する心で行いが出来る人などいません。どんな異性を見ても素敵だとまったく思わない人もいません。ですから、心で思うだけでも罪だと定める聖書の教えでは、罪を犯していない人はいないのです。
   律法とは、自分の義を証しするためにあるのではなく、自分がいかに罪深いかを知るためのものです。人間は自分の罪をどうすることもできません。神の恵みにすがるしかなく、それを求めることで、神の恵みを体験し、神を愛するようになっていくのです。
   律法を守って正しさを示そうとする人は、人を裁きます。人の罪をさばき、自分をさばきます。律法を守れないと、自分はダメな人間だと思ってしまうのです。
   しかし、律法は自分の罪に気づかせ神の憐れみを求めさせるためのものだと理解できるようになれば、律法が守れない自分を裁くことなく、自分の罪深さを知り、神に罪を赦していただくことを欲するようになります。

   このように、律法は大切なものです。律法を守れないことは罪ですが、神との関係が再び断ち切られるわけではないので、心配はいりません。神との関係が回復した私達は、自分の中に残っている古い習慣に気づき、取り除いていただく作業のために律法を使えば良いのです。それはこの取税人のように自分の罪を差し出すところから生まれます。そのようにして、神を愛する心、信頼する心を育てていきましょう。それが神のために結ぶ実です。